七話
屋敷の二階にある談話室に座長とカルの父親らしき男が入ってきて、三十人ほどの団員が一斉に静かになった。
「皆、集まっているわね。今日は皆に特別な話があって集まってもらったわ。サシアエッタの未来に関わる話よ」
そう言って、座長は夫に頷いた。夫は快活な笑みで頷くと一歩前に出て、明朗な声で皆の顔を見渡しながら話した。
「やぁ、久しぶりの人も初めましての人も、こんにちは。知っているとは思うが、私は商人で世界のあちこちに友達がいる。そこでサシアネッタの人形劇を見てみたいとお声がかかってね。場所は吟遊詩人の聖地ネブリーナ。文化交流も兼ねてどうだろうか」
談話室内はたちまち談義と質問が飛び交った。カルの父親は的確に濁すことなく質問に答えていく。一番の問題は費用の話で、これは商会が出すということで話が煮詰まる直前に座長の声が響く。
「大事なことが抜けてるわよ。耳にしたこともある人がいるんじゃないかしら?」
静まり返った視線が集まると、座長は一つ息を吐いて言った。
「ゲピュラ皇国がプルッケル自由都市に侵攻するという噂を。ゲピュラ皇国とプルッケルの北部にあるのがネブリーナ。それに、ネブリーナは数年前にゲピュラ皇国の属州になっているわ。プルッケル自由都市が侵攻されるとなったら、スバニア騎士国が正義を果たすべく、プルッケルに騎士団を差しむけるわよ。そうなってみなさい。私達は戦火に飛び込むことになる。最悪、劇団どころかみんな死んでしまうわ」
談話室が騒然とした。座長は、弁解を待つかのように静かに、それでいて重い目で夫を見据える。
カルの父親は、妻である座長の目をまっすぐと見返して微笑むと頷いて、談話室の皆に鎮まるようにと仕草をした。
「いいかな。あくまで噂に過ぎない。プルッケル自由都市に手を出すということは、世界の半分を敵に回すに等しいんだ。そんな愚かなことを、三百年も大国を治めた皇帝がするだろうか? 数年前に、敵国を根絶やしにすることなく、属州としてネブリーナを迎え入れた国が。戦争が起きるかもしれないと吹聴するのは、戦争で儲かる者達なのだよ」
真意を探るような怪訝な空気が流れるも、カルの声が鶴の一声のように流れを変える。
「ネブリーナも私達の芸と同じように、ただの芸じゃないの。秘術を用いた芸術家よ。神秘の力を用いた芸術家達は排他的な思想を持つのがほとんどだから、この交流でなにかを得られれば、サシアネッタの新たな未来を創ることができるはずよ」
サシアネッタの人形劇は、その人形がまるで人のように動き、声を発する。人にはできない動きをすることによって、人外の力を持つ英雄の叙事詩を再現したり、神秘によって炎や光を駆使して幻想的な演出をすることから、サシアネッタの人形劇は有名だった。
しかし、この人形を持つのはサシアネッタだけではない。プルッケルで作られるこの人形は、世界に売られている。だからこそ、劇の内容、目新しいことに挑戦していかねばならなかった。
劇の内容が定形化された古いものだと劇団員はわかっていた。港の旅人や商人が劇を観にこないことが、その証左だった。細かいことの談議が続いたが、概ね遠征公演へ行く方向で話が纏まった。
マーシャルが談話室を出ようとすると、カルが呼び止めた。窓際に立って、外の前庭の掃除をしている召使いに目を向けながら腕を組んだ。
「あなたは、遠征に賛成?」
「みんなの将来のためになるんでしょう?」
「サシアネッタの人達は、みんなあたしが幼い頃からいる人達で、人形劇っていう芸術に生きているのよ。あなたは違う。それに、もう十六歳になるでしょう。町の者は、十六歳から自分の将来にあった学舎に通う。あたしはサシアネッタにしか興味がないから、フレル院の学舎に通うけど、あなたは今、雑務担当でしょう。サシアネッタにいるって決意するなら、人形操術を教えてあげないこともないけど、あなたの意思はどうなのかってことよ」
意思。家を出て、ここで働かせてもらっているだけでありがたいことだと思っている。これ以上望んだところで手に入るわけでもなく、方法も知らない。
自分と同じように窓の外に視線を投げるマーシャルを見たカルは、肩を竦めて見せた。
「なにか、夢とかないの? サシアの港町には色々なものがある。それを見てなにかやりたいと熱を感じたものとかよ」
「歌、かな」
ふーん、とカルはマーシャルの横顔を眺めた。
「聖剣歌のこと?」
「うん。わたし、あの人達のように人になにかを与えられることをしたいの。今だって、劇を楽しんでくれる人のために、舞台裏で働けてるってことは理解しているけど。毎朝、聖剣歌の乙女の歌を聴くでしょ? 心が綺麗になって軽くなる気がして、よし、今日も一日頑張るぞってなるから。わたしも、そんな気持ちを人に与えられたらいいなって思う」
カルは考えるように鼻を鳴らした。
「聖剣歌ってなると、確か王都に本部となるカンサルタ歌剣院があるって聞いたことがあるわ」
マーシャルは苦笑を浮かべてカルの視線を受け止めた。
「それじゃあ、無理ねわたしには」
カルは組んだ腕の指で拍子を取りながら、窓の外に顔を向けた。
「遠征って言っても、すぐってわけじゃないだろうし、なにかしら考えてみるのも手だとは思うけど」
なにがあるというのだろうか。マーシャルはそう独白することしかできなかった。
戸籍のない自分には王都で仕事をもらうのは無理だろう。手に職もない。職を失えば、母のように村から村へと渡り歩くことになる。きっと、母はあのような父親と一緒になることで屋根を得たのかもしれない。
マーシャルは屋敷から出て足を止めた。
(わたしのために、母はあの男と)
思わず顔を顰めるほどの感覚が、胸を締め付けた。
談話室での話から二ヶ月が経ち年が変わった。十六歳になったマーシャルは、サシアネッタの劇団でせっせと雑務をこなしていた。
浮腫んだ手にあかぎれを作りながら、雪が振る野外荷物置き場で使わなくなった舞台道具を解体していた。深く刺さった釘は曲げられて抜けないように打たれていて、釘の頭を梃子で起こし、釘を抜こうとするもなかなかうまくいかない。
「やぁ、君が娘の友達のマーシャルだね」
マーシャルは振り向き、カルの父親に挨拶をした。柔らかそうな黒い革の外套に、ふさふさの白色の毛皮を巻いている。
「はい、そうです旦那様」
カルの父親は、柔らかい笑みを湛えて、装飾が施されたステッキをつきながら近づいてきた。
「妻とはどうだね。仲良くやっているかい」
「妻……あ、座長のことですね。はい、よくしていただいています」
カルの父親は快活な笑いをあげると、満足そうに頷いた。
「そうかそうか、それはよかった。妻は冷たいと思うことがあるが、どうやらそれは私だけのようだ」
お茶目な笑みを一つしてみせたカルの父親につられて、マーシャルは微笑んだ。
「ところで、君は王都で働く気はないか?」
「え?」
自分の気の抜けた声に、マーシャルは思わず喉の調子を整えると、胸の前で手を握ってカルの父親の顔を見上げた。
「わたしが、王都でですか?」
「あぁ。知り合いが人を欲しがっていてね、そんなときに君の働きぶりが耳に入ってた。君は十六歳になったと聞くし、王都ではここよりも将来の選択肢が多い。君にとっても悪くはない話だと思うのだけど、どうかな。もちろん、君が妻の劇団を気に入っていて、働き続ける道もある」
マーシャルはしどろもどろに、棄てる舞台道具と、地面、カルの父親を見比べた。
胸に前で握った手を揉みほぐし、あかぎれが開いた痛みで自分が舞い上がっていることに気がついて、深呼吸をした。
まっすぐとカルの父親を見上げると、
「お願いします」
カルの父親はゆっくりと一つ頷くと、踵を返し、ふと足を止めた。
「娘は君が好きなんだな」
肩越しにそう言って去るカルの父親の背に礼をすると、マーシャルはカルの元に走った。
カルは、人形操術の稽古をしていて、息を切らしてやってきたマーシャルを見て顔を顰めた。他の団員も、何事かとマーシャルに問う目を向ける。
「カル、あの、話があるの」
「いまじゃないと駄目なの?」
マーシャルが口籠もるのを見て、カルは団員に「少し休憩にするわ」と言って出てきた。
「ごめん」
「それより、どうしたのよ」
「旦那様から聞いたの。カル、わたしが王都に行けるように計らってくれたくれたんでしょう?」
カルは顔の前で手を振った。
「当然の会話をしただけよ。あとはお父様が勝手にしたことでしょ。でも、その顔からするに悪いほうにはいかなかったようね」
マーシャルは目ぎゅっと閉じて頷いた。
「うん、ありがとう」
それからひと月も経たない間に、マーシャルは荷物を持ってサシアの港にいた。カルがマーシャルの荷物を桟橋まで運び、船に掛かった橋の前で二人は微笑み合った。
「王都でも元気で」
「ありがとう。カルも、サシアネッタの第二の座長として、頑張って。お金が貯まったら観にくるからね」
「その前に聖剣歌の乙女を目指しなさいよ。夢でしょ」
カルは座長によく似た、静かな笑みを湛えて船に乗り込むマーシャルを見つめた。
「カル」水夫の出発の声とマーシャルが振り返るのは同時だった。
「ほんとに、ありがとう」
「お別れみたいに言わないで」
カルの温度の変わらない言葉に、マーシャルは頷くと、甲板に上がった。出港し、カルが小さく見えなくなるまで、マーシャルは甲板から港を見つめ続けた。
王都に近づくにつれて、瑠璃城の太陽光を纏った輝く威容が鮮明なものになっていく。土ノ季の乾き冷たい波風のなかに聳え立つ、瑠璃色に輝く城。
「王都スバニア……」
同時に、マーシャルは胸の中でカルの言葉を思い出す。
――ただ卑下するのは自分を愛でること。
「わたしなりに、やってみるから」
港に降り立ったマーシャルは一歩を踏み出した。