孤立 3
―※―
鈴原忍はずっと一人だった。
物心付いたときには、幼稚園や小学校が終わると親戚を盥回しにされ、夜中に帰ってくる父、又は母と共に家路について眠った。
友人と遊ぶ時間もなく寂しかった。だが、その孤独は誇りや使命感を抱かせていた。
「鈴乃ちゃんが大変だから」「お父さんとお母さんの支えに」「お兄ちゃんなんだから」親戚や周りの大人はそう忍に言い聞かせた。
障害を持つ妹を持った兄。自分が我慢しなければならない。
兄なのだから当然だ。だが、それは自分のためではなく、大人の都合であることを忍は知らなかった。
小学校四年生くらいだろうか、鈴乃が退院し忍の通う小学校へ編入してきた。
病院暮らしを終え、普通に学校へ通えると母は喜んでいたが、子供では予期せぬ出来事が起きた。母が妹に付きそう。それが学校、市から出された条件だった。
当然、周りの生徒は困惑した。もっとも、あまり目立たないようにしていても、校内に保護者がいるという時点でイレギュラーな状態であることは忍にも理解できた。
さらに追い打ちをかけたのが、妹がクラスと馴染めなかったことだ。おかげで、見ず知らずの下級生に後ろ指をさされることもあった。子供は無邪気で残酷だ。
学校と言う大人と子供の境界線が混沌とした社会の中、そういったイレギュラーに対し子供は敏感だ。それはイジメですらない。学校と言う社会からあぶれた者へ対する疑問なのなろう。
忍はそれすらも試練と考えていた。己に対する正義感、困難、使命感、そう言ったものが自分を強くする。そう思っていた。
それと同時に、鈴乃へ対する黒い感情が芽生えていたことすらも、自分を強くしているという自惚れに繋がるとは、幼い忍には知るよしも無かった。
―※―
(嫌な夢を見た)
午前八時。昔の自分の夢を見た忍は目を擦りながら体を起こした。軽い頭痛と目眩を感じ、思わず両手で頭を抱える。
「クソッ! 頭が変になりそうだ」
夢にすら現れるトラウマ。過去に囚われる自分への苛立ち。自身のセーブが効かない状況に戸惑いながらも、とりあえずベッドから足を降ろす。
疲れた。と額に手を当てた瞬間、「おっはよう」っと、甲高い声が耳に響いた。
ドアを開き、セーラー服の少女が笑顔を見せる。
「鈴乃の中学の時の制服だけど、似合う? あ、でもちょっとアタシにはキツいかな?」
長い髪を後ろで纏たアキラが、ステップを踏んで一回転して見せる。
「ああ、似合うよ。ムカツクほどな」
誉められているのか、貶されているのか解らず、アキラは不思議そうに小首を傾げた。
「悪い。何か俺、ちょっと疲れてるみたい」
「ま、しょうがないか。忍は鈴乃のこと苦手みたいだし、朝ご飯作ったから早く来てね。お兄ちゃん」
歌うように、軽い足取りでアキラが部屋を出た。
『お兄ちゃん』その言葉が脳内に響くする。
やり場の無い、言い知れない感情を込めて投げた枕がドアにぶつかり鈍い音を起てた。
「クッソォ……その服で、お兄ちゃんなんて呼ぶなよ……」
拳を握り絞め、歯を食いしばり、ようやく洩らした言葉がそれだった。昨日のように鈴乃から逃げ続け、苛立っていても仕方がない。忍は意を決してリビングへ向かった。
テーブルに並んだのはピザトーストとベーコンエッグ、レタスとパプリカのサラダとコーヒーという、今までの忍達からしてみれば豪勢な朝食だ。
四人でテーブルを囲み、「頂きます」の合図と共に各々が食事を始める。
忍は無言のまま食事を口へ運び、誠司は新聞を読みながらコーヒーを飲み、アキラと鈴乃はもう昼食の献立の話を始めていた。
特に気にすることでは無かったが、この二人はいつ親しくなったのだろうと忍は疑問を持ち、それとなく観察していると「兄貴」と、突然鈴乃が声を掛けてきた。
意表を突かれ、口に入れたパンで危なく窒息し掛けるところだった。
「お金渡すから、アキラとタマゴの安売り行ってきて。私は洗濯とか掃除とかやってるから」
「何でお前が勝手に仕切ってるんだ。俺は疲れているんだ、寝かせろよ。掃除とかマジでうるさいし、静かにやってくれ」
「無茶苦茶言うわね兄貴。病持ちの私がせざるを得ない状況だってこと、少しは察してよ」
目を合わせず、舌打ちする鈴乃の一挙一動全てが癇に障る。
「うるせーよ。大体、お前本当に体が悪いのか? そんなに動けるなら、仮病じゃないのかって疑われてもしょうがないぞ。大体昔から同級生に言われていただろ、そいつらの気持ち分かるよホント」
「忍、そんな言い方ないじゃない。この朝ご飯だって殆ど鈴乃が作ってくれたんだから」
「別に作れなんて言ってない。マジでウザイし。俺はカップ麺でも喰ってるよ」
台所の棚からカップ麺を取り出し、忍はふてぶてしくヤカンに火を付けた。
あからさまな当てつけだ。
「忍!」と動揺と微かな怒りから、アキラは思わず椅子を引いた。
「別に良いわよアキラ。昔から勝手気ままにやっているワガママ兄貴だから」
少し怒気を込めた口調だが、鈴乃はアキラを説き伏せると、素知らぬ顔で食事を続けた。
「そりゃ、そうかもしれないけど――」
「やめろ、アキラ」
珍しく、誠司がアキラに対して横槍を入れた。
「買い物なら俺が行く。忍は怠惰で忙しいようだしな」
「誠司、お前!」
普段ならからかっているだけだと無視できたが、今の忍には全ての言葉が強い否定に感じた。誠司にすら牙を剥きかける自分が抑えきれない。
「とりあえず、長兄役の俺が言うんだから、次兄のお前は言うことを聞け」
兄役の特権と言わんばかりに、誠司は腕を組んでフフンっと得意げに笑みを洩らした。
忍は疑似家族の件を思い出し、渋々気持ちを切り替える。
「やっぱ、俺が、買い物行く……俺に行かせてくださいお兄様!」
その場から逃げ出したい勢いで、忍は声を荒げた。結果的に鈴乃の言うことを聞く形になって面白くないが、それ以上に、今の状態で鈴乃と一緒にいられる自信が無かった。
―※―
「らしくないよ忍。何かあったの?」
買い物へ行く途中、アキラが小突いてきた。
「分かってるよ。でも、どう接したら良いのか分からない。だから余計に苛ついて」
「マザコンの次はシスコン発動? さすがのアタシも手にあまりあるわね」
「うるせーな。俺だって自分がどうかしていると思うよ。大体シスコンって妹や姉を異性の対象にする奴のことじゃないのか? 気持ち悪い」
「コンプレックスって、極端に意識するとか劣等感とか、正確にはそう言った意味だって誠司が言ってた。今のアンタにぴったりじゃない」
一歩前に出たアキラが、偉そうに人差し指を立て博士的に語って見せる。
正直、小生意気だと思うも、結局は図星になるので出来るだけ表に出さないようと、忍は表情を固めた。
「アイツの前だと、どうしてもああ言う態度を取っちまう。昔からそうだ。初日は意表を突かれたけど……」
「今度はツンデレ? アンタ属性多すぎ。」
「よく解らないけど、俺は本当にアイツのことが……嫌い……なんだと思う」
嫌い。本当にそうだろうか? だが、今までの言動が、自分が鈴乃を嫌悪していると決定している。無意識に俯いたまま忍は声を震わせた。
「先行くぞ」
速歩でアキラを追い越し、忍は彼女の顔を見ずに歩みを進める。だが、アキラも歩幅が違う忍に対し、小走りで競り合った。
「何で付いて来るんだよ」
「一緒に買い物行くんでしょ。大体、財布持ってるのそっちだし、付いて行くしかないじゃない。それとも、一人になりたい」
「ああ、なりたいね」
「それは嘘。だったら、夜の内に家出てるでしょ。寂しいから構ってもらおうと反発して、結局、図星突かれて怒ってるだけ。意地を張らずに、少しは人の言うこと聞いたら?」
「何が言いたいんだよ」
「何度も言わせないで、アタシ達は今、家族ごっこしてるんだから、ちゃんとごっこしてよ。元々はアンタを鈴乃に慣れさせるアイデアなんだから。それに、鈴乃は良い娘だよ」
「仲良くなれって、言わないんだな。夕べは血の繋がりがどうの言ってた割には」
「仲良くなるって人に言われてなれるモンじゃないでしょ。血の繋がりって言ったって、私には分からない未知の何かがあるんじゃないかって、勝手に思ってるだけだよ」
アキラが息を切らせながら答えた。それは忍にとっては綺麗事にしか聞こえない。
「それが余計なお世話って言うんだバーカ」
「馬鹿って言う方が馬鹿なのよ忍のアホ!」
売り言葉に買い言葉。鈴乃のことになると色々と踏ん切りが付かない自分に苛立つ。だが、その苛立ちのトリガーがいつも妹であることを忍は承知していた。それでも、根本的に不快感の原因が反応する瞬間が何なのか、忍には見当がつかないのも事実だ。
この感覚が、本当に鈴乃に対しての怒りなのか、自分への苛立ちなのか、それは忍自身が何年も、何度も手を伸ばしても届かない疑問だった。
(アキラの言っていることは理解できる。でも、俺の気持ちは鈴乃が許せない。アキラは俺の気持ちが本当に分かっているのか?)
自称十四歳の少女、しかも学校へは行ったこともないと言う。集団生活というものを理解していないのか、人と人の中で嫌なものを見続けてきた忍には、アキラの考え方は無責任で理解しがたいものだった。
鈴乃に対しての感情は、アキラの言う通りなのかもしれないがそれでも感情が付いて行けない。それでも、一つだけ確かなことがある。
(俺は鈴乃を憎んでいる)