ショウセツ
良い小説には熱気がある。
言葉を並んで紡いでいくだけの作業は誰がやっても同じで、キーボードを叩き続けるだけなのに、出てくるものは全く人それぞれなんて不思議だ。
AIがどれだけ流行っても、言葉を紡ぐということにおいては、人間の先には行かないに違いないと私は思っている。
文体をいくら真似て飲み込んだとしても、新しい言葉や熱を一から創り出すことはできないのだ。
文章や小説はつまるところ、空気であり、呼吸であり、体温だ。
何千字、何万字、何十万、何百万と言葉を紡いでいけばいくほど、そこには水に現れた波紋のように、人間が浮かび上がっていく。
物心ついた頃から非常にインドアだった私は、こっそりひっそりと物書きを趣味にしている。
別に年齢制限のある物を書いているわけでもないが、恋愛小説だとかいうものは本人の趣味趣向が多分に表出して、書いていることがバレたらとても恥ずかしい。
そして、ファンタジーなんてもっとまずい。
もっての他である。
絶対にばれたくない。
世の中の立派な作家様方の作品ならばいいが、私など蟻以下の矮小な想像力で、自分のせいいっぱいの脳内妄想を垂れ流しているのである。
立派な成人たるもの、現実を直視し、日経平均を気にし、未来に思いを馳せ、憂えつつも己の職分を果たさんべく働くべきなのである。
そうして休日などは、東でバーベキューがあるといえば飛んでいき、西にランチ会があるといえば駆けつけるべきなのだ。
いくら休暇でも、いい大人が、何の飯の種にもならないものを、天気の良い真っ昼間からたった一人液晶に書き付けるなんてしないのである。
そんなの変態行為以外の何物でもない。
私にだってそれくらいの良識はある。
まあ、よって恥ずかしい。
いや、私だってこれまでの人生、それなりに、友人とも出かけたし、部活動だってやったし、学校にだって行ったし、まあ汚点や失敗や黒歴史を量産しながらも、なんとなく社会の中で生き抜いてきた。
だがしかし、人間の根本的な部分などそうそう変わりやしない。
弱虫だった子が大きくなってボクサーになるのはあくまでも例外で、だからこそ美談になりドラマになるのだ。
三つ子の魂百までというが、実にその通りだと思う。
田舎に生まれ育ち、一人っ子で、近所に同い年の少年少女もいなかった私は、本が友達だった。
いや、正直に言うと、『友達』というのは手垢がついた在り来たりな言い方で、なんとなく格好がいいからそう表現してしまった。
正直なところを言うと、そこにあるから読む、というような感じだったのだから、全く『友達』のようではなかった。
友達というのはお互いの顔を見合って、ちらちら情報を小出しにしながらイベントを共にしたりして、関係性を徐々に深めていくような存在なのだ。
私は目についた本から片っ端に手に取り貪っていた。
選ぶ基準は見た目だった。
新しそうな、良い匂いのしそうな本。
それなりに古くても面白そうならいいが、ぼろぼろなのは困る。
読んでいるときは舐めるように読む。
そして、一読したらもう読まない。
すぐに図書館へ返す。
繰り返し読むことなどないので、幼少期は愛読書など無かった。
あたかも本命を作らないバンドマンのような思考である。
そうして私は、少しずつ自分の中での偏執をこじらせていった。
今でこそちゃんと社会に溶け込んでいるはずだが、自分の何が一番ヤバイかというと、文章の並びに興奮するところだ。
「この小説面白いね」
というのではなく、ぐっとくる文体というのがあって、そういう物を見ると脳に何か興奮するホルモンがドパーッと出てくる。
国内外を問わず、自分の脳随にヒットする文章を読了すると、もう暫くその場から動く気力が無くなる。
なぜこんなものを書けるのだ? 神か、神なのか? という気になる。
だが、私も良い大人なので、上記のことをたとえば会社やら友人やらの飲み会で真っ正直に喋ったら、冷ややかな目で見られるか、生温かい相づちで距離をとられるかの二択であることは想像がつく。
趣味、小説です、読むんじゃなくて、書く方!
なんて言ったらもうその人は変な物扱いされる。
「へぇ……」
という相づちは、すごいね、というへぇでは決してない。
(よくわからないけど)へ(んな人だね)ぇ……という意味だ。
完全に文系だった私は社会人になるまで純文学の畑に毒されており、世の中に出てから純文学がいかに異物として扱われているかを知り愕然とした。
新卒で入社し、周囲の爽やかかつ分かりやすい自己紹介を聞いて、これから気を付けようと思った。
有識者にとっては、純文学なんて広義の色本と同じなのである。
ゆめゆめ、あの作家が好きだの、この作品が好き、だの語ってはならない。
社会では『本当の自分』に、ゆっくりと真綿のように首を締め付けられるはめになる。
よって、
「休みの日って何してるの?」
と聞かれた際には、
「アウトドアとか、あとは、ネトフリでたま~に映画鑑賞ですね」
という本性とは些かずれた答えでいいのだ。
これで大正解だ。
というか休みの日なんて、寝て、食べて、排泄して、また寝るくらいしかしない。
人間そんなもんだろう。
毎週キャンプに行くだの、仕事仲間と旅行だの、勉強会だの、パンを焼くだの、家のインテリアを変えただの、後は何だ、なんかそういうインスタに載せやすそうなことを、いつも考えていたらどうにかなってしまうと思う。
そういうことは、そういうことが好きな人達に任せれば良いのだ。
休みの日まできちんとした格好をして、いつも仕事のことを気にして、発言に気を付けて、周りの動向を探って、なんて、どう考えたって無理だ。
金を貰ってもやりたくはない。
もう、なんか、夕日が沈む直前まで、ずっとダラダラしていたい。
そういうタイプの人間なのだから仕方ない。
いつから自己実現なんてややこしい概念をくっつけて仕事を語る風潮ができたのだろう。
出世も起業も投資も運用も、やりたい人がやれるときにやればいいのだ。
高層ビルの彼らは覚悟を持ったギャンブラーであり、確かに成功者だ。
だけど、全員がそんなものを真似しなくたっていいのではないか。
そりゃあ、その気になってやりたきゃいつだってやればいいとも思う。
が、たまたま自分がギャンブラーでなかったからといって、あなたのこれまでやこれからの生き方を否定しなくてもいいとも思うのだ。
いいじゃないか、ささやかで穏やかな登場人物がいたって。
全員が勇者の物語なんていったい誰が面白いだろうか?
そんなことを思いながら今日も私は原稿を書いている。
青い空が部屋の窓から見える。
つくづく、変な性癖を身に付けてしまったなあと思う。