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Belief of Soul〜薔薇の棘〜  作者: 彗暉
第二章
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五話

 家を出たのは火ノ季の前。とにかく太陽が昇る方へ進んだ。歩いた数だけ家のことを忘れられる。離れれば離れるほど、記憶のどこか遠いところに行く――そんな感覚を抱いていたから。

 時折現れる村で、納屋を借りる代わりに厠掃除を、食事を貰うために厩舎を掃除して一日を凌いだ。

(失敗すれば、見限られる)

 だから、マーシャルは人前で一度失敗すると村を後にした。

 そんな暮らしをして二ヶ月が過ぎて、季節は火ノ季から土ノ季へと移った。空は薄く伸びて頬を撫でる風はひんやりとしていた。

 茶色く乾いた下生えの上に座って、風の音しかない草原を眺めながら、靴を脱いで風に晒している足の裏を揉んだ。ふくらはぎはぱんぱんで、村の厠掃除で手は腫れ上がりあかぎれを起こしている。顔は常に浮腫み、商人の馬子の男の子が笑ってこう言った。

「お前の母ちゃんパンとヤったのか?」

 洟を啜りながら脚を摩った。足の裏には豆すらなくなり、厚い皮を持った中年の男みたいな肌だ。ふくらはぎの一部に身に覚えのない痣を見つけて驚き、太腿と大差ない太さになっているのを見て愕然とした。

 前の村では、同じ年頃の娘が風になびく髪に花を挿して鍛冶屋の息子のことで語らっていた。

 あんなふうに、生きてみたい。

 一つため息をつくと、街道の向こうから幌馬車がやってきた。

「やぁやぁ、ご機嫌よう」

 御者が、麦わら帽子をちょんと傾けて挨拶をした。

 マーシャルは、くるぶしまでしかない擦り切れた靴を体の後ろに隠し、素足を恥ずかしげに裾に隠す。

「こんにちは」

「先ほどの村の娘かね?」

 マーシャルは少し考えるように、御者の顔を見てから、荷台を横目で窺った。

 樽や、木箱がわんさか積まれていて、そこから空の瓶が見えた。

「いいえ、わたしは、違います」

 御者のふさふさとした眉の下が曇る。

「まさか、旅人なのかい?」

 御者は、そうきいて、マーシャルが垂れた前髪を耳にかけて、目を逸らしたのを見て、顔を引いた。

 御者が手綱を握り直したのを見て、マーシャルは慌てて立ち上がった。

「あの、商人さんは、これから村にいくんですか?」

「いや、サシアに戻るところだよ」

 マーシャルの顔にぴんとしたものを見なかった御者は、言葉を次いだ。

「王都の南にある港町だよ。そこで仕入れているからね」

 港町ときいて、マーシャルは胸が一つ高なった。港町の大きさはわからないが、商人が物を仕入れるくらいの場所ならば、仕事があるかもしれない。

「あの、乗せていってもらえませんか」

 御者は困った顔をしながら考え込んだ。マーシャルは、体の前で手を揉み合わせながら、自分ができることをのべつまくなしに語った。

「そういうことじゃないんだが。うーむ。もう身寄りがいないんだね? 本当に」

 いない、という状態がどう言うことかを言わないから、自分がいないと思ったらいないことになるだろう――と、マーシャルは強く頷いた。

 そうして、数日馬車で移動してサシアの港町にやってきた。

 サシアは低い壁で周囲を囲まれていた。

 人が通りを埋めて、馬車はまともに通れない。色とりどりの鳥を納めた鳥籠を吊るす商店や、小さな屋台を背負って干した肉や香草を歩き売りする商人、色とりどりの刺繍がされた布を行き交う人に押し付けるようにして売ろうとする商人、そういった喧騒と匂いの壁に、マーシャルは面食らって唾を飲んだ。

 そんなマーシャルに、御者の男は顔を近づけて、声を張り上げた。

「このまま役所に向かうぞ。仕事を斡旋してくれるはずだ」

 役所に向かう間、御者は港町のことを怒鳴るような大声でマーシャルに教えた。

 港町サシアは、マッケロ川の南側の畔にある港町。南の物や人が王都に向かう最後の中継点であり、交易の関税によって発展している。南の船着き場に行けば、マッケロ川の山のような中洲にある王都スバニアが拝めると言ったところで、役所に着いた。

 どうどう、と声をかけて幌馬車を停めた御者はマーシャルを見た。

「ここがサシアの役所だ。ここで仕事を斡旋してもらえるだろう。ところで、嬢ちゃんは幾つなんだい?」

「今は十四です」

 商人は顎の髭を掻きながら思考を巡らせると頷いた。

「まぁ、あと二つ星も経てば年が変わるから十五ってことにしておこうか」

 御者は、どっこいしょ、と馬車から降りると、腰を伸ばす。そして、はっとマーシャルを見た。

「民章は持っているかね」

 スバニア騎士国の臣民は帰属する町があり、町民の証として民章を授かる。その民章は出生記録と共に管理され、国の保護を受けることができる。仕事の斡旋も、当然ながらこの民章が必要だった。

「こりゃ、参ったな」

 マーシャルは、額の汗を拭う御者の男を見てから街を見回した。

「ここまで色々とありがとうございました。ここからは、わたし一人でなんとか」

 御者はマーシャルが言い切る前に、役所の列に何かを見つけたように声をあげ、中に入っていった。

 程なくして、一人の娘を連れて戻ってきた。歳はマーシャルと同じくらいだったが、腰に手を当てて、商人を見上げる目には臆するものはなく大人びた雰囲気を纏っていた。

 その娘の目だけがマーシャルに向けられ、マーシャルは思わず視線を逸らした。

 絶対に友達にはなれないだろうとマーシャルは思った。

「あなたがマーシャルね。あたしはカル、男みたいな名前でしょ」

 カルはそばかすのある顔に笑みを見せる。それが想像以上に幼く見えて、マーシャルも笑みを湛えて頭を振る。

「仕事を探してるんでしょ? あなた、体は強いほう?」

 足腰のことだろうかと考え、男のような力仕事はしたことがないが、行く先々の村で濡れた藁を一度に運んだり、荷車を押したりとそこそこ力仕事はしていたことを思い出して頷いた。

「最近、風邪をひいた?」

 マーシャルは宙を見上げて、どうだったかと考える。ないかもしれない、と考えて、カルの顔に笑みが消えてるのを見て、マーシャルは目が覚めたように頭を振った。

「今まで風邪をひいたことはないわ」

「今まで、一度も?」

 マーシャルは頷く。カルはマーシャルの身なりを目で確かめると、商人を見上げた。

「戸籍がない人を雇うの。仲介料とかはなしよ。母様にきつく言われてるんだから」

 御者は薄い苦味のある笑みで頷いた。

「嬢ちゃん、ここまでだ。あとは頑張れ」

「ありがとうございます。でも、あなたに何も返せなくて」

「それなら、俺の商売と旅の幸運をフレルに祈ってくれ」

 なぜ太陽に祈るのかと思いながら、マーシャルは頭を下げると、早足でカルの背中を追った。

 カルは、サシアの港町だけではなく、スバニア騎士国でも有名な人形劇団の座長の娘だった。

「生まれも育ちもこのサシア。さっきの人はあたしが幼い頃から、うちの劇団にお酒を卸している商人よ。そして、ここ、着いたわ」

 飾り気のない言葉を向けられた建物は三階建で、港町に入ってから初めてみる石造りの建物だった。

 町外れの建物は、どれも木造で、土の壁に白い漆喰が塗ってあるものだ。その風景のなかに、突然現れる石造りの建物は、威圧感にも似たものを感じさせる。

 それを和らげるためか、門構えに趣向が散りばめられている。大きなものは、離れていても目に留まる大きな看板、その周囲を飾る精巧に作られた人形、色とりどりのガラスの棒が太陽の光に輝いて、色とりどりの賑やかな雰囲気を装っていた。

「小さいけど歴史はある。ここが劇団〝サシアネッタ〟」

 さ、入って、とカルは初めて上機嫌にそう言うと、両開きのガラス窓の赤い扉を押し開けた。

 外から見たら三階建だが、中は二階と三階を吹き抜けにしたような、天井の高い二階建てとなっていた。

 一階の入り口すぐに、一段高くなった仕切り台があり、カルが、ここで券を改めるのよと言った。その奥に進むと広間があり、広間の天井は高く、天蓋になっていた。

 二階には、酒場の一角のように停まり木が並ぶ仕切り台が見えた。上演までの時間や、待機時間、待ち合わせにも使える、ちょっとした憩いの場になっているのだと、カルは指差しながら微笑んだ。

 広間の中央には円を描いた大きな花壇があり、その縁は軽く腰がかけられるようになっていて、その奥に鮮やかな青い扉があった。

「あそこから会場に入るの。今日は上演日じゃなくてね、昨日が千穐楽だったのよ」

 マーシャルの気遣わしげな表情を振り返ったカルは手で静まり返った広間を示す。

「千穐楽っていうのは、上演最終日のこと。だから、今日はこんなに静かなのよ」

 カル曰く、上演の初日は息つく暇もないほどに慌ただしいという。

 舞台は三家族分の平屋がすっぽりと入ってしまいそうなほど広くて、あそこでどんな人形が動くのか、あんなに広いと逆に人形は見えないんじゃないかと考えていると、舞台の裏側に連れてこられた。

「座長!」

 カルは大声で広い舞台裏を歩いていく。雑多に物が溢れたような中を、マーシャルはぶつからないように歩いていくが、カルがどんどん離れていってしまう。

 マーシャルがなんだかよくわからないものを潜った先に、腰に手を当てたカルが立っていた。その傍には、指を鳴らして二十年時間を進められる魔法があったとして、それをカルに使ったらこうなるだろうと思わせる女が立っていた。

「マーシャル、こちらが座長」

「あ、あの。わたしはマーシャルです。お世話になります」

「話は娘から聞いてるよ。戸籍がないなんてスバニアじゃ珍しいけど、昔はほとんどがそうだったからね。サシアでは戸籍がない者を雇える枠が決められていてね、ちょうどその枠が空きそうだから、早めに雇ったってことにしておくよ。まぁ周囲に戸籍がないって言いふらすのはやめておいたほうがいいね」

 はい、とマーシャルは泣きそうになる声を抑えて、胸の前で握った手に力を籠めて頷いた。

 それからというもの、マーシャルは毎日せっせと働いた。風邪で休む者がいれば張り切って仕事を代わりに勤め、ゆっくりだが仕事を覚えていった。

 毎日必ず二回はなにかしらの失敗を犯すため、舞台裏の物品の出し入れ、人形の衣装の繕い、買い出しを担当していた。

 サシアの町での暮らしも、一年が経つとどこのお店が安いなどがわかるほどに慣れてきていた。

 それでも、マーシャルはカルが苦手だった。

 七つの星に日々の心の在り方を当てはめた教えを説く星教は、アルヴェ大陸の主要な国家が取り入れていて、スバニア騎士国も例外ではない。そのため、ほとんどの町民は朝と夕の祈りに参列する。だから、カルとは毎朝一緒にフレル院に祈りを捧げに行かねばならなかった。

「いきましょ」

 カルはマーシャルと違ってなんでもこなすことができた。金の勘定、人形の操作、出納の管理まで、座長がいなくなってもカルがいれば劇団は運営ができる。

 仕事をマーシャルに教えたのはカルだったし、仕事をなかなか覚えず、覚えても失敗するマーシャルの面倒を根気よく見てくれていた。しかし、笑顔はなく、すべてに淡々と接する姿勢は、まな板で野菜を切っていく包丁を彷彿させて、どこかやりづらかった。

 木造建築で、ステンドグラスの天蓋をもつフレル院には、まだ太陽が地面から顔を覗かせたくらいなのに、礼拝者が大勢いた。長椅子はすでに八割以上が埋まっていて、千人はいそうな雰囲気だ。

 カルの横に座り、マーシャルは膝の上で手を握って、中央にある壇上を見た。三十人ほどが並べそうな演台は白亜の石でできており、木造の建築の中では白色が映えて神聖さを感じさせた。天蓋を作り出す巨大なステンドグラスの数多の色が、朝陽の薄い橙色に輝いて聖堂の入り口を照らしている。

 朝を報せる鐘が鳴り、騒がしかった聖堂内は静まり返っていく。

 演台に続く扉が開き、星教の上下一体の白い祭服姿の七人の星官達が、足並みを揃えて演台に向かって進み出てきた。

 星官の後ろを、髪に生花をさした娘達が足並みも疎らについていきていた。身なりは星官とは違い、茶色の毛織りの質素な長衣を着ている。

 ――聖剣歌の乙女。

 マーシャルは、町での暮らしのなかであの娘達に憧れていた。聖歌によって人の祈りを神に届け、神秘を人々に届ける。そんな彼女達の歌声は、心に染み渡る朝の空気のようだった。

(わたしも、人になにかを届けたい)

 舞台裏での忙しない道具の出し入れ、人形の掃除などが、人々に人形劇を届けていると理解していても、マーシャルは日々の疲れを感じるたびに聖剣歌の乙女の聖歌を口ずさんでいた。

 朝の七つの星への祈りと聖歌が終わると、聖堂内は退場の喧騒に包まれた。マーシャルは体が軽くなるような高揚感を感じながら席を立つ。横を見れば、カルも晴れやかな色を目に湛えている。

「今日も一日、よろしくねマーシャル」

「はい」

 同い年なのに、カルは三つも四つも年上のように感じさせる。そのカルが振り向いて、僅かに歩幅を緩めた。横目でこちらを見てくるカルは、なにやら楽しそうに笑みを見せている。

「ちょうど、去年の今頃よ。あなたが、高価な人形の首を折ったのは。その日も、こんな朝だった」

 マーシャルは、朝の高揚感が去るのを感じながらさっと俯いて眉を強張らせた。

「ごめんなさい」

 そう言ってからカルの顔を見上げると、そこにはもう笑顔はなかった。

「責めるつもりはなかったのよ。ごめんさいね」

 劇団に帰るまで、会話は一つもなかった。

 その日は上演の初日だった。マーシャルは腕まくりをして、朝に去年の話を聞かされたのは啓示だと考えて気を引き締めて仕事にかかった。

 物語も終盤、最後の暗転がやってきて大きな入れ替えが行われる。マーシャルは自分が担当している人形を入れ替えようと舞台裏に運び、入れ替える人形を箱から取り出す。人形は神秘の技で動くため、ルスを溜めなくてはならず、出番の直前まで専用の箱に入れておかなければならない。だから、出番の直前に箱から出さなくてはならないのだった。

 他の団員はすでに箱から取り出して衣装を着せ始めていた。マーシャルは服で掌の汗を拭うと、人形の頭を持って箱から引き抜いた。箱を机に置こうとしたとき、人形を持っていた手が滑った。

 声を上げるよりも早く人形は地面に落ちて小枝が折れるような音を響かせた。マーシャルだけでなく、周囲で人形の準備をしていた団員の手が止まり視線が注がれた。

 マーシャルは慌ててしゃがみ込み、人形をそっと持ち上げる。どこも壊れた様子はなくて、マーシャルは胸から腹に汗が滴るのを感じながら、思わず喜びそうになった。

 道具長が眼鏡をあげながら慌てて寄ってきて、見せてみなさいと丸眼鏡をもう一度掛けなおした。

「駄目だ。芯が折れとる」

「ご、ごめんなさい!」

 マーシャルの震える言葉どころか、存在そのものが見えていないかのように、道具長は他の団員に指示を出して、人形を入れ替え、なんとか劇を遂げられるように指示を飛ばした。団員もそれに応えててきぱきと動いていく。マーシャルは、胸の前で握った手に力を籠めながら、自分が壊してしまった人形を見つめることしかできなかった。

 舞台が終わり、手を揉みながらつかつかと座長がやってきた。

「人形が一つ駄目になったと聞いたわ」

「座長、これなんだが」

 道具長は人形を座長に手渡した。座長の淡々と人形を見る姿に、マーシャルは内臓を掴まれているような感覚を抱き、握った手を撫でた。

「芯が折れとるもんで、修理が必要だ」

「側は平気なのね?」

「大丈夫だ。しかし、机の高さから落としただけで壊れるほどに劣化してるとなると、他の人形も危ないだろうな」

「そう。ならこの公演が終わったら一斉に修理に出しましょう。これを壊したのは?」

 道具長は、一瞬口を濁したのちに、「マーシャルが誤って箱から落としてしまった」と言った。

 座長は、すっと肉に分け入るナイフのような視線をマーシャルに向ける。その目からは何も読み取れず、マーシャルは手をぎゅっと握って震えそうになる息を叱咤する。

「ごめんなさい!」

 硬い沈黙だった。呼吸さえも許されない、マーシャルはそう思って目を堅く閉じる。

「顔を上げてマーシャル」鼻を啜るマーシャルのまっすぐと見つめてくる顔を、座長は色の変わらない視線のまま頷いた。

「あまり気に負わないこと。次からは落ちないような場所で箱から出すなりしてみて。皆も、同じようにきをつけてちょうだい。たまたまマーシャルだっただけよ」

 団員達は、確かに、と座長に同意するように口ずさんだ。

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