孤立 5
この節は障害者の方に対し、一部過激なセリフが含まれております。
お読み頂く際は、ご注意、時代背景、お話しの展開上でのご理解を頂けますようお願い申し上げます。
―※―
翌日、朝七時を廻った頃だった。
今までは炊き出しへ向かっていた時間だが、鈴乃が来てからは家で三食摂ることができるようになり、体の調子も良い。鈴乃に強く意見を言えない理由の一つでもあったが、今日はそんなことを気にしていられる余裕が無かった。
「鈴乃。朝からキーボード打つのやめてくれ」
リビングに入った第一声はそれだった。
「起こしちゃった?」
眠い眼を擦り、ボサボサの髪を掻き上げ、忍が電子ピアノが置かれた台座を見やる。
木製の台座は、鈴乃の腰の高さに合うように調整され、微かに斜めに向けられていた。
「誠司が作ったのか?」
「さすがにずっと私の膝やテーブルには置いておけないでしょ」
忍に顔を合わせず、鈴乃は電子ピアノの音量を調整したり音を変えたりしながら、一つ一つキーに故障がないか確認している。
「こんなこと滅多に無いし、一生に一度かもしれないじゃない。やれることは、やっておきたいの」
「ああ、そうだな」
わざとらしく答えたのは皮肉だったが、鈴乃はそのことに気づいていないようだ。
「兄貴」っと、鈴乃が唐突に真剣な眼差しを忍に向けた。
「ピアノの足って、どこにあるか分かる?」
「いや、もう十年くらい前だし……」
一瞬、真剣に考えた答えがそれだった。
「そっか、じゃ、このままで行くしかないか」
コンっと、二、三度台座を叩き、鈴乃が気が抜けたようにソファへ身を投げ出した。
「それじゃ、都合が悪いのか?」
「ライブの時、恰好がつかないじゃない。勉強机みたいで」
「恰好より、まずは実力じゃないのか?」
「私は形から入るの」
「その金髪もか?」
瞬間、忍の目の前が真っ暗になり、顔面に柔らかだが勢いのある衝撃がぶつけられた。
クッションを投げつけられたと気づいた瞬間、鈴乃の甲高い声が耳を突いた。
「髪のことは言うな! 兄貴には関係ないんだから、いちいち突っ掛かるな!」
「なんだと!」と、言い返そうとしたが、忍はその言葉を飲み込んだ。忍が次に目にしたものは、涙をいっぱい溜めた妹の瞳だった。
―※―
(調子が狂う)
忍にはそれしか無かった。今までは、他人であるアキラや誠司を含め、周りを何も考えず生活ができた。だが、今は実の妹と一つ屋根の下で暮らしている。
どう接したら良いものか。大体、鈴乃と一緒にいることが忍にとっては不自然なのだ。
少しは気を遣っても良いのではと言う建前と、遣う必要がないと言う本音。それがせめぎ合っている自分が無性に情けない。
「百八十六、百八十七、百八十八」
廊下で腹筋運動をしているアキラの横で、忍はただ膝を丸めていた。
「誠司は、どうしたんだ?」
「ギターの、弦を、買って、来るって」
運動を継続したまま、アキラが答えた。
「二百、ノルマ達成っと……それより、アンタ達、本当に仲悪いね」
腕を伸ばして寝っ転がったアキラが、息を切らせた。
「聞いてたのか?」
「あんだけ大きい声出してればね。でも、二人とも嫌いたくないって感じっぽいかな?」
「なあアキラ、今、楽しいか?」
「凄く楽しいよ。みんながいるし」
唐突に出た言葉だが、アキラは即答した。
それだけで十分だ。無慈悲で前向きな空間、それに着いていけない自分。
これは孤立だ。
昨日の自分の選択は、明らかに自身の孤立を産むモノだと理解していた。だが、こんなにも早く目に見えて来るとは思わなかった。
心に自分とアキラ、自分と鈴乃を分けるクレバスが作られたことにより、忍は戦慄すると同時に言いようの無い不安を覚えた。
家族とか言っておきながら、結局いつも自分だけが相変わらずの一人かと自嘲する。『家庭内ホームレス』とアキラが言った台詞が思い起こされる。
「俺って、何なんだろうな。今の俺と鈴乃、どっちに価値が有るんだ」
「アンタは忍じゃないの? 何? 思春期?」
アキラの窘めるような口調は穏やかだったが、忍は馬鹿にされたような気分になった。
「何やってんだ二人して、廊下で談笑か?」
背中から掛けられた誠司の声に、忍は思わず振り向いた。
「なあ、忍。ちょっと外へ出ないか?」
来い。と言わんばかりに、誠司は親指で背後の玄関を指す。
「ジュースくらいは奢ってもらうぞ」
誠司の顔を見ず、忍は投げ遣りに答えた。
―※―
外の空気は五月にしては意外と暖かだったが、薄手のパーカー一つでは少し堪える。しかし、今は家にいたくないと言う気持ちを忍は優先した。
公園のベンチに座った二人は、先ほど自販機で購入した缶コーヒーで暖を取る。
「俺は、ジュースが良いって言ったよな」
「何だ? ちょっと寒いから温かいの買ってやったのに、もしかして飲めないのか?」
窘めるように、誠司がニヤリと悪戯っぽく微笑んだ。
「別に・・・ただ、好んで飲みたいとは思わないだけだよ。苦いし・・・・・・」
最後の一言は聞こえないように言ったつもりだったが、誠司は聞き逃さなかったようだ。
「まあ、そう言うな。美味いと思えば美味い。甘いと思えば甘いかもしれないだろ?」
そんな訳あるかと、馬鹿にされた気持ちになるが、忍は黙って口を付けた。
「鈴乃が気になるか?」
忍はコーヒーの苦みと、唐突に投げかけられたその問いに顔を歪めた。眉間にシワを寄せているのが自分でもよく分かるほど、今の表情の歪さがよく分かる。
誠司は「そうか……」と頷くと、忍の表情を読み取り、軽く息を吐いた。
「なあ、忍。お前、ちょっと背負いすぎているんじゃないか?」
「俺は、何も背負っちゃいないよ」
「俺にはお前が、勝手に色々背負い込んでいるように見えるけどな。鈴乃はお前じゃないし、お前も鈴乃じゃない。お前はお前で今を楽しめ。俺も、今はそうしているつもりだ」
含むところがあるようだが、隣に座る誠司が遠くを見つめる姿は、まるで自分が知らない男に思えた。
『今を楽しめることをやれ』、と言われるもよく分からない。
環境に振り回され、自分自身がどう思っているかすら分からない。だが、これは言っておこうと、忍は意を決し重い唇を開いた。
「この前、アキラが鈴乃と話しているのを見て、なんだか嫌な感じがした。俺の居場所が削られて行く気持ちになって、それが嫌で……俺は鈴乃が恐いんだ。アイツの行動で、俺は色々なものが奪われて行く不安を感じる」
言葉が滅茶苦茶で、感情が先走った。しかし、ゆっくりと自分の気持ちを紡ぐ。
腕を組んだ誠司が顔をしかめた。
「理解できない話じゃない。でも、難しく考えるな。お前の居場所はここで、それは、みんな同じだ。それで良いじゃないか」
「俺には、そんな気になれないよ。結局アンタも、俺の気持ちは分からないってことか」
すっと、音もなく立ち上がり、忍は公園の出入り口へと足を運んだ。
「どこへ行く」と、少し焦ったような誠司の問い掛けに何も応えられない。結局、今の自分には、誠司の言葉を何も受け入れることはできなかった。
―※―
ここ二、三日で夜の散歩が日課になってしまった。時間は夜の九時を過ぎていた。誠司と別れて一度も家には帰っていない。かれこれ半日以上街中を彷徨っていることになる。
アーケードの店が次々と閉店の支度に勤しむ中、大手のファーストフード店は深夜まで営業していることが多い。あてもなく、歩き疲れた忍はその中のコーヒー専門店で時間を潰すことにした。
三人がバンドを始めることは構わない。だが、どうも気に入らない。鈴乃は父と母、自分の友人や、将来を考えるための時間すら奪った張本人だ。激情が、自分自身でもセーブ出来なくなっている。
『…ね…※…ね…※…ね』
心の奥底に眠る願い、燻る感情が、少しずつ露わになる。いつか、身を委ねてしまうのではないかという恐怖が、忍を脅かしていた。
「ねえ、この前さ、鈴原見たんだけど」
自分の苗字を聞き、忍は視線だけその声の方向へ流した。男女四人二組のカップル。歳は忍と同じくらいだろうか、見覚えのないブレザーの制服姿だが、下校中のまま街中をフラフラしているようだ。
「鈴原って、あの心臓が悪いって言う女か?」
「そうそう、まだ生きてたよ。チョーウケル」
「マジ? アイツつまんねーし、小学校の修学旅行もアイツの体調に合わせられたぜ」
「私、同じ班で凄く迷惑だった。しかも親同伴だよ。すっごく嫌だった」
「そう言う奴、マジいらねーから。ってか生きてる意味ねーよ、人間の出来損ないだから」
「社会のゴミだよゴミ。ああ言う奴らに税金無駄に使って欲しくないね。何が弱者だよ生産性もないクズってか生きてる意味なくね?」
「ホント、なんで生きてんの?って感じだよね。で、そいつどうなったの?」
「生きててびっくりしたから『生きてたよー』って、みんなで笑ったら泣いてどっか行っちゃった」
「ギャハハ。空気もったいねー」
パシャン。と言う擬音が聞こえた時には、もう後戻りができなかった。
気づくと、プラスチックのカップは空になり、目の前には四人の男女が、コーヒーに濡れた服を拭きながら怒号を飛ばしていた。
「てめえ!」
男の一人が忍の襟首を掴み上げ、睨みを利かせた。
「楽しいかよ。関係のない奴が、関係のない奴の生死をどうこう言うのが、楽しいかよ!」
手前側に座っていた女が気づいたのか、バツが悪そうに顔をしかめた。
「鈴原の兄貴じゃね?」
「お前らに、鈴乃の何が分かるって言うんだ。教えてくれ。俺は、どうしたら良いんだ!」
顎が震える。ガチガチと上下の歯がぶつかり合う音が耳を突く。
「ねえ、行こうよ。ヤバイってコイツ」
奥に座る女が、対面する男の手を引いて席を立った。
「待てコラ!」
叫びと同時に、忍は襟首を掴んでいた男の顔に拳を入れ、奥の女の髪を引っ張り上げた。
甲高い悲鳴と同時に、辺りは騒然となり目の前が真っ赤になる。
忍が覚えていたのは、ここまでだった……。




