家はあるが家庭が無い 3
―※―
何度もコールする電話のベル。それより妹の突然の帰宅に忍は状況が掴めず思考も鈍っていた。ふと視線を向けると、鈴乃は仏頂面のままふて腐れたように「出れば」と顎で電話を指した。
促されるまま受話器を取り、「鈴原です」とこれまたお約束の挨拶をした直後だった。
「忍……鈴乃が居なくなっちゃったぁぁ――」
受話器から聞こえる、悲鳴のように泣き叫ぶ女の声。それは間違いなく忍と鈴乃の母、和子のものだった。
「一昨日からずっと探してるの。病院のみんなも探しているわ。お父さんはまだ帰れないって、どうして、こんなことになるのよぉ」
「か、母さん。ちょっと待てよ、落ち着け」
電話越しから「落ち着いて」「気をしっかり」という声が聞こえた。ひどく興奮しているようだ。
「一昨日からって、どうして連絡してこなかったんだよ」
「言える訳ないじゃない。あなたに心配掛けたくなかったのよ。どうして母さんの気持ちを分かってくれないの!? ねえどうして!? あなたに何ができるの!?」
(また始まった)
和子は我が子のためと言いつつ、相手の心情を理解しようとはしなかった。
頭ごなしに子供を子供としか認識しておらず、相談や意思疎通の前に、自分の考えを最優先で行動するため、間違いが起こった時の軌道修正ができなくなる。子供扱いは仕方がないが、子供扱いと無能を混同していることを和子は理解していない。
やれやれと思いながらも、忍は電話越しの母へ静かに語りかけた。
「俺が悪かった。それで鈴乃のことだけど」
鈴乃に視線を流そうとしたが、アキラが鈴乃を指さし両手を重ねてバッテンを作って見せた。「居ないと言え」と言うことらしい。
鈴乃は顔色一つ変えなかったが、彼女が手にしたキャリーはカタカタと音を立て震えていた。和子の声が受話器から漏れているので、二人とも話しは理解しているようだ。
「分かった、見つけたら連絡する。それと、鈴乃って髪を染めたりした? 金髪とか」
「バカなこと言わないで! 鈴乃は綺麗で長い黒髪でしょ! 何年も会っていないからって勝手な妄想しないで!」
ガチャンと乱暴な音を立て、電話が唐突に切られた。
「説明しろ!」と、忍は咄嗟に受話器を投げ捨て、鈴乃の胸ぐらを掴み上げた。
「何で髪染めてんだよ。それより一昨日から行方不明ってどういうことだ!」
「一昨日抜け出してマックで寝てた。昨日は髪いじってピアス付けてカラオケで寝たけど、酸素が無くなりそうで戻って来た。昔使ってた小型の酸素呼吸器もあるし……」
鈴乃は視線を落とし淡々と経緯を説明するが、気怠そうな口調も相まってか忍は納得できなかった。
「何で肝心の理由を言わないんだよ!」
「今の電話で分かったでしょ。重いんだよ! お母さんも、病院の連中も自分の体も、兄貴は良い子でお留守番? 良いご身分ね」
「お前・・・せっかく黙ってやったのに勝手なこと言いやがって!」
「うるさい! 寝るからほっといてよ!」
キャリーを蹴飛ばし、鈴乃はそそくさと階段を上がって行く。
「待て! まだ話が――」と、鈴乃を追いかけようと足を動かすが、体が前に動くことはなかった。背中から回されたアキラの腕が、忍の前進を阻んだからだ。
「やめなよ。あの娘、疲れてるんだよ。今行くと喧嘩になるだけだよ」
やさしく、諫めるような声に少し毒気が抜かれたのか忍は深い溜め息を吐いた。
「悪い、なんだか色々びっくりして……」
「だよね。黒髪の大人しそうな妹が、金髪のギャルで戻って来たらそりゃね……まあ、ちょっと様子を見ようよ」
回された手が放されたかと思うと、今度はアキラの笑顔が回り込んだ。
「生意気なのは昔からだけど、あそこまで粗暴じゃなかった……」
とりあえずは様子を見ようと言う、アキラの意見には賛成だ。
鈴乃の家出の理由が母である可能性が高いことは、経験から何となく見て取れる。答えが見えない以上、無理矢理帰しても大騒ぎになるのがオチだ。だが……。
「やっぱり、報告はした方がいい気が・・・じゃないとバレたら怒られるよなぁ・・・・・・」
ちらりとアキラの顔色を覗うと、彼女は眉間にシワを寄せ、呆れたような口調で言い放った。
「忍、あんまり言いたくないけど、アンタもしかしてマザコン?」
―※―
「それで、逃げてきた訳か」
河川敷にある市民公園では、週に三回の炊き出しがある。現在の時間は午後六時、炊き出しの列に並んでいる間、忍とアキラはホームレスの青年、誠司と顔を合わせた。
「別に逃げてきた訳じゃないけど、一気に居心地悪く……というか、居づらくなった」
ふて腐れた忍が口を尖らすと、誠司は訝かしむように「ふむ」と軽く頷いた。
鳥の巣のように乱れた髪、頬が痩せこけた長身瘦軀に、ジャージと半袖のシャツは黒で統一されている。素足にサンダルはまだ寒い時期だが、誠司は気にしていないようだ。
「アキラ、忍に迷惑を掛けていないか?」
「いつも良い子にしてるわよ。ご心配なく」
誠司は基本的に察しが良い。踏み入れて欲しくないところは聞かないし、あまり感傷的にならない。気軽に付き合える関係としては、忍にとって好意的な人物だ。公園の炊き出しを眺めていた時に声をかけられ成り行きで知り合ったが、今では忍とアキラの、相談相手兼兄貴分として振る舞っている。
ちなみに、アキラを忍に押しつけたのもこの男だ。歳は三十間近というが、若作りなのか、二十代前半くらいに見える。
「次の方どうぞ」
ボランティアの中年女性に促され、忍は豚汁とおにぎりを受け取ると、折りたたみの簡易テーブルにそれを乗せた。椅子など無く、周りではホームレス達が振る舞われた食物を無言で口に運んでいる。
五月の半ばとはいえ、やはり夕方になると風も冷たく、身震いも止まらない。
「アキラ、食ったらさっさと帰るぞ」
「うん。さすがにキャミの上に上着一枚は無防備すぎたわ。ちょっと反省」
無駄口を叩きつつ、二人は周りのホームレス達のように食事を始めた。先ほど食べたばかりとは言え、鈴乃の帰宅、母の電話のおかげで忍は食べた気がしなかった。今はこうして温かい食事にありつけているとはいえ、やはり野外は落ち着かない。
「忍、アキラ、このあとはどうするんだ?」
後ろのテーブルに着いた誠司が声を掛けて来た。
「暇なら、バイト先からカップ麺を三箱貰ったから持っていけ。その代わり、一晩泊めさせてもらえるとありがたい、久しぶりに風の当たらない場所で寝たいからな」
「分かったよ。でも、妹がいるから静にしててくれよ、また夜中にギターでも鳴らされたら面倒なことになるからな」
誠司は先日まで河川敷の藪の中に小屋を建てて暮らしていたが、最近になって市の職員達に追い出され、地下道や橋の下で野宿を強いられている。バイトというのは、誠司が世話になっているライブハウスのことだ。昔、誠司もそこのステージでギターを鳴らしていたらしいが、今では何故か雑用係をしているとのことだ。
「じゃ、倉庫から持ってくるから、ここで待っていろよ」
おにぎりと豚汁を口へ流し込み、誠司は意気揚々とテーブルを離れた。
(相変わらず、行動力がある男だ)と、忍とアキラは顔を見合わせた。