五円玉の穴
悠々と浮かぶ雲の下を、雲の大きさにも匹敵する鷹が、これまた悠々と翼を広げて旋回している。何度も何度も同じ場所をぐるぐるぐるぐる回ったかと思えば、今度は翼を羽ばたかせて少しずれた場所をまた旋回し始める。
表情は見えない。輪郭がはっきりせず、ぼやけている。それもそうだろう。私は地面から彼女を見上げているのだから。彼女が地上に降り立つことがない限りは、顔の輪郭をはっきりさせる術はない。
そんな大空を悠々自適に飛び続ける彼らを見ていると、地に立って歩く自分のいるこの場所が、地獄なのではないかと思ってしまう。
大空を優雅に羽ばたく鳥たちにとって、地面とは地獄のようなものだ。そこへ落ちてしまうことは死を意味する。彼らにとっての地面は空中であり、私らにとっての地面は彼らから見れば地獄である。
空中。そこは、地球よりも広いんじゃないか。地面なんかよりも圧倒的に広い空間。人間たちや、私たちは空は飛べないので決まって地面を歩く。空を飛ぶ鳥やゆらゆらと浮かぶ雲なんかよりも、圧倒的に個体数が多くて密度が高くなってしまうのは仕方のないことだが、そんな空に憧れを抱く。
鳥なんて、人間のようにごみごみと群がったりしないだろう。偶に空を見上げると見えるのは一匹の鷹。鷹ではなくても、鳥一匹。鳥は一人で地面よりも広い空中を占領できるのかと思うと、とても羨ましく思える。
電柱の下には、烏が落としたであろう白い模様がアスファルトに点々としていた。その横に、自分の糞と同じ地位に落ちてしまったくたばった亡骸。横たわる烏の亡骸は、到底今まで見てきた空を優雅に泳ぐ鳥のようには見えなかった。羽は開かれたままピクリとも動かない。くちばしは半開き。そこから液体が垂れた痕跡。黒い皮膚がただれていて、沢山の蟻たちが集っている。
それでも私は、生前空を飛べたであろうこの烏のことを見陰ったりはしない。食物連鎖の中で優位に立つものが、地に落ちたことでメシウマだとは思わない。たとえそれが極悪非道に底辺の生物を弄びながら、なぶって捕食していたとしてもだ。
なぜか。それは、我々に『死を悲しむ』という概念がないからだ。
毛繕いは日常。夏は谷川に入って鮒を捕まえるのも日常。日に熱されたアスファルトの片隅で横たわるのも日常。どこかの誰かさんちの庭に入ったり、塀の上を綱渡りするかのように歩くのも日常。狩るも食うも寝るも歩くも、基本自由だ。
そんな私の横を、人間たちは何事もなかったかのように通り過ぎるのが一般。でも、まれに立ち止まる人間がいたりもする。
目の前に足を揃えて畳み、しゃがんだ女性は、私にこっちにこいとでもいうようにちょいちょいと右手で仕草した。私が首をかしげていると、女性は近寄ってきて私の首の下に触れてきた。女性は背中を丸めて、できるだけ身体を小さく見せていた。人間が立っている時とは大違いだ。小さく丸まった体は、私に親近感を与えた。私が目を細めて彼女に自分の身体を委ねると、ゆっくりと抱き上げてわしゃわしゃと身体を撫で始めた。
「いい子だなーおまえー」
でも、数分すると、抱き上げられていた私は地面へと戻され、「またね」と女性は言い残して去っていった。
次の日も、私は日中ずっとそこへいた。煙草屋の煙草の自販機の前。アスファルトの脇。砂利で敷き詰まった畳を三つ横に並べたような場所。そこで一日を過ごす。昨日女性が現れたのは、日が昇っていくらか経った頃だった。今日のその時はとうに過ぎている。それでも私は煙草屋の前にずっと、ずっと居座った。
「邪魔な猫だね、しっしっ」
煙草屋の明かりは消え、日が落ちた暗い空間に、煙草の自販機の明かりだけが光っていた。
遠くから人影が見える。誰かが歩いて来た。きっと通りすがりの住人だろう。さっきもそうだった。だんだん近づいてくるのが、沿道沿いの街灯によって分かった。輪郭ははっきりしてきて、私の目の前にその人物が来たとき、ちょうどそこで待ち人が来たのだと理解する。
女性は何も言わずに私を抱き上げた。私は暴れることなく彼女の体に自分の身を寄せた。彼女の顔に自分の顔を擦り付けると、「人懐っこいなあ」なんて言っていた。猫にとってはこれが日常だというのに。人間で言えば、飯を食うのと同じくらい慣習化されたものだ。
それでも彼女は、よしよし、と私の背中を撫でることをやめない。いくらかそれを続けると、彼女は私を腕の中に残したまま歩き始めた。
人間に抱かれながら歩かれるのは初めての体験だった。すごい、これが鳥の感覚か。地面からの距離は鳥に比べれば低いものの、私は地に足をつかずして移動している。やっぱり思った通りだった。心地よい。改めて鳥は贅沢な生き物だと実感した。
彼女が向かっていたのは、公園の様だった。ブランコとベンチが一台あるだけの簡素な公園。ブランコに座るのかと思いきや、横にあったベンチに女性は腰かけた。彼女は私を地面にもベンチにもおろすことなく、自身の膝の上へと乗せた。
そのまま私を撫でるでもなく、私が彼女に身を委ねるでもなく、彼女は私をリュック同然のように腹の前で抱えて、ただ時間だけが過ぎていった。
「ネコちゃんはさ、私の話聞いてくれる?」
私は体を翻した。「にゃー」と鳴いてみると、「本当? 優しいなあ」と言って、両頬をゆさゆさと撫でられた。
「私さあ、もう疲れちゃった。最近ちょっと忙しくてさ。初対面の人と仲良く話すなんて言っても難しいと思わない? 元々得意な方じゃないし。でも、顔がいいとか痩せてるとかで勧められて、他にやりたい仕事もなかったし、そもそも給料安すぎて生きていけないし、そんな感じで始めた仕事だけどさ、やっぱりどんな仕事も楽じゃないね。気が滅入っちゃう」
私の手を握りながら、彼女はどこか遠くの方を見ていた。
猫の私にとってみれば、『疲れる』ということはどういうことなのかわからなかった。疲れるという概念は知っているものの、それを体感したことはない。猫は日常が自由だ。確かに獲物を捕まえて暮らさなければならないが、それはそれほど大変なことでもなければ疲れることでもない。
疲れるのってどういう感じなの? と聞きたくて、「にゃー」と鳴いてみたり、身を寄せてみたりするが、彼女は黙って私の体や首のあたりを撫でるだけだった。人間の言葉、覚えてみたいなとふと思う。人間の言葉は聞き取れて理解できるのに、しゃべることができない。これは少し苦痛だな。
私は彼女の膝の上から飛び降りた。この公園は何度か来たことがあった。だから、私は飛び降りた。彼女の元から離れても、彼女は私のことを追おうとはしなかった。私はいつもこの公園に来ると行く場所へと歩き、そこに落ちていた小銭を口にくわえた。
彼女の元へ戻ろうとした。少し遠くから見えた彼女は、まだどこか遠くの方を見ていた。目のあたりが少し光って見えた。人間は夜になると目が光って見える奴もいるのか。猫みたい。親近感が沸いた。
どこか遠くの方を眺めている彼女の足を、つんつんと口でつつく。気が付いたのか、抱き上げてくれた。
私が精いっぱい口を突き出すと、彼女も気づいたようだ。私の咥えていた小銭に手をやった。
「五円玉?」
「にゃー」
「くれるの?」
私は再びにゃーと鳴いた。
「ありがとう」そう言って頭を撫でてくれるので、私は身を乗り出して彼女の鼻を舐めた。その舐めるという行為が、猫だから許されるということは私も知っていた。人間同士で、それも見ず知らずの野良人からされれば、当人は嫌悪感が増幅するということも知っていた。なのに、人間は、動物なら許してくれる。
不思議だった。
「五円玉ってご縁がありそうだけど、穴あいてるから実は縁がなさそうで不思議だよね。大切にする」
女性は、私をきつく抱きしめた。
彼女がこの公園を後にするとき、私は彼女の後ろをついていった。彼女は、自分の家に着くまで猫の存在に気づいていなかったようだ。「なに、ついてきちゃったの?」最初はそんな感じで、最初に会ったときのようにしゃがんで私の身体を撫でてくれた。頬をわしゃわしゃしながら、「しょうがないなー」と抱きかかえられ、そのまま家の中へと入った。
「汚い」という概念はこの人間にはなかったようだ。部屋を普通に歩かせてくれたし、ペットを入れておく檻のようなところへ入れられるわけでもなかった。シャワーも一緒に入れてくれて体を洗ってくれた。ご飯も、魚をくれた。寝る時も同じ布団に入った。彼女は私を肌身離さず見ていてくれた。
「幸せだなあ……」と寝床の中で零す彼女の声。だったら人間同士今みたいな状態になればいいじゃないか。一緒に風呂に入って一緒にご飯食べて一緒に寝る。猫じゃなかろうと同じ人間がいるじゃないか。
私は人間をそこまで知らない。だからきっと、そうできない理由があるのだろう。
朝起きても、状況は変わりなかった。彼女は自分で朝飯を作るようだった。白米と味噌汁、簡素なレタスのサラダ。私にはまた魚を出してくれた。彼女の膝の上で食べる魚。別に特別な感じはしなかったが、いつもとは違う飯の場に、不思議と違和感を覚える。
今日は何処へ行くのだろう。彼女はきっと仕事だ。私はここへ取り残されるのだろうか。それとも、あの煙草の自販機の前に戻されるのだろうか。
「今日は違う公園いこっか」
今日もまた、公園に行くようだった。
人間の生きる大そうな世界では、猫など無粋にもほどがある。猫が道端で死んだところで、人々は何を思う。邪魔だ、グロい、早く片付けてよ。アスファルトの真ん中に敷かれた砂の下には、きっと価値のない血液と肉片の欠片が埋まっているだろう。
神社が見下ろす公園。血塗られたベンチの横。これまた血塗られたステンレスの包丁。忌まわしき空間に集る正装の人間たち。この公園には似合わないカラーコーン、黄色いテープ。雑踏。狂騒、喧噪。ほぼ人なんて訪れることのなかった公園は、たったそれだけのことで寄って集って盛んになった。比較的踏まれることのなかった雑草の上を、底の平たい黒い革靴が次々と踏みつける。
見えない足跡が、増えていった。
趣があった空間は、花束や供え物で彩られた。
私は知っている。それが今だけだということ。次第に置かれた花やペットボトルは数を減らしていく。朽ち果てた花びらをどこからか飛んできた鳥に食いちぎられ、ペットボトルの中身は腐敗してどこからかやってきた虫たちの養分となる。
人は、いなくなる。
時間を経て退化した供え物は、かつては美しいものであったのに、今では汚いと蔑まれるようになる。
ベンチの下には、見覚えのある小銭が落ちていた。見れば、五円玉の穴には、鎖が通されている。五円玉の穴をふさぐ鎖。理にかなっているように思えた。
輪っかになっていた鎖に、私は頭を通そうとするのだが、これが結構難しい。手を使ってみるが、肉球のせいで細いチェーンはつかめない。
一日試行錯誤してやっとのこと。私の首にはチェーンがかかった。首の下には五円玉。鈴じゃなくて五円玉。
親近感が沸いた。
この公園は私の棲み処となった。
猫の私に、死を悲しむという概念はない。寧ろ、死ぬことの方が日常茶飯事であると言っても過言ではないくらい。死ぬことが当たり前の世界。きっとこれが人間との大きな差だ。
だから、多分今でも、あの優しくしてくれた女性が死んだことに弔いなどこれっぽっちもないのだろう。いつかどこかの道端でくたばっていた同胞と同じように。電信柱の脇に落ちた烏と同じように。亡骸に蟻が集ろうが正装の人間が集ろうが、それは変わらない。見慣れた光景の一片だった。
きっと、彼女はもともともう限界だったのだ。そこに私という存在が現れた。人間の言葉をしゃべらないという絶対的な存在。人懐っこい。自分の言うことを聞いてくれる。そんな喜怒哀楽を言葉で表現しない猫と一緒にいることが、それほどまでに人間に及ぼす影響が大きいとは、彼女が自身の喉元にナイフをつき刺すときまで気づけずにいた。
死ぬときに誰かと一緒に居たい。殺人犯でもいい。警察とでもいい。それは猫の私にはよくわからないことだった。だって死ぬのって普通じゃん。寧ろ日常だし。死ぬことが当たり前だし。車に轢かれる同胞なんてごまんと見てきた。中には悲惨な死体も見てきた。
そんな日常茶飯事の死を、どうやら人間は美化したがるようだ。
「なにーこの猫面白ーい。首にネックレス下げてる。それも五円玉?」
どこかの高校生が二人、この公園に入って来ていたようだ。片方が私を抱き上げ、私の身体を撫でる。つられて私も顔をうずめる。
「うわー、かわいいー」
隣にいた女も貸して貸してと私を抱き上げる。私は手から手へと移動させられ、彼女たちの手の中で、猫を演じた。撫でられ、私が舐め、身震いをし、毛繕いをし、彼女たちに見られていた時間は、三十分を超える。また抱きかかえられ、顎を触られ、最後に「じゃあね」と言って二人は去っていった。
一匹取り残された素っ気ない公園。親近感の喪失。
ああ、これが疲れるってことなのか。
ベンチの上に亡骸はない。周りに枯れた花と、腐ったペットボトル。正装の人間も、蟻が集る烏の死体も見当たらなかった。
私はそっと、血塗られたベンチの上に身を擦り寄せた。
公園の中に無邪気に歩く猫一匹。そんな猫に自分も生まれ変われたらなあとふと思う。人間のような鬱陶しい感情を持たず、私の問いかけにも答えず、ただ私のそばにいて無邪気に甘えてくる。そんな絶対的な存在に、過去の私が出会ったことがなかったからだろうか。
日常が退屈だと言えば退屈なのかもしれない。それ以上に生きることに固執していた。なぜ働くかって? 食うためだ。なぜそこまでするかって? 給料がいいからだ。裏を返せば、普通の仕事が安すぎるのだ。自分にとっての割に合っていない。かといってどこかの裕福な人が助けてくれるわけでもない。
人間には感情があった。欲があった。理性があった。
私が今そこで毛づくろいをしている猫に見惚れるのも、きっとそんな理由。猫には感情がない。欲がない。理性がない。あったとしても、人間の言葉なんて話せるはずもない。
私はきっと、生きるための金が欲しかったんじゃない。生活費が欲しかったんじゃない。もっと身近で、温かくて、優しさなんだけど優しさじゃない愛おしさ。そこにいるだけで、ふっ、と息を吹きかけるだけで途端に別の世界に飛び込んできてしまったかのような感覚。そういうのが欲しかったのかもしれない。
猫が私の膝の上に乗ってきた。じっと私のことを見つめてくれる。私が撫でてやると、気持ちよさそうに目を瞑って、身震いをする。
人よりも猫に心を置きたいだなんて馬鹿げている。
この猫と一緒にいるだけで心が安らぐなんて馬鹿げている。
この猫が人間に権化しないかなあなんて馬鹿げている。
権化した後の姿はどんなだろうなんて想像するのも馬鹿げている。
そのあと一緒に食事に行く想像。食事しながら私の話を聞いてくれる想像。笑顔で相槌を打つ想像。家に来る想像。二人で一緒に酒を交わす想像。寝床を一緒にする想像。彼の顔が目と鼻の先にある想像。ささやかな期待。全部馬鹿げている。
この公園もきっと馬鹿げている。
でも、そんな世界で、私は生きているんだよね。
「おい、お前。私のこと好きか」
普段出さないようなちゃらけた声で問いかける。両頬をゆさゆさしながら問いかけると、猫は何も言わずに私の胸の上へと登ってきた。
顔を舐められる。悪い気はしなかった。見ず知らずの野良猫だというのにだ。ちろちろと皮膚に触れる猫の舌は不快ではなかった。
私もこうやって誰彼構わず心をやすらがせてあげられるような人だったらな。
それでも生まれ変わったら猫になりたいとは思わなかった。
神社の下。木々の揺れ。日航が木々の隙間を縫って差す程度。地面は背丈の低い雑草が、辺り一面に敷き詰まっている。森林浴。こんな言葉の意味も、体感して初めて実感する。
地球が滅亡する最後の日、あなたなら何をしていると聞かれれば、私は、「猫をリュックの中に入れて新幹線に乗り、公園に着いたら森林浴をする」、と答える。明日地球が滅亡してしまうのだから、世間体なんて気にしていられない。新幹線に乗るとき、背中のリュックの中で動く猫が可愛いと思ったのは、世界で私が一番初めだろう。席に座ってから、少しだけリュックのチャックを開けると、そこから手が飛び出してきて、思わず握ってしまう。周りの目なんか気にしなかった。本当に気にしていなかったら、堂々と抱っこしながら新幹線に乗っていただろう。
ネットで調べたら、ペット同伴で入れるカフェを見つけた。そこで一緒にかき氷を食べた。ツインテールの可愛らしい店長さんが、餃子までサービスしてくれた。猫って餃子食べれるのかな。思うまでもなく、猫の手には挽き肉と皮の欠片が。皿の上の餃子の形は、誰かに踏みつぶされたように崩れていた。
そんな久しく体感していない興奮と楽しさを覚えながら、近くの神社に来ていた。周りに人は見られず、誰かから忘れられているような神社。眠ってしまうような安らぎ。寝てはいられないような木々のざわめき。風と樹と神社と私。その中に猫が入っている。それだけで、私の感情は揺らいでしまう。
「猫ちゃんが人間だったら、真っ先に恋しちゃうのに」
そっと膝の上にいた猫を抱き上げる。顔と顔を近づける。唇と唇が交わるすんでで対面する。
「あなたが人間だったらキスできちゃうのにな」
再び膝の上に猫を置くと、飛び降りて走っていってしまった。
首の後ろに手をやった。ネックレスを外す。
首輪が外れた。そんな感覚に陥る。自分で外せたはずの首輪を、自ら外そうとしていなかった。今自分で外してみて実感した。
優しくなりたいけど優しくなれない。それはきっと不安のせいだ。この先、生きていくために必要な金のせいだ。私はこれと言って自慢できるものもなければ、好きだと胸を張って言えることもなかった。だから仕事だって選ばなかった。でも、不安は消えなかった。この先ずっと続いていくだろう人生。途方もあてもなく歩く自分の姿を想像すると、ひどく胸の奥が軋んだ。
結局ここまで育ってしまえば、人生のどの地点で死のうが一緒だということは分かり切っていたことだった。生きながらえるか、今ここで死ぬかと問われても、結局は同じだった。選択肢が違うだけで、その奥にある本質は違わない、同じ。生きていても死んでも、結局は死を意味する。生きながら死んでいることとさほど変わりない人生だ。
それでも死のうとは思わず今日まで頑張ってきたのは、少しの希望が消えなかったからだ。明日は何かいいことがあるかもしれない。何かの拍子に、私の人生が彩られるかもしれない。運命的な出会いがあるかもしれない。目を疑うような、自分を疑うような、そんな人間らしさが零れ落ちるくらい美しい情景、羨望。そんな期待が消えなかった。
掌の上にあったネックレスをぎゅっと強く握りしめた。
五円玉の感触を嫌に手にしていた。
ネックレスを、そっと雑草の上に置いた。
リュックの中に入っていたナイフ。取り出して刃先を眺める。試しに切っ先を首元にやってみる。奥に押し込もうとしてみるが、それ以上進めなかった。
途端に焦燥が訪れる。
今しかないのだ。猫が遊びに行ってしまった今が絶好の機会。そう思ってはいるのに、手の震えは止まらない。涙まで出てきた。太腿も震えてきた。さっきまで太腿に触れていた猫の感触が蘇ってくる。手の感触が蘇る。ここで思いとどまれば、日常が粗末だったとしても、またあの子とこの静かな公園で戯れることができる。
風が吹いている。枝のしなりが聞こえる。葉っぱと葉っぱが発破をかけて風に揺れて触れて鳴き声を出す。目を閉じた。聴覚の向こう側。そこに、猫の鳴き声があったらやめようと思った。ここであの子が私を止めようと鳴いてくれたら、本気でやめようと思った。これは一種の賭けだ。ルーレットと同じ。どっちでもいいのだ。
「にゃー」
真っ暗だった瞼の裏。ブラウン管に映る砂嵐の様。想像しまいと思えども、砂嵐の中の三原色は、うようよと動き回り、私の憧憬の姿へと形を変える。
その声はきっと優しさじゃなかった。もっと奥底に響く声だった。私がそう思ってしまった。幸せにならなきゃいけない人たちのために。涙が枯れてしまうくらい、涙がぽろぽろと流れるくらいに。
「地球最後の日に一緒にいてくれるなんて、優しい子なんだね」
飛沫をあげて。