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Belief of Soul〜薔薇の棘〜  作者: 彗暉
第十章
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四十九話

 ウィリアムは強く目を瞑った。

 ――愛すること、そのもの。

 そのことを忘れない。そうすれば、必ず繋がっていられるから。繋がっていられることを、当たり前だと思ってはならない。ウィリアムはシュヴァリンに感謝の念と信念を示すように黙祷を捧げた。

 目を開けたウィリアムは、抱いた腕の中のマーシャルが剣に変わっていることを実感すると、胸を締め付ける苦しみに息を殺した。剣には薔薇の蕾と僅かな蔦が絡まる意匠が現れている。その薔薇の意匠を纏った剣に、一瞬、なにかを感じた。焦がれるように求めたくなる繋がりが、この剣から感じる。

「それは……」

 ジルクートの声は掠れていた。ウィリアムは剣の刀身を撫でて朧げに頷いた。

「あぁ、マーシャルだ。聖剣マーシャル」

 ウィオラはさめざめと泣き、ヤグサとベーネは自分の目を疑うように聖剣マーシャルを凝視している。

「いこう」ウィリアムは自分でも驚くほど力強く立ち上がった。

 戦場の上空には先ほどよりも巨大化した光球が再び現れ、今にも落ちようとしている。しかし、今はその光球を包むように、澄んだ青色の巨大なライラックの花が押し留めていた。エクエス=フォルツの力によるものだと一行は理解したが、その巨大な花の花弁に罅を見て時間がないことを互いの目に認め、一行はエクエス=フォルツを追って敵陣へと向かって行った。

 敵味方関係なく襲った神秘に恐れて、ゲピュラ軍は追撃の兵を送ることなく丘の上でたじろいでいた。しかし、一人の男が馬を前に進めて剣を翳した。ゲピュラ皇国三公が一人、カリエント公だった。その突撃の合図に、カリエント公の兵が進軍を始めた。

「お前ら五人だけでは無理だろう」

 煤だらけのランパートが背後からウィリアム達に追いついて言った。その後方には、指揮官を失っても怖気付かない師団長に率いられた残りの戦士達が続いていた。

 ランパートがウィリアムの背中に声を投げた。

「あの神秘を見れば明白だか、相手には賢者がいる。そいつを仕留めなきゃ戦争は終わらない。やれるのか?」

「やるしかない」

 ウィリアムの躊躇ない返答に、ランパートは眉をあげた。

「ったく。どこまでもあいつの息子だな。俺たち従士も腹を括るぞ! 俺たち先輩が露払いしてやる」

 ウィリアムは仲間を振り返った。そして、聖剣マーシャルを見つめた。

「いこう」

 ウィリアムたち五人は血に飢えた悪魔のようにゲピュラ兵を斬り捨てて進んだ。そこに、妙にはっきりと笛の音が聞こえてきた。

「笛の音に意識を向けないで! 意識を向ければ向けるほど術中にはまるわ!」

「耳を塞ぐのは無理だぞ!」

 ヤグサが叫んだ。

「わたくしの歌に耳を傾けていただければよろしくてよ!」

「なんて自信だ!」ベーネが笑う。

「ウィリアムを中心として斬り進め!」ジルクートが坊主頭に返り血を浴びながら叫んだ。

 ウィリアムはマーシャルを感じて口角をあげた。木陰でマーシャルの歌を聴きながら眠りに入ったあの時間。振り返った榛色の瞳に浮かべる悪戯っぽい笑み……。

 その思い出のぬくもりが残酷な刃となって跳ね返ってくる。それでも、想わずにはいられない。焦がれる苦しみは一層絆を強くした。求めれば求めるほど傷つく焔、苦悶の焔。それでも、ウィリアムはその苦しみの底にあたたかいものを感じた。マーシャルだ。ウィリアムは聖剣マーシャルに自らの血を注いだ。薔薇の蕾が染まる。それは儚く柔らかいマーシャルの好きな薔薇の色。

 ジルクートが「見ろ!」と剣で指し示した場所に、笛を構える男の姿があった。右目の眼窩が抉れて悍ましい顔をしている。残った左目はひどく充血して、ウィリアム達を睨み殺そうとでもいうような形相で陽気な音色を奏でている。

「まさか、生きてたのか?」ヤグサが乾いた声で引き笑いをした。

 笛男の横には二人の見覚えのある者がいた。

「あいつら……」ベーネの喉を詰まらせたような声。

「片をつけよう」ジルクートは忌々しげに坊主頭を触った。

 ウィリアムたち五人は皇国兵を切り抜けて紅涙(こうるい)のコンティーレの前に躍り出た。紅涙のコンティーレとウィリアムたちの決闘が始まった。

 紅涙の背後では皇国の軍旗が上がり、いかにも貴族といった出立ちの騎乗者達が戦況を見下ろしている。

 笛男が唇を湿らせて横笛を構えた。鞭女は自慢の鞭に怒り迸る白い稲妻を纏わせて「弟の仇!」と叫んだ。最後の一人は刀身の細い剣をもつ帽子を被った剣士。

 剣士が天鵞絨の外套を背中に回して、決闘の挨拶でもするかのように剣をひゅっと鳴らして顔の前で構えると詠唱を始めた。

「またあれか!」ベーネが叫ぶ。

「あの詠唱を止めて! 絶対に!」

 ウィオラの叫び声を合図に戦闘が始まった。ベーネが盾を前に構えて真っ直ぐに突っ込んだ。ジルクートが左側、ウィリアムが右側の一歩後ろで構え脇を固めると、ヤグサが横に大きく動きながら矢を放ち、ウィオラはビブラートがかかる低音の独唱を歌い始めた。

 笛男の龍笛による甲高くも深みのある切れのよい高音が響きわたる。鞭女が剣士の前に進み出て雷の鞭をしならせた。鞭は危険な音を立てながらコンティーレ三人の周りで空気を切って壁を作った。鞭女の腕の動きが変わったのをウィリアム達は見逃さなかった。ジルクートが剣で弾き、ウィリアムも凌いだ。しかし、ヤグサが悲鳴をあげた。

 ヤグサは大腿に凄まじい衝撃を感じ、右脚が吹き飛んだかと思った。地面に突っ伏してようやく脚が鞭で打たれたのだと気がついた。気を失いそうになったが、努めて思考を止めながら傷を確かめた。革の履物をやすやすと切り裂き、大腿がぱっくり割れて白いものが見えていた。すっと寒気が全身を支配し、そのまま意識を失った。

 鞭の空気を破裂させたような音がするものの、どこを攻撃しているのかさえわからず、ベーネは初めて盾が無力に感じた。乾いてひっつく喉に唾を押し込もうとして咳き込み、尻込みした。近づけない。目の前で爆竹を数百個束にして一回の爆発に収めたような強烈な破裂音に耳鳴りどころか音が聞こえなくなった。同時に左手首を軽く叩かれたような気がした。目を瞬かせて左手を見ると、そこにあるはずの物がない。それは、盾の革の握りを握ったまま、地面に転がっていた。ベーネは手首の切断面に骨と脂肪と真っ赤な筋肉があるのを見た。(こんなの見えちゃいけないだろ)。一瞬ののち、そこから勢いよく拍子を刻んで血柱が上がり、同じ拍子でベーネも叫び声を上げた。

 ジルクートとウィリアムには鞭の動きが見えるようになってきた。神秘の力で体が満たされているうちに鞭が蛇のように動き、さらに不自然に動く様子を見ていた。背後で仲間の苦痛と絶望の叫び声が上がったが振り返る余裕はなかった。

「あれは魔具だ! どうすればいい!」

「あの色。森の中ではわからなかったが、銀霊樹から織られた物で、魔法ではなく神秘並の力を発することのできる――」

「講義はいい! 対策を訊いてるんだ!」

「わかっている!」

 剣士が詠唱を終えたのか、焦る二人とは冷静に不気味な微笑を浮かべて、炎の剣をくるりと回して見せた。

 鞭女の手首の動きがわずかに変わった。

 破裂音――しかし、ウィリアムはこれを素早く弾いて目を見開いた。

「痺れる! あれを連続で捌き続けるのは無理だぞ!」

「貴様、神秘による何か策はないか?」

 ウィリアムが答えるより早く剣士が距離を詰めてきた。

「こいつは私が!」

 坊主のジルクートが剣士に真っ向から突っ込んで行った。

 ジルクートが男の閃く剣を躱し反撃し、男もそれを躱して同時に剣を閃かせる。瞬きをする間にその攻防を二回繰り返したのを視界の端で捉えたウィリアムは、剣士をジルクートに任せて鞭女に集中した。

 鞭女の隙が見えたと思って踏み出すと、待ってましたと言わんばかりに破裂音と衝撃の応酬がくる。そして、その一撃を受け止めたところで鞭の動きは弱まることもない。しかし、二度連続で防ぐと女は必ず一歩か二歩移動する。その位置関係は必ず六歩以上の距離を確保することを、ウィリアムは見切った。

 ウィリアムは腹を決めた。鞭を二回連続で弾き、両腕が痺れるのを我慢して尚も踏みこんだ。鞭女の顔に焦りはない。それが不気味だったが引くわけにはいかない。しかし、やはり踏みこんだぶんだけ横にずれたり下がろうとする。それを見過ごすことはせず、さらなる攻撃の応酬を覚悟して踏み込み続けた。

 鞭女の目元がぴくりと痙攣し、足捌きに焦りが見えた。鞭女が攻撃をやめて下がろうとするが、すでに剣の間合いに入っていた。ウィリアムが聖剣を左上から斜めに振り下ろし、鞭女が身を投げて避けようとする。その動きはあまりにも遅く、女の左肩から右の腰下まで剣が走るのが容易に想像できた。

 斬れるはずだった。それなのに、剣は鞭女を捉えられずに力なく宙を切った。背中に鋭く、重く走った痛みに、ウィリアムは呼吸ができずに地面に両膝を突いた。振り返れば、笛の男が立っていた。残った片目を血走らせて、笛の男が短剣を捻る。ウィリアムは悲鳴を上げることもできずに全身を痙攣させた。

(鞭女はわざと追い詰められているふりをしたのだろうか?)。ウィリアムはそんなことを考えながら、笛の男が引き抜いた短剣を頭上高くに構えるのを冷静に見ていた。

「ジルクート!」

 その時、ウィオラの叫び声がした。目だけでそちらを確認した。皇国兵の一人が、尻餅をついたウィオラに戦斧を振り下ろそうとしている。どうやっても間に合わない。どうすることもできない。

 絶望的な状況で、奇跡が起きた。皇国兵の胸に回転して飛んできた剣が見事に突き立ったのだ。ジルクートの剣だとすぐにわかった。戦斧を振り上げたまま、皇国兵は後ろに倒れた。

(戦場で剣を投げるなんて)。ウィリアムはジルクートを見やった。剣を失ったジルクートの背後には、いまだコンティーレの剣士がいた。剣が閃く。自らの命より、ジルクートはウィオラを守ろうとしたのだ。ウィリアムは咄嗟に動いていた。

 ウィリアムは笛の男が残った片目に狡猾な笑みを浮かべて短剣を振り下ろすのを構わず、聖剣マーシャルを剣士に投擲した。

 聖剣マーシャルは回転したまま飛んでいき、見事に剣士の首を撥ねた。

 それを見てウィリアムは安堵した。そして、振り下ろされる短剣の痛みを待った。今度こそは仲間を見捨てることなく守れた。なんとも言えない幸福感に満たされていた。あまりにもその余韻が長すぎて、ウィリアムは笛の男を見上げた。

 笛の男は無事な方だった目玉から矢尻を飛び出させて、卑しい笑みのまま硬直していた。短剣を強く握ったまま笛の男が倒れた向こう側には、力なく手を上げて汗だくのヤグサがいた。

 礼を言う暇はなかった。鞭女が荒ぶった様子で鞭を鳴らし、振り上げた。正真正銘、これで死ぬのだとウィリアムは腕で目を覆いながら感じた。しかし、またも何も起きない。肉が焼け焦げる臭いがして、目を開けると鞭女が仰向けに倒れていた。心臓部に穿たれた穴から煙を昇らせている。

「危なかったな。しかし、よくやったと褒めてやる」

「大丈夫かよ! もうあれは駄目かと思ったぜ!」

 ランパートとジャックがそこにいた。二人とも血だらけだが、元気な様子から見るに返り血なのだろう。

「助かった。だけど、ヤグサとベーネが負傷したようだ」

「あんたもだろ!」

 ジャックが手早くウィリアムの背中を見て、なにも言わずに傷を確かめた。

「あの二人は止血したから平気だ。ジルクートのほうには乙女がいるしな」

 ランパートは柄頭に大きなサファイアが嵌った剣でウィリアムの背中をなぞり、聖歌と同じ響きの言葉を唱えた。歌ではなく抑揚のない祈りのようだったが、途端に背中の痛みが消えた。驚いた様子でランパートを見上げると、ランパートは自慢げに剣を振った。

「私の剣はクリマーレ山脈の匠による業物。ただの魔具ではないとだけ言っておく」

 ランパートは励ますようにウィリアムの肩を叩き、集まってきた仲間たちを見回した。

「まだ動けるか?」

 ベーネは左手首を見て、ちくしょうと悪態をつきながらも剣を握った。ヤグサは脚の調子を確認するように体重をかけたりしながら弓の弦を張って頷いた。ジルクートがウィオラと額を合わせ、短い言葉でなにかをやりとりして微笑み合うと、二人してウィリアムに頷いた。

 ランパートが、皇国軍の軍旗がはためく丘の上を指差した。

「これからあそこにいる賢者を倒す。賢者は極大神秘を戦場に落とすために必死になっていて、我らと戦う余裕はないようだ。極大神秘を止めているのはエクエス=フォルツ。もちろん、エクエスも止めるので必死だ」

「そこで俺たちの出番ってわけだ!」

 つんつんした黒髪頭のジャックが盾を打ち鳴らした。


 丘を登ろうと走る一行を認めるや、敵の将軍は剣を振って迎え討てと叫んだ。ウィリアム達の戦いが再び始まった。

 しかし、ウィリアム達を止めるにはあまりに凡庸な兵士だった。

 一行は丘を登った。剣を抜いた旗手を斬り捨てると丘の上には装甲馬に跨った騎乗者が三人と、白い長衣姿で上空の光球に対して祈る男だけになった。騎馬兵の二人は彫りのある立派な鎧姿に真紅の外套を羽織っている。もう一人は鉄板を何枚も繋ぎ合わせた細身の美しい金色の鎧を纏い、金糸の刺繍のある真紅の外套姿。短く整えられた燃えるような赤髪、髭と口髭、褐色の肌に黄色の瞳を持つ高貴な顔立ちに、恐れではなく楽しむような薄い笑みを浮かべ、馬上から一行を傲慢に見下ろしている。

「これはこれは、カリエント公」ランパートが恭しく、それでいて顔を上げたままお辞儀した。「賢者と繋がっていたのは殿下でしたか」

 褐色の肌に焼けるような金色の目をしたカリエント公がランパートを見据えた。ふっと鼻で笑い、さっと馬の向きを変えると拍車をかけた。

「逃げるぞ!」

「行かせておけ! 今は賢者を止める!」

 叫ぶベーネをランパートが制止する。

 賢者はすでに祈ってはいなかった。中年の男のように見えるが、見れば見るほど年齢がわからなくなった。なにを考えているかわからず瞬きもしない目。鳶色の虹彩に紫色の波が混ざり合い、それが光を帯びているようでどこか不気味だった。その賢者の目が一行を順繰りに一瞥していく。

「世界はいまだ(つるぎ)にあらず。まだ足らぬ。炎が足らぬ」

 賢者は朗々とした低い声で言いながら長衣を脱いだ。その下には真っ白な雪花石膏のような表面をもった鎧があった。さっと腕を広げると、腕に金色の雷が現れて、それは雷の剣となった。

「我が名は〈雷鳴〉。真の平和へと導く賢者が一人。始めよう、繋ぐ者としての使命を」

 ゆっくりと賢者は剣を構えた。その緩慢な動きが終わるのを待つ者はいなかった。

 ランパートの魔法による青白い雷の網が地面を這って賢者を襲う。賢者がそれを横に跳びすさり着地したところにヤグサの弓の弦が鳴った。二度、三度、一呼吸の間に放った矢は、しかし賢者の雷剣から迸った雷に弾かれた。ジャックとベーネが二人で賢者に近づいて正面から攻撃した。ウィリアムは跳躍すると賢者を飛び越して後ろに着地し挟撃を狙った。賢者は瞬き一つせず、手首をくいっと動かして雷剣を竜巻に変えて三人を弾き飛ばした。

 ジルクートがウィオラの独唱と共に目にも止まらぬ獣じみた速さで剣を二、三度閃かせ雷の竜巻を斬り払った。そこにできた隙に、ランパートの青白い雷撃が迸る。

 青白い雷撃は賢者の肋を穿つと思ったが、白い鎧が何事もなかったかのように、衝撃すら感じていないかのように防いだ。

「まさか! あれはルヴァの鎧!」

 ランパートの声はわずかに震えていた。

「ルヴァってのは神の?」

 ベーネが裏返った声を上げながら賢者の長さも自由自在な雷剣を躱した。

「聖遺物、神器、いろいろと呼び名があるが……」

「そんなことどうだっていいだろ! どうすんだ!」

 頭上で雷が鳴った。見上げればいつの間にか雨雲が垂れ込めている。

「まさか、雨か……」

 ジルクートが言葉を詰まらせた。言い終わると同時に雨が地面を濡らし始めた。辺りはあっという間に驟雨に変わった。

 賢者の雷剣が音を立てて弾けて消えた。それを見た一行は、一気に賢者との距離を詰めて攻撃を仕掛けた。

 賢者がなにかを持ち上げるように手をあげる。ウィリアムは足を滑らせて地面に手を突いた。地面の雨水が賢者のほうへと流れていく。それだけではなかった。降り注ぐ雨までもが賢者のほうへ……。

 雨は水滴となり、水流となった。賢者の体を取り巻くように水が渦巻き壁を作り出していた。賢者が手を伸ばし、水の壁が手の形となってジルクートとウィオラを包み込んだ。水の手は玉となって二人を閉じ込めている。ランパートが悪態をつきながら水の腕を斬りつけたが、意味をなさない。

 ヤグサが新たな水の手に飲み込まれ、ジャックが叫びながら拾った槍で突撃した。水の鞭がジャックを打ち据えて、ジャックは蹴飛ばされた鼠のように丘の下に転がっていく。

 ウィリアムは観察し、想像した。水流は常に動き続けている。止まっているところがない。鞭女が鞭を自在に操っている姿が重なった。動きを止めたらどうなる?

 次の瞬間駆け出していた。漲る力を風のように纏わせて、鋭い竜巻のような一撃を水の腕に打ち込んだ。水の腕を維持している水流が乱れて水の腕は弾けると同時に形を失い、ジルクートとウィオラを包んでいた手はただの水となって地面に広がった。

 ウィリアムは確信した。あの鞭女が鞭を常に動かし続けるのと同じだ。水に形を持たせるなら、常に動かし続けなければならない。その流れを断てば、水は形を維持できない。

 ウィリアムは咳き込むジルクートとウィオラに自分の作戦を短く説明した。

「なるほど。賢者を護るあの壁にたどりつければ勝機はあるな」

 ウィリアムは仲間達を見回した。ヤグサは役に立たない弓をかなぐり捨てると湾曲した剣を抜いて果敢にも攻撃を仕掛けている。水の鞭を何度か弾くが、胸に一撃を喰らってジャックの方へと飛ばされた。ランパートだけが唯一攻防できているか、有利とは言い難かった。賢者はどう見ても本気ではない。

「あの慢心を突く」

「わたくしに考えがありますの。フォルツ様に教えていただいた、火の想像を織った独唱を捧げたときのことを覚えていまして?」

「もちろんだ。剣に炎が宿った」

「あのとき、驚いて剣に水をかけたとき――」

 ジルクートがウィオラの言葉を引き継いだ。「なるほど。蒸気で目眩しをして隙を生むということか。素晴らしい」

 三人は立ち上がった。

「ですけど問題が……」

「我ら二人が大火傷を負う」

「聖歌でなんとかならないのか」

「約束はできませんでしてよ」

「ウィオラだけに負担はかけられん。だが、私は信じている」

 ジルクートとウィオラは見つめあった。

「そういうことなら、俺がさっき水を切った時と同じ原理で神秘を自分に纏わせるのはどうだ? 賢者がやっているように、俺たちは風を纏えばいい。蒸気が肌に触れないようにすればいいんだろう」

「なるほど」

 三人は頷いた。ウィオラの歌声を背に二人が剣を閃かせて駆け出した。水の鞭を弾き水流を横に跳んで躱し、転びそうになりながら走った。賢者の手が大きく横にはらわれて橋のように太い水の手が二人を薙ぎ払う。

 ジルクートの剣が音を立てて炎の柱を上げた。途端に雨が蒸発して蒸気が湯気を漂わせ始め、巨大な炎の剣が水の拳を斬りつけた。火事場の炉に桶の水をぶちまけたように音を立てて辺りが真っ白になった。

 ウィリアムは三歩先にいた賢者に二歩踏み込んで、神秘を纏わせた聖剣を突き出した。滝に剣を突っ込んだような抵抗、それを上回る風の想像を籠める――聖剣が旋風となったように、そして雲を晴らすように弾けさせた。

 水の壁と霧が押し出され、賢者は金と紫が混ざり合った眼を見開いた。ゆっくりと自分の胸を見下ろし、深々と刺さった聖剣と、それを握るウィリアムを見た。そして、ゆっくりと笑みを作った。まるで痛みを感じていない様子で。

「真紅の波がやってくるぞ、人間よ。かりそめの世の篩が、お前たちを選別する真紅が……おとずれる。混沌の時代の幕開けだ」

 賢者は広角から血を滴らせ、一度咳き込むと、糸の切れた人形のように地面に頽れた。

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