二話
鶏よりも喧しい声が、ガラス窓の隙間から漏れ聞こえてくる。ウィリアムは額に腕を置きながら、醒めやらない眠気に揺蕩う思考を巡らせた。
昨日はテーレに核心を突かれたような気がした。
(憧れてる、か)
父親の顔をすぐには思い出せない。だが、屈託のない笑みに少年のような目をしているのだけは鮮明に覚えている。
寝台に横たわったまま、窓の外から聞こえてくる音に耳を傾けた。まだ日が昇るまで時間がある。もう一眠り……。
「そのときだった! 俺は剣を腕に沿わせて腹の下に潜り込むと、思い切り剣を突き上げたぁ! 霊獣は苦しみと怒りの咆哮を上げてその場に突っ伏し、黄金色の血を灼熱の砂の上にぶちまけた。俺は砂漠の砂の中に埋もれたのさ。重く、太陽は空でぎらついているのに真っ暗だ。死ねない、息子が大人になるまでは死ねない。だから俺は突き立てた剣の柄を再び握り思い切り突いて裂いた。部下は俺が死んだと思ったらしい。どうしようもない灼熱のなかで佇んでいると、霊獣の体を剣が突き抜け、その刀身に太陽の光が煌めいた。霊獣の体から生まれたように這い出てきた俺は黄金の血をまとっていた。雷獣の上で深呼吸すると、なんと仲間が膝を突いて俺を仰ぎ見ている。そいつらは太陽の光と霊獣の金色の血に輝く俺を見るやこう言ったんだ。ちっちゃき太陽ってな。まったく、もっとましな名前を考えて欲しかったものだ。おかげで吟遊詩人が作った俺の歌は〝ちっちゃき太陽〟って名前になった」
若者の笑い声が響き、ウィリアムは寝台から起き上がった。
砂漠での霊獣との死闘。それに、あの声。
ウィリアムが荷物を整えて宿の扉を開けるまで語りは続いていた。しかし、扉から現れたウィリアムを見るや否や、語部は言葉を切った。そして、満面の笑みに少年のように輝いた視線を向けて、地面から盛り上がるような笑い声をあげた。
「ウィリアム! 我が息子! 会いたかったぞ」
「よう、親父」
「親父……」
ウィリアムの父親ジョンは、口の中でその言葉を何度も転がし、まるで宝でも見つけたかのように目を輝かせると、隣の羽根付き帽子を被った男の肩を叩いた。
「親父と言ったぞ親父と。去年までは父さんって呼んでたのに、その前はお父さんだったっていうのに、今じゃいっちょまえに」
羽根付き帽子の男は、ジョンと似たような皺を目尻に湛え、帽子のつばを軽く下げてウィリアムに会釈した。
ウィリアムは、スミー、アルト、テーレに細めた目を向ける。
「なんでお前たちが親父といるんだよ」
スミーが薪を割ったような笑いをあげる。
「いやな、あのあと店主に追い出されて町をうろついていたら、ばったり会ったんだ。ご馳走してくれるって言うからついて行って、気づいたら朝だったってわけだ」
「いやー、とても美味しかったです。親父さんありがとうございました」
スミーとアルトの言葉に、テーレも神妙に頷く。
「いやいや、また一歩、大人の階段を登ったな」
ジョンが三人に感慨深そうに頷くのを怪訝な表情で見ていたウィリアムは、首を振ると通りを歩き始める。その背中を引っ張るようなジョンの声が響く。
「おいウィリアム、どこに行くんだ」
「家だ。帰るんだ。決まってんだろ」
ジョンが四人に暇乞いをするのを背中で聞きながらも、ウィリアムは歩みを緩めなかった。
農村までの街道を歩きながら、ジョンは学舎に通う間は街の中に住めばいいだろうと言ったが、男手が足りなくてそんな余裕はなくてねとウィリアムが返すと会話は途切れた。
少し意地悪だったかと手紙の話を持ち出した。父の遠征していたゲピュラ地方から王都に帰るまでの途中にタロエはあるのだから、もっと早く帰ってこれたのではないかとウィリアムが問うと、ジョンは答えを渋り、それきり会話は途切れた。
話の糸口が見つからず、ウィリアムは面倒になって唐突に訊いた。
「戦争が始まるって本当なのか?」
ジョンはウィリアムを横目で見ると、いつもの飄々とした面影すら消えた静かな眼差しで、歩く道の先を見た。
「そうか。辺境といっても、ここはゲピュラ寄りだから、そんな噂が立つのも当然か。しかし、それを知ったところでどうする」
ウィリアムは父の言葉に明け透けに眉を顰めた。むやみに混乱を招くようなことを言う必要はないということなのかもしれない。しかし、言葉が突いてでた。
「剣を握らない農民は関係ないって意味?」
ジョンの静かな眼差しは変わらず、口も沈黙を貫くようだ。ウィリアムは鼻で一蹴すると歩を速めた。
家に着くなり、二人の空気を感じ取ったのか、カベラはジョンを抱擁したあとにウィリアムの頭を小突いた。
一年ぶりの家族団欒の食卓は朝の暖炉のようだった。祖父と父は目を合わせず、食卓は母と父のやりとりだけが続いた。
ジョンは食卓に両手を広げて小さく拍子を取るような仕草で家の中を見回し、時折ウィリアムに視線を向けた。ウィリアムは母の刺繍が入った卓布を埃もないのに払ったり、毎日嫌でも目に入る花の刺繍がまるでプルッケルの芸術品を鑑賞するかのように指で撫でて堪能した。祖父は腕を組んで石になる神秘でも使ったかのように、陽に焼けた顔を微動だにせずに食卓の一点を見つめていた。
「はーい、できたわよ。香草と鰊のパイ包み。ウィリアム、このナイフで切り分けて」
ウィリアムは頷くと、肉用のナイフを持って小刻みに動かしながら、パイ生地の形を崩さないように切り分けていく。
ジョンが嬉しそうに微笑んで、椅子を引いて食卓に肘を乗せて鼻を動かした。
「なかなか上手いなウィリアム。プルッケルのな、ピンツァ・ファデリオの高級料理店でもそうやって切り分けるんだ。剣捌きよりも華麗に、軽やかな口調で料理の説明をしながらな。その拍子も絶妙で、あれは言葉と手捌きによる芸術だ。お前ならあそこでも働けそうだ」
嬉しそうにいうジョンの言葉に、ウィリアムは笑い、思わずといった様子でそれを呑み込んだ。
「俺は農商だ。ナイフなんか持って人に食べ物を切り分ける仕事なんてしない。俺はその食べ物を育てるんだ」
ジョンは戯けるように顔を歪めて両手を広げた。
「おいおい、ただ切り分けるだけじゃないんだ。稲だってただ刈り取るだけじゃないだろう」
ウィリアムは手を止めてジョンを見る。
「稲刈りのなにを知ってんの?」
「無駄口きく暇があるなら、早く手を動かしてウィリアム。豚肉のとろーり煮込みもあるんだから」
カベラの棘のない歌でも口ずさみそうな言葉に従って、ウィリアムは切り分けたパイと魚をジョンの皿に装った。ほどなくして、ウィリアムの母カベラも席につき、皆で鰊のパイ包みを平らげた。
ウィリアムは、まるで今までずっといたかのように話す父と母を見て、なぜ俺は素直に会話に入っていけないのだろうかと悶々としながら最後のパイを平らげた。
豚の煮込みを食べ終わる頃になって、ようやくウィリアムは普通に会話を楽しんだが、祖父は布で口の端を拭うと席を立った。
「お義父さん、まだ美味しいところがありますよ」
ん、といって祖父は部屋に上がっていってしまった。
階段の向こうに消えていく祖父の背中を見届けたジョンは、パンに豚肉の煮込みの汁を吸わせながらカベラを横目で見た。
「親父は元気なのか?」
カベラは居住まいを正して一拍黙った。「ご自分でお訊きしては?」と小首を傾げた。
ウィリアムは軽く笑うと、ジョンと同じようにパンに汁を吸い込ませて頬張った。
「爺ちゃんは相変わらずだよ。まぁ、最近はちょっと咳き込んだりするけど」
「そうか、去年より細くなったように見えたもんでな」
「心配なら、もっと帰って来ればいいんだ」
ジョンは痛いところを突かれたように乾いた笑いを転がした。
「そうも言っていられない。俺の仕事だ」ジョンはフォークとナイフを皿に載せるとウィリアムを見た。「ウィリアム、帰りの話な、本当だ」
二人はカベラが水差しから二人の杯に水を注ぐのを黙って見つめた。注ぎ終わると、ジョンは会釈でカベラに礼を告げてウィリアムを見た。
「ゲピュラ皇国は軍備を整え始めている。それもかなり進んでいるようでな。戦地からの帰りにゲピュラ皇国領を通ったんだが、主要な港への入港がすべて断られてな。それなのに、東からくる商船だけは迎え入れる。入港が拒否されたのは、西側へ帰る船ばかりだった。おそらく、東からくる商船には武器やら物資やらが積んであるんだろう。それらが各都市から戦地に送られることになれば、いよいよといったところだ」
「じゃあ、特に不作でもないのに流通する小麦の値段が上がったのって……」
「こちら側の上の連中は、二年前から動き始めてたってわけだな。主要な都市は王都で開かれる議会〝銀ノ剣〟の指示の下、資金を集めていたんだろう。吟遊詩人の話と王都の内情を調べて確信になった」
ウィリアムは胸の中を刺す小さな罪悪感を感じた。
「それを調べるために、わざわざ王都に帰ったの?」
「あぁ。俺ももう上官の命令を聞くだけではなくてな。従士に召し上げられた」
洗い物を終えて、刺繍を始めながら二人の会話を聞いていたカベラが、「まぁ」と顔を上げた。
ジョンは照れを隠すように会釈する。
黙っているウィリアムに気づいたカベラは刺繍を続けながら、先生のような口調で言った。
「騎士様に召し上げられた、優秀な人のことを言うのよ。あなたのお父さんは、騎士に次ぐ名誉ある位にあるってこと」
それくらい知ってる、とウィリアムは頷いたが、次いで出たジョンの言葉に目を丸くした。
「それに、今は連隊長だ」
カベラは呆気にとられたように刺繍を足の上に置くと「すごいことなのね?」
これにはウィリアムが驚いた。連隊長というのは騎士団の二つ下の部隊のことだ。騎士団長、師団長と続く連隊長は、少なくとも一千人の戦士を従える。目の前にいる子供の目をしたこの男が、従士であり連隊長。
「すごい……」
ウィリアムの洩れでたような声に、ジョンは満面の笑みを浮かべて頬を掻く。
「それでだ、ウィリアム。王都にこないか」
「は?」
思わず目を合わせた母も、同じ気持ちなのだろう、喋る蛙でも見たような顔だった。