逆さ
「信徒とか関係なく、受け取って良いのか?」
「はい!私にはこれくらいしか出来ないけど、持って行ってほしいんです!」
「ここだって敵が来るかもしれないぞ?」
「大丈夫です!」
お守り代わりに渡そうとしてくれたのかも知れないが、アニエスもまた危険な地域にいる事に変わりはない。
それを理由に断ろうとするが、彼女は自信満々に大丈夫だと言い切る。
「自信ありげに言い切ったけど、根拠でもあるのか?」
「特にありません!」
「…………。」
自信はあっても根拠は無かったようだ。
それすらも堂々と言ってのけるのだから開いた口が塞がらない。
一方の彼女は俺の表情を気にせず、言葉を続ける。
「それに、この先はここよりも危ないはずです!」
「まぁ敵地の奥深くに進む訳だし、これまでよりも敵の抵抗も激しくなるとは思うけど……。」
「だから、持って行って下さい!無事に帰って来て下さい!それでまた一緒にお話ししたり、ご飯を食べたりしましょう!」
アニエスの様子をよく見ると、クロスを渡そうとする彼女の手は僅かに震えていた。
『正直怖い』
彼女はこの戦いに付いてくる前にそう溢していた。
しかしその恐怖を抱きながらも俺にクロスを渡そうとしている。
一度、自身の命を救われたクロスを。
「……分かった。受け取らせてもらうよ。」
「はい、気を付けて!」
彼女の覚悟と思いやりを汲み取り、俺はクロスを受け取る。
必ず生きて帰らなければ、と決意を新たにし、彼女と別れた。
その後、街中を歩きながらアニエスから受け取ったクロスをまじまじと眺めていると、元居た世界との違いに気付く。
「よく見るとこっちの世界のクロスは逆さ十字なんだな……。」
クロスと聞いてキリスト教の十字架を思い浮かべたが、彼女に渡されたそれは十字架を逆さまにした形だったのだ。
「そういえば前にアニエスが言ってた『汝、隣人を慈しめ』って言葉も、なんだか聞き覚えがあるんだよな……。どこで聞いたんだったか……。」
俺は僅かに覚えた違和感に考えを巡らせるが……
「っ!」
一瞬の頭痛によって思考が遮られる。
「あれ、何について考えようとしてたんだっけな……。」
再度、逡巡しようとするも何を考えようとしていたのかを忘れてしまった。
思い出そうとも考えたが、忘れる程度の事ならば大して重要な事でもないだろう。
「まぁいいや。進軍再開は昼過ぎからだし、それまで俺も休んでおこう。」
そんな事よりも、今は少しでも休んで体力を温存し、足を引っ張らないようにしなければ。
俺はクロスを懐にしまって街の外にある幕舎へと戻るのであった。