コイバナ: 「指輪の話」
「何、その指輪。婚約してるの?」
今まで何度訊かれたかわからない。
私の右手の薬指には、外れなくなった小さな指輪がはまったままだ。
「ううん。婚約どころか、彼氏もいないよ」
「じゃ、何?その指輪。男除け?」
「んー、まぁ、そんなとこ」
「ふうーん?」
昔の彼氏からもらった、特に意味の無かった指輪。
別れた後に外そうとしたら、外れなかった。
安いけど、デザインは気に入ってた指輪だったから、無理矢理外すとか、切るとかできなくて、何となくそのままはめていた。
すると、色んな人から「未練っぽい」とか「男がいるの」とか色んなことを言われるようになった。
他の指にはまっている指輪は何も言われないのに、薬指にあるっていうだけで、この騒ぎ。
友人たちには何度もこの指輪のせいで損してるって言われた。
この指輪を見て、声をかけるのを躊躇う人もいるから、と。
この位で躊躇うくらいなら、別に声をかけてもらえなくてもいいと思う。
私のことが欲しいなら、指輪如きで躊躇うことなく、どーんとぶつかってきて欲しい。
だって、左手の薬指じゃなくて、右手の薬指なんだし。
「『男除け』、ねぇ。君は自分がいい女だと思ってるってわけだ」
嫌味ったらしく言ったその人は、小奇麗な格好をしていて、顔もまぁ、いい部類に入ると思う。
その人は、友達の彼が連れて来た友達とかで、バーで出会ったこの日が最初の対面だった。
「何よ。悪かったわね。どーせ私には男除けなんて必要無いわよ」
彼の態度にカチンと来た私はつい、言葉に棘を含ませた。
でも、彼にとっては猫パンチほどの威力もなかったようで。
「そんなこと言ってないよ。でも、どうしてかなと思って」
彼は手に持っていたグラスの中身を飲み干しながら、そう言った。
「別に…」
別にどうだっていいじゃない、と言いかけて、止めた。
彼の目を見たら、何故だか言えなかった。
「別に?」
彼に見つめられながらそう言われると、私はさらに慌てた。
頭の中が凍りつく。
何でだろう。
やましいことなんて何一つしていないというのに。
彼の目は、私が隠している何かを探っているようで、私を妙に不安にさせた。
私は自分のグラスに残ったカクテルを飲む振りをして、彼から目を逸らした。
あのまま見つめ続けるのが怖かった。
目を逸らしても、彼の気配をすぐそこに感じている自分がいて、それも何だか怖かった。
「そんなに、怖い?」
彼が意外な優しい声で、ピタリと私が思っていたことを言い当てた。
「俺が怖いの、それとも、男が怖いの?」
「え…?」
私が顔を上げると、彼は優しく微笑んだ。
さっきまでの強気な自信あり気な態度からは想像もできないような、人を安心させる優しい顔。
私にしてみれば、彼の言葉は意外だった。今まで、「気が強い」とか「意地っ張り」とか言われることはあっても、弱いイメージを相手に持たれた事は一度もなかったのに。
「私…、そんなに怯えて見える?」
彼は黙って頷いた。顔はまだ優しいまま。
優しい顔のはずなのに、それが何故だか私にはとても怖かった。
このまま彼と話すのは 何かが壊れるような気がして。
帰ろう。
そう思って席を立とうとしたら、彼に腕を掴まれた。
「ちょっ。あの。私、もうかえ―」
「せっかく君の素の部分が見えそうだったのに、もう帰るの?」
私がとっさに身を引こうとすると、「ごめん」と言って彼は手を離した。
「素の自分を見せるのが、そんなに怖い?」
「何を―」
「そんなに突っ張ってて、疲れない?」
そう言って微笑んだ彼の穏やかな笑顔で、私の中の何かが崩れた。
強いと思っていた「それ」は、意外と脆かった。
今思い返しても、「それ」が一体何だったのかは、はっきりしない。
壁のような、鎧のような、砦のような。
何か、大きくて堅くて不透明なもの。
その中で「私」はきっと、裸のまま丸まって眠っていたのだと思う。
あの日、指輪をくれた彼と別れた時から、ずっと。
私の「それ」を決壊させた彼と私は、それから何度か2人で会った。
何度も会ううちに、私の中の「それ」はいつしかベルリンの壁のように「ああ、こんなものここにあったわね」みたいな状態になっていた。
「それ」の中にいた時より彼の腕の中のほうが安心するなんて、昔の私が知ったらどう思うだろう。
彼の第一印象は「怖かった」と言ったら、「何だ。お前、俺に一目惚れじゃん」とかふざけたことを言ってのけたけれど、あながちそれも間違ってはいなかったのかもしれない。
その日、私は彼の部屋の彼のベットで彼に包まりながら目を覚ました。
その日は久しぶりに天気も良くて、気持ちのいい朝だった。
朝食の後に彼のベットのシーツを洗濯しようと外していたら、何かが床に転がり落ちた音がした。
私の指輪だった。
私はその時まで、自分の右手から外れるはずのなかったものが無くなっていた事にさえ気付かなかった。
自分の指にはまっていないその指輪を見るのは、一体何年ぶりだろう。
私は何だか楽しい気分になって、指輪を持ったままベランダに出た。
空は青くて、鳥が軽やかに鳴きながら飛んでいた。
下の方では子供たちが公園で遊ぶ声が聴こえてきた。
「えいやっ」
私は近所の公園の木が茂っている辺りを目掛けて指輪を投げた。こんなに力いっぱい何かを投げるのなんて、小さな頃に歯が抜けた時以来かもしれない。
思わず両手を合わせて願い事なんてしている私の後ろから、「お前、何やってんだ?」と言う彼の呆れた声が聴こえた。
今日は、本当にいい天気だ。
「コイバナ」シリーズ、5話目です。
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