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家庭内ホームレス  作者: とららん
第三章 すれ違いホームレス
14/30

すれ違いホームレス 4

週一ペースが続いてしまいましたが、よろしくお願いします。

―※―


 その日は大事な日だった。だが、忍にはどうでも良いことだった。

 アキラに押しつけられたチケットを見やり、忍はディスカウントストアに置かれたベンチへ腰掛けていた。やはり、本格的な夏も近いのか、外は異様に蒸しており、自然と涼しさを求め、たどり着いた店内に居座り二時間以上になる。


(どうでも良い)


 その一言だけが忍の心を支配していた。鈴乃が人前に立つ。立って演奏するだけ。そのために足を運ぶなど絶対にあり得ない。自分にとって何の価値も無い女だ。馬鹿馬鹿しい。

 どうでも良い。自分もどうなっても良い。この世の中に自分の置き場など無い。何をしても良い。誰も彼もがどうでも良い。自分自身がもう、どうでも良い。自分は自由だ。

 腹が減った。何を食べよう。どう食べよう。どうしよう。空腹、空、腹、手、食す。


 単語が並ぶ。疲労と空腹、磨り減った心が腕を動かす。アキラと別れてから何も口にしていない。入れても吐き出してしまう。


(もう、どうなっても良い)


 売り場を通りかかり、無意識に右手をポケットの中へと突っ込む。

 どうでも良い。と店の外へ出た瞬間、背中越しに声をかけられた。


「お客様、お会計が済んでいない物があると思いますが」


 心臓が引っ繰り返ったように高鳴り、反射的に振り向いた。

 黒縁眼鏡にオールバックの髪をしたスーツ姿の男が、睨みを利かせながら立っていた。


「あ、う……」


 どういうことだ。どうしてだ。そういった感情が後悔の波となって押し寄せる。

 男に連れてこられたのは、店の裏の警備室だった。


「右手のポケットに入っているモノを出せ」


 奥の椅子に座らされ、パニック寸前の忍は、言葉を発することができなかった。

 体が震える。吐きそうなくらいの嗚咽。動悸と息切れで呼吸ができない。ヒュウ、ヒュウと口から吐き出される息が荒い。

 それでも言われるまま、ポケットから右手を出し、そこに握られたチョコレートバーを震える手で机の上に置いた。


「買っては、いないな」


 スーツの男が、眉間にシワを寄せ腕を組んだ。男はこの店の保安員だった。一般的に、万引きジーメンと言われる仕事と、店の安全管理を目的とした警備会社の人間だ。

 忍にはそんなことを知る由もなかったが、自分の行為を理解した時には遅かった。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。もうしないから、帰してください!」


 体を丸め、祈るように目を瞑ったまま忍はやっと言葉を発した。


「店の人にあとは任せるから、少し待ってろ」


 怒りか哀れみか、それとも呆れているのか、スーツの男が複雑な表情を浮かべ、制服の警備員と入れ替わりで部屋を出て行った。

 制服の警備員は若かった。歳は誠司よりも若く見え、自分よりも少し上といった感じだろうか、ひょろっとした体格でありながら、マスクで口元を隠した青年警備員は、微動だにせず忍の前に立ち、睨みを利かせていた。

 隙のない直立不動の警備員。一見、その体格から、不意を突けば逃げられるのではと思ったが、忍にはできなかった。


(何をやっているんだ俺は)


 罪悪感が心身を支配する。目の前に立つ青年からは自信と誇りが感じられた。ふと、警備員と自分を比べてみた。やけくそになって座り込んだ自分、しっかりと地に立つ青年。


「ふ、ふふ……」


 乾いた自嘲が収まらなかった。たかが百二十円のチョコレートバー一つで自分の人生を顧みるなど、誰が予想できただろうか。

 たった百二十円。それほど小さい金額が、今の自分の心情では、一億円の借金を突然背負わされたような衝撃が絶望と相まって走馬燈を展開させた。


「鈴乃……鈴乃……」


 空っぽの心に、ふいと浮かんだ名前だった。今、どうしているだろうか、ライブの準備で忙しいはずだ。ちゃんと演奏できるだろうか。緊張しすぎて倒れるのではないだろうか。様々な思いが浮かんでは消えて行った。

 ひたすら、四人でいた時間が恋しかった。アキラも誠司も、鈴乃の体調に振り回されていないだろうか、迷惑をかけてしまった。どうしようもない自分が恥ずかしい。どうしてこうなった。やはり、鈴乃のせいだろうか、あの女がいるから家に帰れなかった。いや、違う。これは違う。これだけは絶対に違う。

 自分自身を恥じる。これはどうしようもないことだった。不意に、頭上の時計に目をやると、既に時計の針は四時を過ぎていた。


「お願いです。今日、妹のライブなんだ! だから、その…早く帰して――」

「今は自分がしたことを考えろ」


 氷のように冷たい青年の一言が全てを物語っていた。今の自分がとっさに何を言おうと聞いて貰えるはずが無い。ライブのことも口から出任せと思われてもしょうがない。真実を語っても、この青年には関係のない。彼の今の仕事は自分を逃がさないことだ。

 自分の犯した罪と立場という壁が、忍の言葉と行動、そして存在を否定していた。


「俺、これからどうなるんでしょう……」

 

 その問いに、警備員は何も答えなかった。

 普通に考えれば警察だ。となれば、ライブに間に合わないだけでなく、両親にも連絡が行くはず。もしかしたら、鈴乃とアキラ、誠司にまでいらぬ迷惑をかけ、不快な思いをさせてしまうかもしれない。ライブで音楽関係者に目をかけられても、デビューをさせて貰えないかもしれない。


(俺は、馬鹿だ!)


 全てに対して、自身を責め、何をどう考えても自分の心慰める術が見つからない。

 越えてはならない一線を越え、自分以外の誰かを不幸にしてしまう。自責の念と共に、周囲に対する申し訳なさで一杯になる。

 そんな悪循環の心境の最中、先ほどのスーツの保安員が、重い鉄の扉から顔を覗かせた。その後ろには、従業員がしている緑色のエプロンに、『副店長』という名札を下げた中年の男が複雑な顔で腕を組んでいた。

 制服の青年警備員は、保安員の顔を一瞥し、二、三度だけ頷いた後、何も言わず静かに部屋を出て行く。


「このまま、警察ですか?」

「当たり前だ」

 率直に答えた保安員の声が、重くのし掛かる。解っていたことだった。だが、それでも口に出さずにはいられなかった。


「でも、俺、この後……」

「お前の事情なんか、知ったこっちゃないな。自分が何をしたのか考えろ」


 先ほどの青年と同じことを、保安員が口にした。その意味を、忍はようやく理解した。人の物を盗んだ。盗まれた物は、沢山の人達の手により作られ、運ばれ、売られた物だ。店の人達だけじゃない、目に見えない、商品を作り出した人達の仕事と誇りに泥を塗ったのだ。

 一般的にはただの万引きだと、軽視されるかもしれない。

 だが、大変なことをした。と自覚した自分に何を言える。この人達の都合に、自分都合など関係が無い。それだけのことをしてしまった。

 覚悟を決めた忍が、震えながら保安員へ顔を向けた。


「お前、いくら持ってる?」


 強面の保安員が、眉間にシワを寄せたまま、まっすぐ忍の顔を覗き込んだ。


「二百円くらい……」


 そう答えた直後、保安員は副店長と顔を合わせ互いに頷いた。


「もう、この店には来るなよ」


「え?」っと間抜けな声を上げた忍に、低い声で凄みを利かせながら保安員は呆れたように、わざとらしく溜息を吐くとそのまま続けた。


「金があるなら払えよな。反省しているようだし、店の方も今回だけは許してくれるそうだ。商品は買って行け。いたずら心なのか、気が立っていたのか知らないが、もう、馬鹿なことするなよ。俺だって本当はこんなことしたくないんだ」


 首を振った保安員に続き、副店長が複雑な表情を浮かべながら口を開いた。


「原則入店禁止になりますので、見つけたら、次は警察へ連絡させてもらいます。あなたは、お客様ではありません」


 静かに抑揚のない副店長の機械的な台詞は、自分が人間のルールを逸脱した行いであると釘を刺した。つまり、今の忍は人間ではない。虫けら以下の存在だった。

 気が抜けたように、上半身がガックリと項垂れた瞬間、一気に情け無さで涙が溢れた。


「済みません。済みません」と、二人に何度も頭を下げ、震える手で財布から百円玉一枚と十円玉二枚を机の上に置き、保安員に促されるように立ち上がる。

 副店長から手渡されたチョコレートバーが、酷く重かった。

 

 警備室から出た頃には、時計の針は既に四時三十分を廻っていた。


「急がなきゃな」


 チョコレートバーを泣きながら貪り、自転車に跨ると忍は力一杯ペダルを踏みしめた。

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