第2話 村人A
記憶に難がない人でも、約束を忘れることはある。それが、その人にとって重要度が高いものでも低いものでも。
それでも、当時の俺にとって『初めての恋人の初めて付き合った日を忘れる』というのは大きな過失であり、絶望であった。
それは若さゆえに、より大きく感じられたのかもしれない。
いずれにせよその結果、俺は初恋を勝手に一人で終わらせる事を選んだ。
たった一度の過ちと他人は笑うかもしれないが、それでもあの時、俺の心はポッキリと折れたのだ。
でも、あのアプリを消す直前まで俺たちは恋人で。
だからこそ、本音を伝えて終わりにしたかった。
それがあの結果である。
しかし、それはただのエゴであり、後に彼女をまた深く傷つけることになることは当時気づいていなかった。
若さ故。そんな言葉で片付けてはいけない恥ずべき行為であった。
だからこそ俺は今も、この失態を絶対に忘れずに生きて墓まで持っていこうとしている。
それが彼女に対する何よりの贖罪と信じて。
勝手な結論に至った当時の俺は、これからの自分がすべき事について考えを纏めることにした。
まずこの先、俺は恋愛が出来ない───いや、するべきではないと思っていた。
また同じ苦しみを味わうくらいなら、死んだ方がマシだ。そう思えるには十分、大きな痛みを感じたのだ。
そしてそれは相手にとっても同様だ。しかも、深い関係になればなるほど、より傷付き傷つけあうことになる。
だから俺はもう異性を好きにならない事を選んだ。
そして、俺はここにいてはいけない存在だとも思った。
学校の仲の良い友達や、元バイト先の人、家族など、自分の過去や病気を知っている人が多すぎるのだ。
その人達にもし彼女と同じ顔をさせてしまったらと考えるだけで吐きそうになった。
かと言って、誰とも接点もなく一人だけで生きていくのは困難であることもわかっていた。
だから俺は、これから出逢う人をなるべく取捨選択する事。
そして、その人にとって俺が友達ではない知人の関係を更に薄く薄く引き延ばした何かになるよう振る舞う事に決めた。
思えば子供の時、自分はRPGゲームの勇者だと信じてやまなかった。
でも、実際の俺は勇者でもなければ、その周りにもいない。場末の食事処で主人公に同じ事しか尋ねないような、誰の記憶にも残らない“村人A”だった。
目指す目標が決まるとだいぶ心がスッキリした。
あまりにも低いハードルではあるが、実際に演じるのは中々に難しそうだと思い、一人苦笑する。
でも今日から俺は“村人A”として生きなければならないのだ。
そう確信し、立ち上がる。
その決意を胸に、俺は自室のドアを開いた。
その足でリビングに向かうと何かを悟っていたのか、両親がテーブルの机に横並びで腰掛けていた。
俺は両親に対面する形で椅子に腰掛け、ゆっくりと頭を下げた。
そして学校を辞めさせてほしい事、自分を知る人のいない何処かで“村人A”として暮らさせてほしいと伝えた。
流石に断られるだろうと思ったが、母親は「わかった。あんたが好きなようにやんなさい」と間髪入れずにそう返してきた。
「い、いいの……?」
「自分から言ったのになんで疑問系なのよ? いいから、取り敢えず頑張ってみなさいよ」
「あ、ありがとう」
父親は何か言いたそうだったが、母親の考えに同調してくれたようで、何かいうことはなかった。
「こうなったら、善は急げよ!ほら、どこに住むか一緒に決めるわよ!」
その発言からまさか1日も経たずして、俺の引っ越し先が決まるとは流石に考えもしていなかった。
引っ越し先は隣県ではないが、それほど離れていない東北の田舎町になった。縁もゆかりもないが、その方が伸び伸びできるだろうという考えだった。
そして学校に電話した母によれば、俺は明日から休学という形になるらしい。しばらく音沙汰がなければ、自主退学になるとの事だった。
各所の連絡を終えリビングに戻ると、もうすっかり外は暗くなっていたので夕食を食べることにした。
一時的ではあるが最後の晩餐。
普段よりも格別に美味しい。そんな気がした。
満腹になり和んだ空気の中、俺は話を切り出す。
「母さん、自分で言っておいてあれだけど、色々とごめんな?」
「良いのよ。むしろね、嬉しいくらい」
「は? なんだよそれ? 一人息子が出てってくれて嬉しいって事?」
「そうじゃなくて、あんたもしかしたら何にも言わず出てくんじゃないかって、そう思ったから」
下手したら勝手にどっかで野垂れ死んじゃうんじゃないか。母さんはそう付け加えた。
「生きることを選んでくれただけで、とても嬉しいのよ」
「母さん……」
「言っとくけど聞きたいこといっぱいあるんだから! でも、何か決意した顔で話に来たからね。今は聞かないどく」
「……ごめん」
「いいのよ。病気になってから、アンタの元気な顔見られなかったからね……目は随分と腫れぼったいけど」
「う、うるさいなぁ、もう」
それにさ、とこぼし一拍間が空いた後。
「次、アンタがなんか失敗したと思ってもこの家があるんだから大丈夫よ。 私もお父さんも一緒に頑張るから」
そう言ってくれた。
「……ありがとう……ございます」
俺は本当に幸せだと思ったし、こんな親不孝者でゴメンと心の中で深く反省した。
乾いて出ないと思っていた涙を見せぬよう深々と頭を垂れ、感謝の言葉を述べた。
顔を上げると、父さんは信じられないくらい号泣していた。
母さんはそれを見て泣きながら笑っていた。