青い再生へ 1
それは、鈴乃が病院から逃げ出す、二日前のことだった。
「ほら、できた。やっぱり綺麗ね」
和子が花を愛でるように、黒く染め直した鈴乃の髪を優しく撫でた。
介護ベッドの背を上げ、鈴乃は座ったまま母の問に頷き続ける。和子にとっては満足の行くものだったようだ。
鈴乃は作り笑いを浮かべたまま、彼女の行為に身を委ねることしかできなかった。
和子はかわらず、お気に入りの人形を愛でる少女のように、ずっと鈴乃の髪や顔を撫で続けている。自分が人形にでもなったような感覚。
恐怖とも、安堵とも付かない気持ちを、鈴乃は昔から毎日感じていた。
逆らえない。少しでも逆らえば、和子は鈴乃にどうしてだと問いかけ、意にそぐわない答えが出ると、泣き出すか激高し、「どうしてなの!」と、ヒステリックに叫び出す。
理解している、彼女も必死だ。重度の障害を持った娘、その娘の命を誰よりも考えている。その気持ちが解るが故に逆らえない。
母を嫌いたくない。鈴乃は、そんなことを考えて生きてきた。
愛情と恐怖の象徴。それが鈴乃にとっての鈴原和子という母親だった。
「お母さん」
ようやく口を開き、鈴乃は生気の無い虚ろな瞳のまま母に声をかけた。
「私は、あにぃの何?」
「大事な妹よ。きっとお兄ちゃんも鈴乃のことをそう思っているわ」
「いいの? それで?」
「当たり前じゃない。お兄ちゃんは妹を守るの。それはお兄ちゃんの義務で、一生懸命家族で守り合う、助け合うことが家族と人間のすばらしいところよ。世界はみんなで支え合って生きて行くの。だから、お兄ちゃんのことは心配しないで。あの子も本当は分かっているわ」
良いことを言ったとでも思っているのだろうか、彼女は満足したように聖母や天使を気取ったような、満面の笑みを浮かべた。
「私は……あにぃに寄りかかっているだけだよ、お母さん。私はただ、あにぃに憎まれたくないだけ……普通にしたいだけなのに、私が、何したって言うんだよ!」
枕を壁へ投げつけ、頭をグシャグシャに掻きまくり、鈴乃は叫んだ。
「どうして、私をこんな風に産んだの? 私も兄貴も、アンタの人形じゃない! またこんな風に閉じ込めて、綺麗事を言うだけ、中身の無い言い訳なんて聴かせるな! アンタがちゃんとしないから、私たちは!」
絶叫と慟哭、その渦の中、鈴乃は心臓を押さえ呼吸を乱すが、その叫びは止まらない。
自分自身も、何を口にしたのか忘れるほど言葉を捲し立てると、瞬時に理性を取り戻し、母のヒステリックな恫喝に怯え身を強張らせたが、そう言った言動は返って来なかった。
どう言うことだと思い顔を上げると、和子の表情を見て戦慄した。
「そう言って、本音を聞けて良かったわ。貴方もお兄ちゃんのこと分かってくれているのね。でも大丈夫。綺麗事じゃ無いわ。だって、私たち親子は通じ合っているんですもの。貴方の言っていることは理解できる。それだけ元気ならば嬉しい。でも、誤解しないで、貴方は生きているんですもの。子供を人形と思う母なんているはずないじゃない」
穏やかな聖母の微笑みのまま、娘を肯定する母の言葉。そこに、鈴乃が望んでいる言葉は無かった。
「あなたが兄想いだって、お母さん分かってるわ。大丈夫、あの子はお母さんの子だから、鈴乃のために我慢できる。だって、お兄ちゃんなんだもの、鈴乃は心配しなくて大丈夫」
悪意の無い無垢な笑みは自分の心と生を誇りにしていると言った様子だった。
この人は正しいのかもしれない。でも、違う。恐ろしい、言葉が通じない。会話が成り立たない。
何を言っても、この人は自分の都合の良いことに解釈する人だ。
「私も、あなたのことを愛しているわ。だからあなたは、私のために生きていてくれれば良い。それだけで価値があるのだから」
自分が追い込まれている状況に対する、生きるための言い訳。
プラス思考という考えでは無い。独りよがりというレベルでは無い。
元々人間は、コミュニティを持つことを生業とした、群れで生きる生物だ。この人は、その根本である、コミュニケーションができていないことすら理解していない。
外界からの情報を自分の都合の良い方へ解釈し、それ以外は切り捨てる。
そう言った、脳の構造をしているとしか思えない。現実逃避と言った方が的確なのかもしれない、自分は現実と向き合い努力していると思い込んでいる。
鈴乃にとっても、母がここまでの思考能力に達していたことは予想外だ。
『怪物』この女はまさに鈴乃にとって、抗うことができない絶対的な存在だ。
「アイシテイルワ、スズノ。ウマレテキテクレテ、アリガトウ」
母の姿をした怪物が、頬にキスをした。
気が遠くなる。酸素が足りないわけじゃ無い。心が、この場にいることを拒んだ。視界が真っ赤になり、意識が薄れ行く。
ぼんやりと浮かび上がる人影。夢現のまま視界に映ったそれは、自分でも望まない形で、唯一鈴乃自身が絶対的に支配した男。
(あにぃ……ごめんなさい。産まれてきて、ごめんなさい……お父さんとお母さんを狂わせて、ごめんなさい。でも、私はあにぃにも、優しくしてほしかった……)
『誰がお前を愛するものか、バケモノめ……ふざけるな、お前は俺を殺し続けたくせに』
冷たい視線、自分に捧げられている物は哀れみでも、悲壮でも、同情でも、まして愛ですら無い、憎悪と呼ぶには相応しいモノだ。
思わず兄から視線をそらすと、足下には無数の骸が散乱していた。それは誰も彼もが兄自身の形をしている。
『お前のせいで、俺は死に続けているんだ。いい加減、お前も……死ね!』
赤い世界が一転し、漆黒が辺りを包み込み鈴乃はその闇の中でふっと、色々な何かが心を掠めたことに気がついた。
―※―
清一郎の計らいで、大学病院の手術室はすぐに用意できた。最新の医療機器、最高のスタッフを用意できる場所ではあった。手術には清一郎と誠司のほか、院内の医師達と、鈴乃を幼いころから見てきた医師や看護師の数名が手術への参加を志願した。
手術当日の朝、忍は昨日から食事を取らず、薄い浴衣姿で一人病院の廊下を歩いていた。『手術室までは歩いて行きたい』。忍の最後の条件だった。
窓から見える空は蒼く澄み渡り、深緑に染まった木々は夏が近いことを教えてくれる。
「やばいな」
その言葉が躊躇いを誘発させる。恐いと言う想いと、行かなければと言う思いが絡み合う。小さい頃に味わった、虫歯で歯医者へ向かう気分に近いが、今回の不安はそれとは比べ物にならない。
重い足取り、憂鬱な自分が嫌になる。そっと下腹部に手をやり、これから摘出されるであろう、自分の臓器と傷付けられる体を労う。
「やっぱ、恐いな」
手術室へと続く通路は大型の自動ドアにより、一般用の診療区画と別れている。自動ドアを潜ってしまえば、あとは手術終了まで出られない。地獄の門か、天国への扉か、それを目前にした忍は思わず足を止めた。
「鈴乃は、何度もここを通った訳か」
突然、忍の心情を代弁するかのように、アキラの声が聞こえた。
思わず振り向くと、確かにアキラは居た。ショートパンツと、タンクトップの上に薄地のパーカーを羽織ったラフな姿は、露出が多く、相変わらずだったが、今日は深く被ったキャップ帽のおかげで表情が覗えない。
「よう、二日ぶりだな……」
息を吐くように掠れた声で、忍は声をかけた。二日ぶり、と言う台詞は、まともに会話を交わしていない時間を指したものだ。
鈴乃を忍が見つけてから二日間、アキラとは一度も顔を合わせてはいない。憔悴しきった忍の心には、目の前にある問題に向かい合うのがやっとで、他に目をやることはできなかった。もしかしたら、忍が気づかないうちにアキラは近くにいたかもしれないが……。
「アタシのせい……だよね……」
ドアの前に移動したアキラは、帽子のツバで顔を伏せ直し続けた。
「絆とか、今までのことが家族の代償で、等価分がいつか返ってくる。みたいなこと言ったから……こんなことになるなんて、私が背中押したみたいで……」
前にもあった。しおらしいと言うか、弱々しく静かに語る女の声。それは忍が知る明朗快活なアキラの物と思えない。
「悪い、今はそんな話をしている余裕が無い」
暗い話になることは目に見えた。これから文字通り、命を賭ける場に赴こうと言うのに、他人のことなど構っていられない。
他人。その言葉に、忍は違和感を覚えた。
ずっと持っていた疑問。それを忘れるほどの自然な存在、考えるより先にそれをふと声に出した。
「お前……じゃなく、アンタは誰なんだ?」
口ごもるアキラに、忍が冷たく問いかけた。
「え? 何いってんの? アタシはアキラじゃない。帽子を取らないと判らない?」
アキラとは思えないような、余所余所しく弱々しい口調。手術直前の人間を前に、そう言った態度を取ること自体は不思議ではない。しかし、その姿はアキラに対する疑問を思い出させるには十分だった。だから、そう問いたかった。
「ここまで来て、どこの誰と暮らしていたかも判らないまま、死ぬかもしれないって考えたら後味が悪すぎる。一応、家族……みたいなモンだろ」
自分でも意外なほど、冷めた問い掛けだった。神原アキラという少女を忍は知らない。過去に何があり、どうしてホームレスをしているのか、聞いてもはぐらかされるだけだ。
忍も内心ではそれでも良いとも思った。だが、なら何故自分はこの少女をそういう風に思えたのか、この質問はアキラに向けたものでもあり、自分にも投げかけたものだ。
アキラも忍の想いを察してか、体を震わせ口を噤む。開いてしまえば、全てが吐き出されてしまうことは、忍からも見て取れた。しかし、『家族』と言う言葉が覚悟させたのか、彼女は深い溜め息の後、重々しく口を開いた。
「アキラって言うのは、自分で付けた名前。どこで生まれたのか判らない。気づいた時には知らない女の家にいて、その知人を盥回しにされてた。歳も十四って言ったけど、もうちょっと上だと思う。物心ついた時に誕生日って言うのを覚えて、逆算したら、大体これくらいかなって思って。下手したら、アンタより歳が上かも……はは……」
自嘲するように、乾いた笑いを浮かべながら、アキラはぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「ここまでしか、言えないよ。本当に、前の名前なんて思い出したくないし、聞いて欲しくない。ホント、人に聞かせられる話しじゃない・・・きっとアンタに嫌われるってちゃんと分かってるから。私も忍のこと言えない。一番、自分から逃げていたのはアタシだ。私からアタシに逃げた。忍や鈴乃に自分の理想を重ねて、勝手なことばかり!」
自分は呪われている、自分は汚れている。そう言った精神的な自傷が、自分の理想の家族と自分を思い浮かべた。忍と鈴乃の兄妹の関係は、アキラには羨望の対象だった。
だから、自分の理想とする家族のように幸せになって欲しかった。だが、それは思い違い以前のことだ。自分自身の理想を忍や鈴乃へ押しつけ、自己投影しようとした。
それは、忍が最も忌み嫌う大人達と同じ行いだった。
「相当なエゴイストだな」
「自覚してるよ、そんなこと。でも私は――」
「たぶん、俺はアキラの考える理想の家族って言うのを、鈴乃に求めていないと思う」
静かに忍はアキラの言葉を遮り、震える彼女の肩へそっと手を乗せた。
「でも、俺はお前のことを普通の…妹として、家族として見ていたかったのかもしれない。お前と一緒に暮らした生活は、本当に楽しかった」
だから憎まれ口も叩けた。気を遣わなかった。狂った日常と家族の中で、アキラは唯一、人並みで普通の存在だった。妹のような、姉のような、そう言った当たり前のように傍らにある存在。そう感じつつも、アキラにどう接して良いのか、結局、答えが出なかった。今の彼女の話を聞いても、それは変わらない。
アキラはアキラだ。だから、鈴乃という妹の存在が、自分にはバグと呼べるほどの不安定で不快な存在とも言える。元々『兄妹』という感覚自体が忍には無いのかもしれない、結論を言ってしまえば、忍自身にとって、妹と言うものは忌むべき存在だ。
アキラをそんな対象にすることなど、考えられない。今、一つだけ答えが出た気がした。
「この問題は俺達兄妹のことでお前には関係ない。でもお前と話せて、今はちょっとだけ・・・さっきより頑張れる気がする」
忍が手を置いている間、何度も肩を上下させ、鼻をすするアキラは泣いていた。そうなることを予想していたのか、アキラの帽子は涙を隠す仮面と同じ役割を果たした。
忍は壁に掛かった時計へ目をやると、アキラの顔を見ずに巨大な自動ドアを潜った。
「二人で、戻って来てよ」
ようやく絞り出された高い声の後、アキラは落ちるように膝を落とし顔を伏せた。
現在、午前九時四十分。手術の時間まであと二十分という時間だった。
次回、最終章第二節と第三節、エピローグとなります。
最後までおつきあい頂けましたら幸いです。




