四十八話
駆け寄ってきた四人の表情がみるみる曇ったのを見ても、ウィリアムはおろおろと泣いたまま声を出せないでいた。状況を飲み込んだ栗色の髪のウィオラが口を手で覆い、地面の血溜まりを気にせずに膝を突いた。頭を丸めているジルクートは緑色の目を揺るがしながら黙って近づいてきた。ベーネは悪態をついて腰に手を当てると、途方に暮れたようにウィリアムに同情の視線を送った。ヤグサはかける言葉が思い浮かばず、口元を手で覆い隠したまま、少し離れた場所で見守った。
「ま、まだ生きてるんだ。生きてる。マーシャルは生きてて。ウィオラさん、聖歌で……どうか、頼む」
ウィオラが返事の代わりに歌い始めた。その効果はすぐに現れた。マーシャルの出血が勢いを弱めたのだ。それを見た男達は目の色を変えて近づいて様子を見守った。しかし、マーシャルが苦しそうに咳をするたびに傷口が開き血が流れる。ウィオラの動揺が声に伝わり震えた。聖歌の効力は薄れ、子供が遊びで作った堰が崩れたように傷口から血が流れ始めた。
「しっかり歌えよ!」ベーネが苛立たしげに言った。
「やってる! やってるわ!」ウィオラが泣きながら再び歌い始める。
しかし、声が震えてもはや歌にはならなかった。マーシャルは青白い顔で力なく微笑み、ウィオラの手を握った。
五頭目の馬に乗っていた黒髪蒼眼の若者が馬の手綱を持ったまま近づいてきた。ウィリアムは、氷のような老練な光を帯びた青年の蒼い目を見上げた。まるで、懇願するように。
「それではもう助かるまい。あとは〈聖剣の儀〉くらいしか望みはない」
剃刀のような言葉に、ウィリアムを含めて全員が息を呑んだ。ウィオラがわずかな笑顔という希望を咲かせた。
「エクエス=フォルツ様なら――」
「できる、しかし、悪いな。俺にはやるべきことがある」そう言ってフォルツは上空を顎で示した。「二回目のあの神秘は、シュヴァリンでも止められまい。俺がやらねばならない。だから、あいつに頼め」
そう言って、フォルツは後方から近づいてくる馬を駆る男を一瞥すると、自分は馬を駆けて敵陣の方へと向かってしまった。入れ替わるようにやってきた男は、エクエス=シュヴァリンだった。
この短期間でげっそりと痩せて歳を喰ったようなシュヴァリンが、鞍から力なく地面に落ちた。ジルクートがすかさず腋に腕を入れて支えると、ジュヴァリンはすでに状況を知っているのか、誰の言葉を聞くよりも早くウィリアムを見た。
「まだ、息はあるか?」
シュヴァリンの掠れた言葉に、ウィリアムは小さくうなずいた。
「ならば間に合う。選べ、安らかに逝かせるか、苦悶の焔か……」
苦悶の焔――愛により親友を死に至らしめたスバニアとカンサルタが神に贖罪を求めたとき、神はこの言葉とともにそれを授けた。〝苦悶の焔の道の先、ふたたび愛の光さす〟
ウィリアムはその言葉を思い出した。考えるまでもない。
「マーシャル、聞こえるか? 俺だ」
「待って」ウィオラがそう言い、マーシャルの額に触れて哀しげな波のような抑揚の聖歌を歌いはじめた。
すると、マーシャルが大きく息を吸い込んで力強い呼吸をし始めて目を開いた。
「マーシャル……」
ウィリアムは優しく強く抱きしめた。
「聞いてくれ。俺は、君とずっと一緒にいたい。それだけでいい。君が近くにいてくれるだけでいいんだ」
「あなたを……縛る……のは、いや」
マーシャルは青ざめた小さな唇に、儚い笑みを見せる。
「何言ってる。苦しみでも鎖でもない。苦悶の焔になんかならない。君が教えてくれたんだ、マーシャル。俺は、君といれるだけで、満ち足りる」
マーシャルの目が潤み、揺れた。目が見えていないのだろう。焦点が合わない目を揺らしながらマーシャルは微笑んだ。その拍子に涙が頬を伝った。その一粒が、たった落ちたウィリアムの涙と重なった。ウィリアムは、ぐっと自分の感情を殺して首を振った。
「俺ばかりだな……。けっきょく、俺は君になにも返せないばかりか、頼んでる。この場に及んで自分の願いしか言っていない。俺ばかりで、ごめんな」ウィリアムは、マーシャルの頬をそっと撫でた。「だから、一度でいい、君の願いをきかせてくれ。君の想いを、俺は……尊重する」
ウィリアムはマーシャルの額に自分の額を重ね合わせた。
「わたしは……幸せ。生きられて、友達がいて、笑えて、生きられた。もう、満足」
ウィリアムは額を合わせたまま歯の間から苦しげに声を絞り出した。
「……わかった」
その横では、ウィオラが拳を握り怒りに震えていた。
「マーシャル! 自分を蔑ろにして、それが自己憐憫ではないと言えまして? あなたが言ったのよマーシャル! いまのあなたは何もしていないのに満足してるだけよ! ほんとうは生きたいくせに、生きたい未来があるくせに、生きるという選択肢が、できることがあるのに諦めてる!」そして、ウィリアムにびしっと指を突きつけた。「それにあんた! それが優しさとでもお思いでして? 女心のひとつもわかっていませんでしてよ! 男らしくない、まったく男らしくなくってよ! 最後まで全力で彼女を求めてみなさいよ、この意気地なし!」
その場の男達は咎められたように全員地面に視線を逸らした。最初に顔をあげたのは、ウィリアムだった。
「俺は、マーシャルに幸せになってもらいたいんだ! それが、それがこの選択なんだ! だから、俺は」ウィリアムはぐっとなにかを呑み込んだ。「俺は彼女が望むように……」
ウィオラがふんと鼻を鳴らした。
ウィリアムは呑み込んだ息を吐き出すように、情けなく震える息で嗚咽し、マーシャルの髪を握った。
「だけど、ほんとうは嫌だ。俺は嫌だ。ずっと一緒にいたい。俺が幸せにする。なんとしてでも、なんだってする。それが剣を振い続けなければならないなら俺は人を斬る。俺はマーシャル。君を愛してるんだ!」
その場が静まり返った。
――ありがとう。
マーシャルの念が伝わってきた。そして、マーシャルの体が小刻みに震えた。青い唇がわずかに震える。
「〝永遠に、剣に〟」
ウィリアムは、はっと息を呑んでマーシャルの顔を見下ろし、その誓いの言葉に応えた。
「〝永遠に、そばに〟」
マーシャル以外の全員が、固唾を飲んでシュヴァリンを振り向いた。シュヴァリンは憔悴しきった灰色の目でゆっくりと瞬きをした。そして腕を伸ばすと、どこからともなく聖剣アシュラムがシュヴァリンの手に飛び込んできた。その硝子と銀の装飾は、今にも砕けてしまいそうなほど、全体に罅が入っている。
「誓約はなされた。アシュラム、最期の歌を、私達の絆を、この若者たちに捧げよう」
シュヴァリンは短刀で自分の手首を切り裂き、聖剣アシュラムに惜しみなく自らの血を注いだ。聖剣は血を浴びて震えだし、ひとりでに宙に浮いた。十字柄に絡まる薔薇の蔦や葉の意匠のなかにある、たった一つの――柔らかな橙色の宝石の薔薇が、光を放ちながらみずみずしく、華麗に咲いた。
薔薇の光波は聖歌となって辺りを満たし、ウィリアムとマーシャルを包み込んだ。絹糸が、長閑なせせらぎに揺蕩うようなゆっくりとした旋律はもの悲しくも、どこか熱が滲むよう。
その場にいた全員が呼吸を忘れてアシュラムの聖歌に聴き入っていた。歌が終わり、つかのまの沈黙がやってきた。その沈黙のなかに、シュヴァリンの優しげな声が、静かに流れた。
「愛は、愛するがゆえに生まれる。肝要なのは、愛することそのもの。愛する……ことだ」
シュヴァリンはその言葉を言い切ると地面に伏した。傍らに落ちた聖剣の薔薇は色を失い、美しいダイヤモンドの粉となり、聖剣は血となってその形を失った。




