第1話 小さな炎、まだ誰も知らない朝
まだ夜が明けきらない静かな町。
そこに、一人の少女が古びたラケットを抱えて歩いていく。
家計の事情で部活にも入れない、最新の道具も持てない――でも、彼女の胸には誰よりも強く燃える夢があった。
この物語は、貧しくても諦めない天才少女・紗菜が、数々の困難を乗り越え、やがて世界の頂点を目指して駆け抜ける物語のはじまり。
最初の舞台は、小さな町の錆びついた壁打ちコートから始まる。
東の空がかすかに白み始めたころ、町はまだ夢の中にいた。
アスファルトは昨夜の冷気をそのまま抱き込み、道端の草には夜露がきらりと光っている。
その静けさを破るように、スニーカーの軽い足音がコツコツと響いた。
歩いていたのは一人の少女――紗菜。
背は同年代の子より少し低め。けれど背筋はぴんと伸び、目にははっきりとした輝きが宿っている。
手には擦り切れたテニスラケット。グリップはボロ布を巻いた跡がまだらに残り、ところどころ色が変わっていた。
「……さむっ」
吐いた息が白く広がり、彼女は肩をすくめる。
けれど歩みは止まらない。
制服のかわりに着ているのは古びたジャージ。兄のおさがりで、袖口は少し長く、手首が隠れてしまう。
それでも紗菜は気にしていなかった。むしろ「自分にはこれで十分」と思っていた。
彼女の足は学校とは逆の方向へ向かっていた。
人気のない通りを抜け、住宅街を外れた先。
そこにあるのは、誰も見向きもしなくなった小さな公園だ。
フェンスは錆びつき、ブランコの鎖はきいきいと不気味な音を立てて風に揺れる。
中央にあるコンクリートの壁は、落書きとひび割れだらけで、まるで置き去りにされた廃墟の一部のようだった。
けれど紗菜にとっては――そここそが、唯一の「テニスコート」だった。
彼女は慣れた手つきでフェンスの隙間をくぐる。
小さな公園の空気は少し冷たく、湿った土の匂いが鼻に届いた。
紗菜は深呼吸をひとつしてから、ラケットのグリップをきゅっと握り直した。
ポケットから取り出した黄ばんだテニスボール。
その毛羽立ち具合が、何度も何度も打ち込まれた歴史を物語っている。
ボールを胸の前で持ち上げ、紗菜は小さく目を閉じた。
「……今日も、がんばる」
声に出した途端、胸の奥でふわっと熱が広がる。
誰に聞かせるでもない、ほんの小さな誓い。
それは彼女を動かす燃料だった。
ラケットを構え、ボールを高くトスする。
振り抜いた瞬間――カンッ!
乾いた音が静かな公園に響き渡る。
壁に当たったボールがすぐに戻ってくる。
紗菜は一歩も引かず、その反射を正確にとらえ、もう一度ラケットを振った。
カン、カン、カンッ――。
リズムを刻む音が、次第に音楽のように連なっていく。
ラケットを振るたび、髪がふわりと揺れ、汗が額をつたって頬に光る。
まだ身体は小さく、力だって大人に比べれば弱い。
それでも一球一球に込める気迫は、大人顔負けだった。
その姿をもし誰かが見ていたなら、ただの高校生の練習とは思えなかっただろう。
「もっと……もっと速く!」
紗菜は息を切らしながらも、自分に言い聞かせるように声を上げた。
全身をラケットに込めて、壁に打ち込む。
ボールが跳ね返り、また打ち返す。
同じことの繰り返し。でも、彼女にとっては毎回が挑戦だった。
家は決して裕福じゃない。
テニスクラブに通うお金なんてないし、遠征だって夢のまた夢。部活も道具を揃えきれず諦めた。
けれど、そんなことを考えるより先に――ラケットを握れば、ただ「勝ちたい」という気持ちだけが心に浮かんでいた。
夜明けの光が公園を照らし始める。
紗菜の影が長く伸び、その姿をまるで未来の自分が見守っているかのように映し出した。
汗を拭う暇もなく、彼女はまたボールを打ち込んだ。
カン、カン、カン……。
胸の奥で、確かに小さな炎が燃えていた。
その炎が消えることは、決してなかった。
乾いた打球音が途切れ、紗菜のラケットから最後の一球がこぼれ落ちた。
ボールはゆるやかに弧を描いて、フェンスの隅に転がる。
紗菜は肩で息をしながら歩み寄り、ボールを拾い上げた。
掌に乗せたそれは、もう新品とはほど遠い。
毛羽立ちは固くなり、色もすっかり薄れ、表面はところどころ黒ずんでいた。
まるで「もうそろそろ休ませて」と訴えているみたいだ。
けれど紗菜は、にこっと笑って指でそっと撫でる。
「うん、大丈夫。まだまだ現役だよ」
誰も聞いていないのに、つい声をかけてしまう。
こうしてラケットやボールに語りかけるのは、彼女の小さな癖だった。
新品を次々と買い替えるような余裕はない。だからこそ道具ひとつひとつに愛情を注ぎ、まるで仲間のように扱っていた。
ベンチに腰をおろし、ラケットを立てかけてポケットをごそごそと探る。
小さな財布を取り出すと、そこからじゃらっと硬貨の音がした。
数えてみると、五十円玉と十円玉が合わせて数枚。
「……あれ? これだけ?」
紗菜は首をかしげた。
お手伝いでもらった小遣いの残りでは――お店でアイス一本買うには、ちょっと足りなかった。
思わずため息が漏れる。
「いいなぁ……もうちょっとお金あったらなぁ」
口に出した途端、寂しさと同時に少し照れくさくなる。
でも、次の瞬間には自分で自分を叱るように背筋を伸ばした。
「……ううん、いいんだ。そんなのよりテニス!」
きゅっと唇を結んで財布をしまいこむ。
ほんの数百円のこと。でもその小さな願いを押し込めてまで、紗菜の心はコートに立つことを選んでいた。
額から汗がぽたりと落ちて、ジャージの胸元に小さな染みを作る。
両腕はしびれるほど疲れている。膝も少し笑っていた。
けれど、ラケットを握るとまた力が湧いてくる。
「まだ、いける」
自分にそう言い聞かせると、再びボールをトスする。
太陽はじわじわと昇り始め、雲の間から光が射し込んできた。
その光を浴びながら振り抜いた一撃は、壁に当たって澄んだ音を響かせた。
――カンッ!
まだ眠っている町全体に、ひとつの合図のように響く。
それは紗菜にとって、未来へと繋がる鐘の音だった。
遠くで、犬の散歩をする人影や、登校する子どもたちの声が聞こえ始めた。
周りの誰も知らない。今ここで、小さな少女が必死に夢を追いかけていることを。
だけど紗菜は、それでよかった。
「私は……絶対に負けない」
言葉にした瞬間、胸の奥で熱が燃え上がる。
その炎は、どんなに冷たい風にも、どんなにお金がなくても、決して消えたりはしなかった。
彼女はボールをもう一度打ち込む。
ラケットが奏でるリズムが、また始まる。
壁に向かうその小さな背中は、確かに未来へ続いていた。
読んでくださってありがとうございます。
ボロボロのボールも、古いラケットも、彼女にとっては大切な相棒。
お金がなくても、環境が整っていなくても――夢だけは奪えない。
小さな炎のような彼女の気持ちは、これから先、どんな風に燃え広がっていくのでしょうか。
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