つぶやき
ある若者は独り呟いた。
「なぜ、この世の中は学歴社会なんだっ」
と、つぶやいた。
いま現代における彼の言葉は、どれだけ社会に靡かせることが出来るだろう。彼が思う気持ちは彼自身にしか解らないが、彼のつぶやきは、何かがあるから、その呟きになったのだろうと思う。そんな彼の手元には、少々分厚い文庫本までにはいかない書籍が開かれている。
冬はすぐそこまでやって来て、夜がより長くなった。そんなのを関係なく夜2時過ぎまで起きている彼は、瞳の下に相変わらずの目のクマを作っていた。そんな彼をやさしく包み込むように、オレンジ色のテーブルランプが前方から照らしだす。
使い慣れた勉強椅子に奥深く座る彼の背中は、ちょっとした出来事にも動じない意志を感じさせた。そんな彼はまだ25歳という、現代寿命的にはまだまだ子供過ぎる年齢だ。でも今まで彼が経験してきたことは、人気、疑問、孤独、不登校、絶望、中退、自殺未遂、仕事、我慢、恋愛、性事情、異性事、称賛、希望…という一通り、人生にある出来事を学んだとされる彼は、一通り大きな背中としてそこに鎮座していた。
膝にかけていたまだお気に入りのタオルケットは、洗剤の香りをとうに失い、彼の汗の匂いと思い出を漂わせている。彼が動くたびにほつれていくタオルケットは、もう何年愛好されているのだろう‥。
そんなタオルケットの糸クズが左腕についたらしく、彼はその糸くずとともに一緒に自分の体毛まで引っ張ってしまった。ふと彼に何かが廻ったらしく、『う゛っ』と言葉が部屋に充満した。部屋の扉を閉めていたのを思い出したらしく、彼はそっとその体毛ではなく、その下に隠された、まだ体毛が無かった時代に作られた傷痕にそっと口づけを交わした。そして…また、つぶやいた。
「ごめんな・・」
求人票のあれこれの情報がほんの少しだけ、何者かによってクシャクシャに丸められながらも彼の顔を頑張って覗いていた。いくつもあるその求人票たちは、一時は色ペンで彩られて悦べたものの、燃え盛る炎へ終着するとは思いもしてないだろう。これが現実というものなのか。
いくつもの穴のあいた壁に張り付く時計は、夜中の3時を刻もうとしている。
机のうえでパッと明るくなったスマホは、なにかのサイトで教えてもらった情報で、彼に、身勝手に恋愛を押し付けるメールの受信をお知らせをする。また、彼はつぶやいた。
「自分に足りないものは、そんな"指図されて動くような戦力゛だとでも言いたいのか」
親切に教えただけのスマホは、無情にも自分の意志とは反して電源を落とされてしまった。しかし彼の顔を間近で映すことが出来た黒い画面は、ひとりの人間がため息をつく瞬間を押さえることができて微笑んだ。その瞬間を、この部屋も共有した。
冬の影響なのか鼻を妙にすする彼を、箱ティッシュの先頭さんは、布団に移る彼の風を受けながら小さく頷く。
真っ暗になったこの部屋。___わたしは想う。
わたしが見えるその大きな板は、何を物語っていますか。わたしが見ているのは、それはあくまで板ではありますが、それを越してまたひとつまたひとつ一枚先には兄の背中があります。兄は、何を思ってあのつぶやきをしたのですか?兄が必死に読み進めている、あの社会啓発本の感想ですか。わたしは兄の気持ちがわからないですが、兄の云う『学歴社会』とは…わたしへの妬みなのでしょうか。インターシップ選抜されてしまったわたしが、いけないのでしょうか…。
わたしは先輩から聞いたことがあります。人生経験が深いまだ高卒の子の方が、良いと。ただ就職に有利だからといい、大卒や高専卒した子は、たしかの専門性には富んでいるが、常識から抜け出せなくて固定観念に囚われてしまっていることがあると。
就職してないから、わたしにはさっぱり理解できません。
が、さらに先輩が言うには、学歴がある人は経済的に豊か、そして都会へ。学歴が少ない人は、貧困になりがちで地域型。だからそういう進学を選ばなかった、選べなかった人たちを逆に支援すべきだと…。
ちなみに先輩は早く社会に出たかったらしく高卒ですが、同級生は進学したおかげで2倍以上の余裕差があるんだとかという話をしてもらいました。
これだけは確かに納得できるような気もします。同じ内容で、特に知識なども関係ないような仕事で給料を渡されたとき、片方は学歴が高いからと多く貰い、もう片方はただの『手取り金』という‥。
わたしには何が正しいか判らない。
だけどこれだけは譲れない。彼、いや兄が、どんな思いでそんな呟きをおこなったのか、なにを感じたのか。ひとりの家族として、わたしはいずれ知りたいと思う。兄がわたしの就職を、背中を押してくれたり、大いに喜んでくれたりしたお返しに。
何度も転職、求職を繰り返してる兄を、今度こそ継続できる仕事場が決まった時に、自分も、同じく、応援できるようにと・・・わたしは。
そうしてこの6畳ぐらいの部屋は、二段ベットで寝る彼とその主人公とともに、ひとまず眠りについた―――。