十九話
聖剣歌の乙女は午前中を聖歌の練習に費やす。聖歌の練習といっても、歌う時間よりも机の楽譜と睨めっこをしている時間のほうが長かった。
聖歌の効力を発揮させるには、旋律に籠められた想いを紐解き、旋律を記した神の精神に近づけなければならない。ただ拍子をとって適切な音を奏でればいいわけではなかった。そういったことを紐解くために楽譜と睨めっこをするのだが、神の旋律は、ネブリーナ吟遊院で教えるような五線譜では記されず、風や水の流れを彷彿させる曲線の組み合わせによって描かれ、形には一定の法則があるものの、筆跡によって意味が変わるものもあり、それはそれは骨が折れる作業だった。
だから、午前の息の詰まるような時間から解放され、外の空気を吸うために中庭で気分転換をする乙女の表情は明るい。
「マーシャル、日課奉仕のあとに予定はあって?」
マーシャルは、小さく首を振った。
「これといったものはないけど、合唱の声部ごとの旋律の読み解きをしようかなって思ってるの。ほら、祈祷旋律の声部ごとに自然の属性に対する想いが違うでしょう? たぶん、記した神によって自然への想いも違うはずだからさ。戦いの神が火を単純な力と見なすのに対して、農作に関係する神は——」
「土壌の浄化、南の紅土が広がる痩せた土地では調律の意味があったかしら。祈祷旋律が南のものか北のものかでもかなり旋律に籠められた意味が変わってきそうですわね。最近の日課奉仕は重唱による神秘の施しが多いから、その手の解釈は理にかなってましてよ」
奉仕の精神を培うために行われる日課奉仕は、ここ最近では祭事が多かった。風ノ季になって増えた交易船の安全祈願、船そのものにかけられる加護、農地を清め五穀豊穰を願う祈祷旋律。
「なにかあったの?」
ウィオラは恋の憂いに満ちた乙女のように花壇の笠石に凭れて頬杖をついた。
「デートがありましてよ」
「え!」
ウィオラは花の蕾を指で弄いながら頷いた。
日課奉仕を済ませた二人は湯浴みを済ませて髪を梳かし、もっとも綺麗な修道着を着るとカンサルタの大門に向かった。黒くて巨大な大門が金槌で軽く叩くような音を立てながら秘術仕掛けの鍵を外してゆく。大門が開き、マーシャルとウィオラは浮き足立つ気持ちをなんとか抑えながら、門を抜けて街へ向かった。
向かっているのは喫茶店だった。
「そのベーネって人、おかしな人だね」
さりげなく早足で歩くウィオラが肩越しに振り返った。
「ほんとに。お友達を驚かせるために、彼らには内緒でデートを組むなんて」
「それに、もう一人連れてくるように言ったのはなんでだろう? ベーネって人はこないんでしょう?」
「そうでしてよ。なんでも、本人は家族と過ごすんだって聖人ぶっていましたの」
マーシャルがくすりと笑った。
「でも、なんかウィオラ楽しそう」
ウィオラが紅潮した顔で顎をくいっと上げた。
喫茶店の前には、落ち着いた紺色の正装をしている二人の青年がいた。深い茶色の長靴はよく手入れがされていて艶が出ていた。裏地の青い幅広の襟を持つ黒い天鵞絨の上着、肩には騎士がつける外套を掛けている。剣を帯びているというのに、物騒な雰囲気は一つも感じられなかった。聖剣歌の乙女のなかでこの月剣院の制服を知らない者はいない。マーシャルは深呼吸した。
金髪で、深い緑色の眼をした青年が最初にこちらに気づき、まっすぐの背筋を更に正した。手に菫の花を持っている。しかも、花鉢ごと。
マーシャルとウィオラは、困惑の表情を努めて抑えながら、二人の青年に微笑んだ。
青年二人が胸に手を置いて、片方は腰の後ろに回し、腰を折った。
「ごきげんよう」
マーシャルとウィオラは、服の裾を軽く上げ、片方の足を半歩引いて応えた。
「ごきげんよう」
金髪の青年が咳払いを一つした。
「ウィオラさん。こんな形でのお茶となってしまい申し訳ございません」
「不思議なお友達をお持ちのようで」
ウィオラの茶化すような言葉に笑ったのはもう一人の茶色の髪の青年だった。
その青年の目を見て、マーシャルは一瞬心臓が止まったかと思った。なぜ最初に気がつかなかったのか、たくましくなった体のせいか、前よりも背が伸びているからか、気づけば思わず名前を呼んでいた。
「ウィリアム?」
青年は、目をパチクリさせて首を引いた。
「そうだけど」束の間黙った青年は、なにかに気づいたように目を見開いた。「まさか、マーシャル?」
マーシャルはこくりと頷く。
「な、なんでここに? えっと、その、三年ぶり……」
喫茶店に入り、お茶とケーキがやってくるころには四人は砕けたように話し込んでいた。ジルクートが花鉢ごとウィオラに花を差し出し、女性陣の若干戸惑った表情を見たジルクートが「花屋に勧められたのだ。花鉢があれば、枯れてしまっても種を植えて咲かすことができる。その度に思い出してくれればと……」と口籠もり、そんなジルクートを茶化すウィリアムを、紅潮したひどく真面目な顔でウィオラが嗜め、ウィリアムとマーシャルは目をぱちくりさせて含んだ笑みを浮かべた。四人が揃って紅茶を味わい、カップをコースターに置くとウィリアムが言った。
「マーシャル、聖剣歌に入ったなんてすごいよ。夢を叶えたんだね」
マーシャルは、嬉しいのか悲しいのか、その二つ以上のものを交えたような笑みを浮かべた。
「うん。ウィリアムにね、感謝してるの」
ウィリアムはカップの縁を指でなぞりながら、マーシャルの言葉の続きを待った。
「自分の人生に不満をもって顔を上げないことは、ただの自己憐憫。それを忘れちゃってたときに、〝自分はまだ、なにもしてないんだ〟っていうウィリアムの言葉のおかげで思い出したの。どんな状況であっても、わたし自身が選んだ結果に変わりない。それを、環境のせいにしてた。不満を重ねるだけで、なにもしなかった。でも、わたしはまだ生きていて、生きてるならできることはあるじゃないって。そしたらね、少しだけ、今のすべてが、ありがたいって思えるようになったの。それで、進めた。進む力をくれたのは、ウィリアムなんだ」
マーシャルは、ケーキが王冠のように載せていた砂糖漬けの桃を頬張った。その姿を見ながら、ウィリアムは微笑んで頷いた。
「俺も憧れの王都にやってきて、思っていた暮らしとは違うことで不満を溜め込んでたんだ。だけど、頑張ってるマーシャルの姿を見て、俺にもなにかできるかもしれないって思わせてくれた。そのおかげで、俺は親父の意志を継げた。まだこれからだけどね」
マーシャルがカップの中に過去を見るように微笑んだ。そのカップを包むマーシャルの手に、ウィリアムは指先で触れた。
「だから、ありがとう」
マーシャルは驚いたように瞬きをして、すっと手を引いた。
「わたしは、なにもしてない」
ウィリアムは出てこない言葉の沈黙を埋めるように首の後ろを摩ると、思い出したようにケーキを口に運んだ。
「知らぬ間に互いを支え合っていたということか」
「素敵なお話でしてよ」
マーシャルは瞬きしながら紅茶を見つめ、ウィリアムはもう一度紅茶を啜った。そんな二人を見て、ジルクートとウィオラは暖かに笑った。
それから四人は、それぞれの生い立ちや、月剣院と聖剣歌の大変なところなどの他愛ない話をした。窓を見ると、すでに向かいの店に灯りが入っていた。窓に写った自分たちの姿を見て、四人はしみじみと微笑んだ。つかのまのその沈黙の後、ジルクートが口を開いた。
「我々は遠征に行く」
「いつ?」マーシャルが呟く。
「明日の朝」ウィリアムが作った微笑を刷く。
「いきなりすぎましてよ」
マーシャルとウィオラは、それまでの時間が夢だったかのように、血の気が引いたかのような表情をした。
ウィリアムは、目があったマーシャルに頷いた。
「プルッケル自由都市の方、フルケル防衛線に参加するんだ」
マーシャルは卓に目を落とした。忘れていた店内の音が急に戻ってきて四人を包んでいた空気が割れたような気がした。マーシャルはカップを持ち上げて口に付けて思い出した。さっき飲み干したばかりだったわ。
「できたら、見送りに来て欲しいんだ」
「うん、もちろん。絶対にいく」
喫茶店を出ると、夜の街はなにかを期待させる柔らかい暖かな風が流れていた。しかし、その期待は、すぐに虚しい軽さにかわる。マーシャルは、胸の中に縮こまっていくような苦しい感覚を忘れるように、何度もゆっくりと息をした。
ジルクートとウィオラが互いの手を取り合い、物悲しそうな顔で何かを話していた。
マーシャルはウィリアムを見上げた。その視線に気づいているはずなのに、ウィリアムは濃紺に塗りたくられたなんでもない街の中に視線を転がしている。
「また明日、ウィリアム」
ウィリアムは、はっとしたように顔を向けてきた。喉を動かし、唾を飲み込み、手を握ってきた。
「また、明日」
ウィリアムの手は暖かったが、それ以上に硬いことが印象に残った。その意味を知って、胸の中がいよいよ痛くなってきた。
横ではジルクートとウィオラが、絡んだ絹布が離れるようにゆっくりと身を離していた。
マーシャルは痛みに耐えきれず、ぎゅっと目を閉じた。額に温かいものがあたり、続いて体が優しく包まれた。ウィリアムの胸に額を当てたまま息を止めて、胸を迫り上がってくるものを抑えた。そして、震えた息を密かに零し、マーシャルはウィリアムから離れて、微笑んだ。
スバニア騎士国――王都スバニア。その南の港に、瑠璃色の剣と女神の国章を帆に掲げる帆船が、ずらりと並ぶ。
多くの市民が花を振り、港は立錐の余地もないほどに人で溢れていた。
涙を見せて息子を抱きしめる母親、それを包むような抱擁で応える息子。その二人を腕のなかに納めようと腕を回す、笑顔になれない父親。
若者の多くは、人目を気にせず想いを通わせた娘と腰を合わせて、なにかを囁きあい、唇を重ねる。
そんな姿が港には溢れていた。
ウィリアムは、乗船が始まった喧騒のなかを背伸びしながら落ち着きなく見回していた。時間も、乗船する帆船の目印も伝えた。聖剣歌の乙女の姿もちらほらと見えた。
聖剣歌の修道着を見るたびに、緊張と期待の混沌が胸の中を引っ掻き回し、手に持った一輪の薔薇の茎を弄わせた。
三回目の最後の乗船を合図する鐘が鳴った。渡し板のほうへ続く人の流れに抵抗しながら、胸のところで薔薇を傷つけないようにしていた。
――わたしはもう少し薄いほうが好き。
ウィリアムはマーシャルがかつてそう言っていたのを覚えていた。しかし、桃色の薔薇から顔を上げると、ウィリアムは皮肉げな笑みを浮かべてから流れに身を任せた。渡し板に着く寸前、声が聞こえた。聞き間違いかもしれない、そう思いながらも声を上げていた。
「マーシャル!」
「ウィリアム! ここ!」
ウィリアムは流れの中で飛び跳ねて見送りの人でできた壁の中を探した。
——いた。
ウィリアムは全力で仲間たちを掻き分けて進んで行く。押し流されそうになりながらも桃色の薔薇がくしゃくしゃにならないように頭上に掲げた。
マーシャルはその薔薇を見て驚いた。自分の好きな花だった。マーシャルは人を掻き分けて流れにそって進んだ。ウィリアムの掲げる薔薇を目印にして。そして戦士の大河のような流れに飛び込んだ。背が高い男達の間に入ると、もうなにも見えなかった。ぐっと腕を掴まれてマーシャルは身を強張らせた。
「よかった、掴まえた。無茶するなよな」
「だって、わたし――」
その先の言葉はウィリアムの唇に遮られた。そして、指が優しく髪を梳くのを感じ、一瞬、世界がなくなった。息をするその一瞬までをも受け止めたい……しかし、無情なまでに温もりが剥がれていく。
「マーシャル、ありがとう」
「帰ってきて、絶対」
その声が届いたかはわからない。最後の一瞬まで絡み合っていた指が弾けるように離れて、すでにウィリアムは戦士の大河に呑まれて見えなくなった。
マーシャルは髪に触れた。そこには、淡く儚げな薔薇があった。