第10話 ひび割れても、前へ
夢を追いかける少女の前に立ちはだかるのは、相棒の限界。
壊れかけたラケットと、膨らむ参加費の重圧。
それでも紗菜は、工夫と努力で一歩ずつ進み続ける。
今日も、胸に燃える小さな炎を絶やさずに。
空がまだ青灰色で、街路樹の影が長いころ。
公園の隅にある古いコンクリートの壁は、朝露で少し冷たく光っていた。誰もいない。鳥の声と、遠くを走るバスの低いエンジン音だけが、薄い空気を震わせている。
紗菜はしゃがみ込み、チョークを取り出して壁の中央に小さな四角を描いた。こぶし一つぶんの標的。さらに地面にも、足幅ぶんのマス目をいくつか。今日のメニューは“振り回さない練習”。壊れかけの相棒に無理はさせない。
「よし。狙いはここ、足はこのラインね」
グリップを握り直す。ひびの走ったフレームに、そっと指を添える。大丈夫、今日は“当て方”を磨く日だ。
ボールを一度弾ませ、肩の余計な力を抜く。息を吸って――吐くタイミングで、前へ。
――パン。
控えめなスイングでも、ボールは壁の四角に触れて跳ね返ってくる。
――パン。
二球目も、小さく、正確に。反動が手首に返るたび、ひびの具合を確かめる。強くは振らない。けれど、打点だけは絶対に妥協しない。
「いち、に。いち、に」
小さく声に出してリズムを刻む。足は描いたマス目の中だけで運ぶ。踏み込み、戻り、スプリットステップ。タオル素振りで覚えた軌道を、そのままラケットに移す。
標的の四角に連続で当たると、胸の奥にちいさな火が灯る。速さも派手さもない。でも、確実に“できること”が増えていく感じ。
次はスライス。面を少し開いて、押し出すように。
――スッ。
柔らかい音とともに、ボールは低く滑って四角の下辺をかすめた。戻ってきたボールを今度は逆回転で合わせる。
――パン。
ひびの軋みはまだ我慢してくれている。よし。今日は“相棒に優しいメニュー”で徹底的に精度を上げる。
「次、足だけ」
ラケットを脇に置き、マス目の上でシャドーフットワーク。
前後、左右、斜め、戻る。膝の沈み込みを浅く速く。かかとを落とさず、つま先でリズムを刻む。
朝の静けさに、スニーカーの「トッ、トッ」という小さな音が心地よく響く。ふくらはぎが熱くなり始めるころ、胸のざわざわが不思議と消えていた。
(できる。工夫すれば、まだいける)
ラケットを持ち直す。今度はトスだけを十回。上げる、見る、落とさない。
風の向きと指先の感覚を合わせるために、目線をほんの少し遅らせる。ボールの糸を一本つまむように――落ちてくる点を“待つ”。
トスが安定してくると、たとえラケットが万全でなくても、体の中心がぶれないのがわかる。
最後に、壁の四角を二つに増やした。上段と下段。
「上、下、上、上、下」
自分に課題を出して、声に出してクリアしていく。外したら最初から。
三巡目で、上段右端をかすめてしまい、思わず舌を出す。
「もう一回」
額の汗を手の甲で拭って、呼吸を整える。
今度は面をほんの紙一枚ぶんだけ被せて――打つ。
――パン。
上。
――パン。
下。
――パン、パン。
上、上。
――パン。
下。
クリア。胸の中で、見えないスタンプがぽんと押される。
(派手じゃなくていい。私は、当てたいところに当てる)
壁の四角をじっと見つめる。ほんの数センチの世界で勝負できるなら、ラケットが新しくなくても、今日の私は昨日より強い。
不意に、ひびの入ったフレームを親指で撫でた。痛くないように、ありがとうを込めて。
「ねえ、もうちょっとだけ付き合って。大丈夫、無茶はしないから」
ボールを拾い集めると、ネットバッグがカラカラと優しい音を立てた。東の空が少し明るくなってきた。通学の子たちが遠くの横断歩道を渡り始める。時間が動き出す。
紗菜は最後にもう一セット、上・下の四角を往復して、深く息を吐いた。
(できることは、まだこんなにある)
肩にラケットを担ぎ直す。今日は放課後にバイト、夜はストレッチと体幹。フルスイングは抑えて、目と足を鍛える。ノートにもメニューを書き足そう。
足取りは軽い。ひびの入った相棒は、朝の光の中で静かに佇んでいた。壊れかけなんかじゃない。私の工夫で、まだ一緒に前に進める――そう思えた。
昼休みのチャイムが鳴ると、紗菜は教室の隅でお弁当を広げた。
タッパーには、母が作ってくれた卵焼きとウインナー、そして白ごはん。周りの子たちがカラフルなお弁当を広げるのを見て、ふと自分の弁当を隠したくなるときもある。でも、今日は胸が軽かった。朝の練習で「できた」と思える瞬間があったからだ。
(この弁当だって、母さんが早起きして作ってくれたんだ。私も頑張らなくちゃ!)
そう思い直して、ぱくっと卵焼きを口に入れる。ほんのり甘い味が、朝の汗のしょっぱさを中和してくれるようだった。クラスメイトの笑い声が教室を満たす中、紗菜は小さな炎を心の中で燃やし続けていた。
放課後。
制服のまま裏通りを歩く。バイト先の惣菜屋に着くころには、ちょうど夕食を買いに来る客で賑わいはじめる時間帯だった。暖簾をくぐると、店主とおばちゃんが手を振った。
「いらっしゃい、紗菜ちゃん。今日は揚げ物が多いから忙しくなるよ」
「はい!がんばります!」
エプロンを結んで厨房に入る。鶏の唐揚げの香ばしい匂いが広がり、油の弾ける音が耳を打つ。注文の声に合わせてトングを動かし、パックを並べ、値札を確認する。学校では静かに過ごす紗菜も、ここでは自然に声が大きくなる。
「ありがとうございます!」
「またどうぞ!」
客の笑顔を見ていると、疲れも不思議と和らぐ。けれど、休憩時間に時計を見れば、腕はすでに重たい。これが何度も続くのかと思うと、正直きつい。
でも頭の片隅には必ずある。参加費15000円。バイトを積み重ねれば届く額。遠いけれど、現実的に手が届く夢の切符。
夜。
家に帰ると、兄が居間で仕事の資料をまとめていた。机に広がる伝票やメモ。照明の下で、彼の横顔には疲れがにじんでいた。それでも紗菜が「ただいま」と言うと、顔を上げて微笑んでくれる。
「おかえり。今日も遅かったな」
「うん。ちょっと……がんばってた」
兄はそれ以上詮索せず、温かい味噌汁をよそってくれる。その優しさが、胸にずしんと響いた。自分のために大学を諦めて働いている兄に、心配はかけられない。そんな兄の為にも、せめて堂々と胸を張れるように、頑張らなきゃ。
夜が更けて。
自室の机で、練習ノートを開いた。朝の壁打ちで当たった確率、失敗したパターン、フットワークの反省点――細かく書き出していく。まるで小さな科学者の実験記録のように。
「次は、トスの高さをあと5センチ安定させる」
「スライスの面角度、少し早く閉じる」
ボールがなくても、頭の中では何度も繰り返している。ペンを走らせるうちに、胸が高鳴ってきた。ラケットが古くても、時間が足りなくても、やれることはまだまだある。
窓の外では、街灯がオレンジ色に道を照らしている。ペンを置いた瞬間、瞼が重くなった。
布団に潜り込み、ぎゅっと拳を握る。
(絶対に――絶対に、たどり着くんだ)
眠りに落ちる直前、胸の奥で小さな誓いがはっきりと燃えていた。
壊れかけたラケットを抱え、汗と努力で一日を終えた紗菜。
家族への想い、兄の背中、自分の夢。
そのすべてが絡まり合い、彼女を強くする
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