第22話 起こり得た未来
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彼女とも別れ、大学も4年目になっていた僕は就職活動をしていた。
そしてこの頃、世間ではリーマンショックが起こっており僕らの世代は就職氷河期と言われる代となっていた。
この頃僕は将来のビジョンを明確に決めていた。
第一候補と第二候補を持っていた。
そのため活動に迷いはなく、就職はすぐに大手企業で決まったのだが、それはまた後日伝えることにしよう。
今は、僕にもあったかもしれない未来の話をしようと思う。
僕はアルバイトを3つ経験したと以前言ったことがあるのだが、そのうちの1つは高校1年生からで、受験で穴が開き、大学3年目の間でだった。
大学3年目の時に閉店してしまい、2つ目の飲食店を深夜に、3つ目の接客業を昼に同時に始めた。
僕にもあったかもしれない未来を過ごしていたのは3つ目のバイト先の先輩だった。
その女性はアンニュイな雰囲気を持ちつつも、人との距離感のコントロールが上手く、人間としての魅力があった。
僕はその人と仲良くなり、よく遊ぶようになったのだが、お互いに恋愛感情はなかったのだが、年をとってお互い独り身であったならば一緒に過ごすのもいいかもしれないといった話しはしたことがあった。
その人は過去、人に騙されていた。
洗脳を受けるレベルでだった。
僕とは違う形ではあるが、人の悪意によって貶められた経験を持っている人だった。
人も鉄と同じく打たれて強くなるのかもしれない。
僕も彼女も打たれて強くなったのだと思うからだ。
だが打たれるのは人からなので共通しているのだが、強くするための担い手に違いがあった。
僕は自分でやるしかなかったのだが、彼女は他人の手によって救われたのだった。
善意を持った他人が彼女に手を差し伸べ、彼女はまっすぐ健全に人としての魅力を蓄えていった。
僕の人生には存在しないはずの無償の行為があったのだ。愛ではないが。
人によって貶められ、人によって救われた彼女。
人によって貶められ、自らの力で道を拓いた僕。
僕は僕の方が人として強く、優れた人間力を持っていると思っている。
いや思いたいのだ。
そうでなければ僕は僕の経験を受け入れられなくなってしまう。
彼女は僕にとって太陽だったと言えるかもしれない。今の僕にとっては月なのだが。
僕にも手を差し伸べてくれる人がいたならあったかもしれない未来だった。
それ故に僕は彼女を妬んだのだが、妬むということは羨ましかったのだ。
だが彼女は僕と違い、本質が曲がっていた。
僕の本質はまっすぐで、経験によって曲がってしまった。
彼女の本質が歪んでおり、経験によってまっすぐに近くなった。
そのため僕たちは結果的に似た者同士になっていたのだ。
そして僕は人によって救われた彼女に、少しの軽蔑と、羨望と共感を持って観察した。
お互いに捻くれてしまっている者同士、ものの考え方が似ていた。
だが大きく違ったのは、人への信頼だった。
僕の世界では人は信頼できる生き物ではない。
困った時、助けてくれないし、困らせてくることはあっても益にはならない。
彼女の世界では人は信頼できる生き物だ。
困った時は助けてくれるし、困っていても興味はないが有益なツールになる。
僕の世界は閉鎖的だ。
彼女の世界は開放的だ。
そして彼女の方が人を道具としてみていた。
僕が彼女の経験をしていたら、聖人君主のようになっていただろう。
彼女が、そうならならずにこうなっていることが、彼女の本質が歪んでいるといった理由だ。
そして僕たちに共通していた価値観は「人は利用するものである」ということだった。
その一点が一致していることから僕たちは親しくなったのだった。
そしてお互いを大いに利用しあった。
まぁ特別なにをしたわけでもないのだが。
僕は就職して地元を離れることになるのだが、数少ない帰省のタイミングで共に飲み歩くぐらいは親しさが続いたのであった。
僕は彼女がなぜ救われたのか、何がそうことを運んだのかが知りたかった。
だが当時の僕は詳しく聞けなかった。
それが、もしも僕ができる範囲のことであったなら、僕は今の僕を許容できないと思い、自己防衛していたのだろう。
僕には明確に自分が歪んでいるという自覚がある。
サイコパスやソシオパスなどと言った明確な社会不適合者ではないが、本音を言って渡るには世の中は僕には優しくないと理解していた。
そしてその原因は明確に中高生の多感な時期の経験からくるものだと理解してる。
人は環境によって変わるのだ。
生まれ持った本質はもちろんある。
だがそれすら経験で変わるのだ。
子どもに対して、育て方を間違えたという人がいるが、本当にそうだろうか。
僕は多くの場合は「育ち方が」間違ったのだと思う。
それは環境であり、経験なのだ。
中には本当に育て方を間違えた人もいるのだろう。
だがそれは多くの場合毒親と呼ばれる部類の人たちに当てはまることなのではないだろうか。
少なくとも僕の両親は育て方は間違っていなかった。
僕を取り巻く環境が、経験が僕を歪ませたのだ。
親として矯正する機会はあったのかもしれない。
だが僕は隠していたし、家族にとってはある程度理想の人物なのではないかと思う。
それは子である僕が、親の育てる権利を奪ったとも取れるだろう。
人は育つのだ。
経験を積んで。
その積み荷の中身は親が選べるものではないのだ。
また選ぶべきでもないのだ。
僕は自ら行ってきたことによって頭を使える人間になった。
そして頭を使うということは上手に生きていくことだ。
その力を奪うのは親としてすべきことではないと思うのだ。
僕は僕の人生から得たことを子どもに伝えたい。
道を示してあげたい。
そのために僕はまた同じ道を辿る。
だが、その道は同じ景色だが同じ風景ではなかった。
僕は再び学びながら、人生の大切なことを実感しながら、未来へと向かっていると思えるのだった。




