プロローグ
指先で薙ぐように、己の一部にも感じる剣先が、水のように滑らかにエトゥミアの喉を切り裂いた。エトゥミアの驚愕に見開かれた目に見えたのは後悔の欠片――重すぎるその欠片を見てとったスバニアも、背中にぽっかりと冷たい穴が広がっていく感覚に襲われて、振り抜いた剣を手放して後ずさった。
そして、エテュミアの首元を押さえる手の指の間から漏れ出る赤い命を見て、その瞬間、スバニアは初めてなにを失ったのかを悟った。
茜雲に染まる戦場から音さえも消すその刹那を、エテュミアの苦痛に歪み、しかし、すぐに自嘲の笑みに塗り替えられた表情が突き破り、スバニアは途方もない重さの感情の波に襲われて呼吸を忘れた。
頽れるエテュミアに駆け寄り、スバニアは友を掻き抱くように支えた。エテュミアが目に宿す欠片と同じものに押し潰されんと歯を食いしばって、何かを言おうとする友の顔を見下ろした。
エテュミアは泣いているのを泣いていないと我慢する子供のような、くしゃくしゃの友スバニアの顔を見上げた。スバニアには言いたいことが沢山あった。そのどれもが、言うには遅すぎる言葉たち。しかし、友の涙を堪える目に同じ気持ちがあるのを見てとって、報われた気がした。互いに後悔を抱いているならば、憎みあっていてもずっと深いとろではわかり合っていたことでもあるから。だから、最後にしっかりと伝えたかった。それなのに、視界はぼやけ、耳鳴りが延々と続き、寒さに力が抜けていく。
エテュミアが何かを言おうとして口から出たのは、血の泡だった。
スバニアは、友の首から流れでる血の勢いが失われていくのを、咽び泣いて感じていた。
スバニアの横に一人の女が走り寄り、どっと膝を突いた。この女もまた、エテュミアとスバニアの友だった。
「どうして……こうなるのよ」
声の主カンサルタをスバニアは力なく見上げた。西陽を背にするカンサルタの表情は見て取れなかったが、その声は今まで交えたどの剣よりも鋭く深くスバニアを抉り、切り裂いた。
孤児であったスバニア、エテュミア、カンサルタは戦乱の世で出逢い、成長し、生きてきた。闘うのは絆のため、大義は互いの愛を貫くため、生きるのは愛を貫くためだった。
スバニアは息を震わせた――我らの繋がりが見えなくなったのは、いつからだったのだろうか。友情と家族という絆で満ちていたはずなのに。これ以上は望まない、そう思っていたのに、なぜ、求めてしまったのか。
カンサルタは泣くことを忘れたかのように、エテュミアとスバニアを茫洋とした目で見つめた――もっとも大切にしたかったのは、二人の美しい友情だった。自分もその輪の一つであったことが嬉しくて、それを守るためになら、命だって惜しくないと思って生きてきた。それなのに、二人はどんどん遠くへと去っていく。失いたくないと思う弱さから、二人の気持ちを知りつつも逃げ続けた。だから、すべてを失った。
スバニアとカンサルタは西陽が地平線に沈むまで、自らを恨み涙を枯らすと、どんな人間でも抱く感情を、一筋の願いを、図らずとも心のなかで同時に叫んだ。
〝願わくば、もう一度〟
そのとき、戦場の帷を剥ぐかの如く一陣の風が吹き荒び、二人を光が照らした。その光の中から出でるは幾多の光神。人の形をして人ならず。白銀の髪に虹を刷き、肌は新雪のよう。光の衣を纏い、瞳は光り輝く宝石に勝る美。不可思議にたゆたう神と衣がなければ雪花石膏の塑像とも思わせただろう。
薔薇の炎を宿す瞳の神が、無表情に見下ろし、口を開けずものを言う。
〝アスロス、いまだ天を知らぬ〟
紫水晶の瞳の神が、薄く笑みを刷いて続いた。
〝愛がアスロスを育む。なれど、際限なきは破滅のみ〟
そう言って光神たちはつむじ風となって姿を消した。だが、一つの光神だけが残った。輝く淡緑の瞳を持つ神——ハウデンファール。
ハウデンファールは、三人を繋ぐ歪んだ愛を見て、千年ものあいだ波風一つ立てなかった心に、雨雫の波が立つのを感じた。そして、それにアスロスの可能性を感じ、言葉ならぬ自然のあらゆる音で旋律を奏でて神秘を織りなした。
〝これより与えるは贖罪
愛にて世界を平らげよ
触、見、感も叶わぬ苦悶の道のさき
愛の光さす〟
ハウデンファールは両手を広げ、言葉なき音で歌う。それは、大地のうねり、草原をかける風、岩を削る雪、せせらぎの水の旋律。
スバニアとカンサルタは、骨の芯からそれらを彷彿させる澄んだ音色に心を預けた。
〝しかれば誓え。心に浮かびし言の葉を〟
カンサルタがまずささやいた。
――永遠に剣に。
スバニアは片膝を突いて恭しく首を垂れる。
――永遠にそばに。
こうして、愛と探求の神ハウデンファールとの宣誓は果たされた。
カンサルタが幾万の光の糸となり、スバニアが捧げる血と空中で混ざり合う。光の糸と血の糸が煌びやかに踊り、輝きながら一本の剣を織り上げた。
艶めく薔薇を纏った剣をその手にして、スバニアは友と奪いあった愛しきカンサルタが剣になったことを知り、驚愕し、神を見上げるも、その姿は雲に陰る陽のようになくなっていた。
「なぜ……」
もう一度あの時間が戻ってくるのではなかったのか、友が戻ってくるのではなかったのか。スバニアは剣になってしまったカンサルタを、怒りに震える両手で握りながらきっと顔を上げた。
「これが、贖罪だというのか。愛する者を剣として、世の争いを平らげよと。神よ、そう仰るか!」
答える者はなにもない。残ったものは、暗く、底無しの冷たい虚無と、神が遺した贖罪の言葉のみだった。
読んでくださりありがとうございます。
冒険が始まりそうな予兆を少しでも感じていただけたら幸いです。
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BoS〜薔薇の棘〜をよろしくお願いします。