三話
翌日、ウィリアムは小麦畑が見下ろせる丘の上で、ジョンからの手紙を手にして膝を抱え込んでいた。
「なにを考えてるんだ俺は」
故郷のために、正義のためにと信念を標榜し、戦って凱旋する。子供のような考えだとわかっていても、居ても立っても居られないものが胸の中で膨らんで、足の先までをも満たしてもどかしくなる。
昨晩の父の言葉も、いまだに胸に熱く残っている。
――農業は、人が命を育むための生命の泉だ。しかし、その泉を湧かす者に泉を守る術はない。誰かが守らねばならない。スバニア騎士国は人の世を守る。それを成すのは、故郷だけは守りたい、これからも、この先も、子供たちがすくすくと育ち、その子供も笑って生きられる未来を守りたい、そういう一人一人の想いと行動が成すんだ。そして、この先に必要になるのは、剣だ。
(正直、興奮した)
もしも、王都に行くことになり、父と同じように剣を握る生活を選ぶなら、ダーリア家は農商の生業を他に譲ることになるだろう。先祖から祖父までが築き上げたものが失われることになる。
祖父が、雇い人と苦楽を積み重ねてきたのをずっと見てきた。なかなか作業を覚えようとしない俺に、忍耐強く向き合ってくれたおかげで、最近になってようやく農村で生きることがわかってきた。
(もう十六だぞ)
学舎には二種類ある。金銭を必要とせず誰にでも開かれたフレル院の学舎、もう一つはスバニア騎士国の援助と町の力で運営される国立の学舎だ。スバニア騎士国では、十六歳から学びを行う学舎に入学するが、フレル院と王立では学ぶ内容が変わる。
特に、王立では内容は都市や町ごとに違っていた。その地域や町の財産となる人を育てる〝学び〟を受けることになっていた。
学びとは、地域特有の性質と生業の関係を知識として得て、都市や町に貢献できる知恵に変えていく授業だ。農作だったら土壌や気候という土地の特色を学び知識を得る。そうした知識を実技によって強みと変えていく知恵を得る。そうやって町の財産となる人間を育てるのが、国立学舎の二年間の学びなのだった。
フレル院の学舎に年齢の制限はない。しかし、町に活かせる学びは行なっていない。基本的な計算、読み書きだけだった。
そして二つには将来性にも大きな差があった。国立は卒業後に仕事にありつける。
そして、ウィリアムはすでに自分の家業に属する農業に関する学びの課程を受けることになっていた。
もしも、身の振り方を変えるならば今しかない。しかし、王都に行けばこの農村を誰かに受け渡し、母や祖父は慣れない町に暮らしを移すことになるだろう。俺のもっとも嫌いな、父のような身勝手な振る舞いでそうなるのだ。
「ここにいるって母さんから聞いてな」
跳び上がるかと思うほど肩を竦めたウィリアムは、手紙を腰紐で留めたズボンの中に押し入れて振り向いた。
「びっくりしたな。なんだよ」
ジョンは目をぱちくりさせてウィリアムを見返す。ズボンの位置を正すウィリアムを見て、ジョンは一人納得して視線を刈り終えた小麦畑に向けた。
「すまんな、邪魔する気はなかった」
「いやべつに。ってなんの邪魔だよ。それより、なんだよ」
ジョンは今思い出したかのような仕草をして、頬を掻いた。
「俺な、明日発つ」
ウィリアムは胸まで迫った色々な言葉が静まるまで、黙って父の目を見つめた。そこには詫びるような色があったが、その奥にはなにを言っても曲がらない芯がある。表面はすまなそうな顔をして、すでに心は動かない。ウィリアムはすっと胸の中のものが静まるのを感じて、小麦畑に目を移した。
「ここを恋しく思ったことは?」
ジョンは険しく眉を寄せて腕を組むと、息子の視線の先を追って小麦畑を見た。
「ないな。俺は畑仕事が嫌いだった」ジョンはウィリアムの肩を叩く。「だけどな。お前たち家族は恋しかった」
父が丘を下っていくのを、ウィリアムはしばらく見つめていた。その背中が見えなくなると、ウィリアムは立ち上がって大きく体を伸ばした。
丘から家へは一本の細い道しかない。畑で働く人たちが歩いて出来上がった道は草が飛び出ていて、家に近づくと小川に沿って伸びていく。
小川に掛かった石橋に差し掛かり、笠石に腰掛けて川を見下ろす人影を見て、ウィリアムは歩調を緩めた。
父が一緒に帰ってきたという吟遊詩人が、木漏れ日を受ける石橋の笠石に座っていた。手には小さな竪琴を持ち、吟遊詩人はウィリアムを認めると、羽付き帽子のつばをちょこんと下げた。
「今日もいい天気で」
「そうですね」
ウィリアムが横を通り過ぎようとすると、吟遊詩人は弦を弾いた。まるで音でできた水の玉が転がるような音に、ウィリアムは思わず足を止めて振り返った。
吟遊詩人の顔にゆっくりと笑顔が広がる。
「これは、ハプートと言ってね。ただの竪琴と思われるな」
竪琴には奇妙な、風を描いたような、蔦のような模様が描かれていた。そして、まるで笛のようにいくつか穴が空いている。次々と奏でる旋律はせせらぎの音と相まって美しい。酒場の音楽が麻ならこれは絹だ。自然と調和してこそ響くようななだらかな音。
そして、吟遊詩人は物語を歌った。灼熱の砂漠で繰り広げられる霊獣との死闘、橋の崩れた渓谷での綱渡り、家族への想いを頼りに困難を乗り越える、一人の男の物語だった。しかし、その物語はまだ途中だった。
「最後はどうなったんですか?」
それが誰の物語なのか、ウィリアムにはわかっていた。だから、ハプートの音が止むのと〝これから先はまだ見ぬ話〟と締めくくられた物語の結末が気になった。
「私はネブリーナの吟遊詩人ルーベ。それを見届けるために君の父君と旅をしているのですよ。君も、一緒に来るのでは?」
いや、と言ったウィリアムは首の後ろを撫でながら、「やることがあるんで」とその場を後にした。
ウィリアムは部屋に上がろうとして階段に踏み出した足を止めて、ポケットに入れた手に力を籠めた。
(爺ちゃん)
祖父が今まで授けてくれたこと、教えてくれたことを否定することになるのだろうか。
ウィリアムは踵を返すと、祖父がいるであろう納屋に向かった。
納屋の扉をくぐると、藁を入れ替えている祖父がいた。ウィリアムに気がつくと、祖父は腰に手を当てて、作業を止めた。ウィリアムの目になにを見て取ったか、祖父は手拭いで顔の汗を拭うと外を指し示した。
二人は納屋の外にある切り株に座り、早くも泣き出した蝉の鳴き声に耳を傾けた。
「変な奴がいたな」
祖父が顎で指した方には小川に掛かった石橋があった。
「ネブリーナの吟遊詩人、ルーべだって」
そうか、と祖父は肩にかけていた母の刺繍が施された手拭いで首を拭った。
「わしも歳だな。暑さがこたえる」
ウィリアムは小さく頷いて、手持ち無沙汰に切り株に爪を立てた。
「そろそろ、ゆっくりしたいものだ。お前の母さんは元々町の娘だったから、座り仕事は待ち望んでいただろう。農場は誰かに任せ、金勘定はカベラに任せて、わしは町長に許可でも取って麦酒の醸造でもしながら隠居でもする。いや、麦酒の貯蔵庫として誰かに貸し出すのも悪くない」
「賃金は飲み放題?」
祖父は乾いた笑い声をあげて咳をした。ウィリアムが切り株から立ち上がり水の入った竹の水筒を取ろうとするのを止めると、座るように促した。浅黒く艶のある顔の細い淡々とした目でウィリアムを一度見ると、石橋の方へ視線を移した。
「決めるのはお前だ。若いうちから縛られるな」
祖父は膝に手を突いて立ち上がると、ウィリアムの水筒から水を飲むと、口を拭って納屋に戻っていった。
部屋の窓からふたつの月を眺めながら、平織で厚い麻布の背負い袋の口を弄っていた。
夜空をキャンパスにして、二つの人生を描いては消してを繰り返す。それは月が見えなくなるまで続き、気がついたときには窓からの陽の明かりが差し込んでいた。いつの間にか寝ていたようだ。
飛び起きると、口を開けたままの背嚢の中に火口箱や縄、丸めた綺麗な布を詰め始めるとすぐに手を止めて窓を見た。
陽が高い。
扉を開けて短い廊下を走り、飛び降りるようにして階段を降りて、玄関を出た。
玄関のすぐ横で、祖父が乾いた切り株に腰を掛けて、町の方へ延びる街道を見つめていた。一年に一度だけやってくる朝を、祖父はこうして過ごす。
祖父の視線の先を追うも、街道には蜃気楼が揺れているだけで、姿はなかった。納屋の方を見て、馬車がないのを認めて、ウィリアムは顔を掌で拭う。
戸口から母が出てきて、ウィリアムに花の刺繍が入った包みを差し出した。
「行くんでしょう? はい、お弁当」
え、とウィリアムは口籠った。祖父は丘の先をずっと見ている。
昨日の祖父の言葉を思い出し、ウィリアムは部屋に駆け戻ると背嚢の中に必要だと思ったものを詰め込んだ。本や真新しい冊子も詰め込んだために、背嚢の負い革が肩に食い込んだ。戸口に戻ると、祖父と母が話をやめて顔を向けて微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
当たり前のように言う母の言葉に、ウィリアムは頷く。祖父の目尻が柔らかいのを見て、ウィリアムは負い革を握ると大きく息を吸った。
「俺、行ってくる」
「今日中に船に乗ると言っていた。急げ」
「はい」
ウィリアムは走った。吹く風さえも生ぬるい火ノ季の終わりに、肩に食い込む革帯を強く握って。
汗だくで喉を鳴らしながら辿り着いたタロエ町の門を潜り、門番に馬車がいつ通過したかを尋ねた。
「寄り道していないとなると、その馬車はもう西門付近だろう。足で追いつくのは無理なんじゃないか」
門番のその言葉に、ウィリアムは膝を折って地面に手を突いた。呼吸が冷たくて喉が痛む。ウィリアムは空を見上げて苦痛に顔を歪ませた。
背嚢が急に軽くなり、驚いて振り返ると不敵な笑みを浮かべたスミーがいた。
「やっぱり行くんだな」
アルトとテーレもそこにいた。アルトが大儀そうに硬貨をテーレに渡した。
「あの晩、親父さんからお前を王都に誘うって聞いてたからな。出発日も知ってたし、王都に行くか行かないかってこいつと賭けてたのさ」
「テーレ、俺に賭けてたのか?」
テーレは無表情に肩を竦めた。
「走れるか?」
スミーが丸太のような腕で背嚢を軽々と持ち上げた。テーレが黙ってウィリアムに肩を貸す。
「俺が言った通りだったな。やっと本音を曝したか」
ウィリアムは苦笑しながら頷くと、テーレの腕を確かめるように叩くと一人で立った。
「ありがとな」
ポケットから出した果実を齧りながら、アルトが後ろ向きで走り出す。
「いそげ! 間に合わないぞ」
憎めない不敵な笑みを浮かべたスミーがウィリアムの背中を叩く。
ウィリアムは顎に滴る汗を拭って、同じ笑みで応えた。