第13話 母の眼差し、隠れた笑顔
日常の中に潜む、ふとした心配の言葉。母の優しさは、紗菜にとってかけがえのない支えです。けれど同時に、その優しさが胸を痛める瞬間もあります。まだ夢への道を語れない紗菜。秘密を抱えたまま笑顔を作る彼女の心の揺らぎを描きます。
夕方、台所から漂ってくる匂いに、紗菜のお腹が静かに鳴った。
じゅうっと油がはじける音と、包丁の小気味よいリズム。
炒め物の香ばしさに混じって、味噌汁の湯気がふわりと鼻をくすぐる。
この家の夕食は、いつだって質素だけれど、母が心を込めて作るからこそ、何よりも温かい。
「紗菜、ご飯できたわよ」
母の声が居間に響く。少し掠れてはいるけれど、優しさが滲んでいた。
ちゃぶ台の上には、焼き魚、きゅうりの浅漬け、ほうれん草のおひたし、そして大きなお椀にたっぷりの味噌汁。
どれも決して豪華ではない。けれど、母が一日の疲れを押し殺しながら手際よく作ったその光景は、紗菜にとって世界一安心できるものだった。
「いただきます」
両手を合わせ、箸を取る。
魚の身を口に運ぶと、ふんわりとした甘さが広がった。
噛みしめるたびに、体の奥までしみ込んでいくようで、思わず目を細める。
でも、その味わいと同時に、胸の奥にじわりと重たい感情が広がる。
――私、嘘をついてるんだ。
母に、まだ本当のことを言えていない。
バイトを始めたことも、大会に出るためにお金を貯めていることも。
そして今、目の前で魚をほぐしてくれている母に、少しでも心配をかけたくないと思う自分がいる。
母は湯気越しに紗菜を見やりながら、ふと口を開いた。
「最近、夜、帰ってくるの遅いわね。練習? それとも……勉強?」
その問いかけに、箸が一瞬止まる。
耳の奥で心臓がドクンと鳴った。
図星だ。学校が終わってからはバイトに行き、帰ってきてからは壁打ちをしている。だから家に戻るのはどうしても遅くなる。
でも、ここで本当のことを言えば、母はきっと眉を曇らせる。
「学校でバイトは禁止されているでしょう」と、困った顔をするに違いない。
そして、大会のことまで話せば――「無理しなくていい」と止められてしまうかもしれない。
紗菜はほんの一瞬だけ迷ったが、次の瞬間には小さく笑ってみせた。
「うん、ちょっと練習してただけ。ほら、もうすぐ夏だし、体力つけておかないと」
母はそれ以上は追及せず、「そう」とだけ返した。
その声色は、どこか安心したようでもあり、ほんの少しだけ引っかかりを含んでいるようでもあった。
紗菜は味噌汁をすすりながら、母の指先を見つめた。
包丁で固くなった手。洗剤で荒れた爪。
それでも丁寧に魚の骨を取り除き、娘の皿にそっと置いてくれる。
その姿が、心に突き刺さる。
――ごめんね、お母さん。
――でも、私、やりたいことがあるの。どうしても諦めたくない夢があるの。
喉の奥まで出かかっていた言葉を、紗菜は味噌汁で無理やり押し流した。
ちゃぶ台の向こうに座る母に、まだ本当のことは言えない。
でも、胸の中には確かに誓いが燃えていた。
「大丈夫。私は必ずやり遂げる。全部やり遂げて、絶対に笑って報告するから」
その誓いは声にならなかったが、少女の瞳には強い光が宿っていた。
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食事も終わりかけた頃、母がふと、話を漏らした。
「紗菜、最近ちょっと顔色がよくない気がするわ。無理してない?」
その一言に、紗菜はドキリとする。箸を持つ手がほんのわずか止まり、すぐに動かし直した。
「ううん、大丈夫だよ。ちょっと勉強と練習で……でも全然平気」
言葉を重ねながら、精一杯の笑顔を作る。
母はその笑顔を見つめた。何も言わずに、ほんの少しだけ目を細めて微笑む。
「……そう。紗菜は本当に頑張り屋ね。私も見習わなくちゃ」
それだけで会話は終わった。追及するでもなく、疑うでもなく。
けれどその優しさが、かえって胸に刺さる。
――本当は、大会に出るためにバイトしてる。
――でも言えない。心配をかけるだけだから。
紗菜は味噌汁をすすりながら、心の中で小さくつぶやく。
「私は大丈夫。だから見守っていてほしい」
母は何も知らないまま、笑顔で箸を動かし続ける。
それが紗菜にとっては一番の救いであり、同時に、抱えた秘密の重さを痛感させる瞬間でもあった。
ちゃぶ台の上には湯気と、二人だけの静かな時間が流れていた。
そのひとときの温もりが、紗菜にとって明日を頑張るための力になっていた。
母の笑顔は何よりの救いであり、励みでもあります。けれど紗菜の胸には、どうしても隠さなくてはならない「本当の理由」があります。親子の温かな空気と、そこに差し込む小さな影が、これからの物語にさらに深みを与えていきます。
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