村の世界を1日体験!驚きの連続です!後、メイド服の村人のお姉さんに……うう、かなわない気がする。色んな意味で‼
その日、早羅さんは食事をご馳走してくれた。
わたしの誕生日は、この国で最も高貴とされるお方の誕生日とも重なっていて、ただでさえ祝日だった上に、1994年のその日は金曜日だったため、とても時間的に余裕に満ちた日となった。
終業式(校長が貫禄たっぷりにとてもありがたくそして長い無駄話をするという拷問の儀式)も前日に済んでいた。
冬休みが始まっていた。そしてわたしは節目を越えていた。
その日の 明け方早くまだ陽が上る前の闇の中で目を覚まし、パステルカラーのカヴァーの枕の弾力に左のこめかみと耳と頬を埋めて前髪を垂らしながら、目覚まし時計の蛍光文字を手繰り寄せてから、ため息と共に思い返す。
前日の23時までは意識は明瞭だった。パジャマに着替えてベッドのへりに腰と手を下ろして、クッションの弾力を身体の芯に受け入れながら、時計を見上げて世界が日付変更線をまたぐのを待っていたはずだ。
ずっと待っていたのだ。とても長い期間のそれに加えて、夏の花華さんの予言は不安の影を濃くした。
その影に怯えるのは悔しい気がしので、できるだけ考えないようにしていたけれどやはり不安は不安だった。
だから、15歳になった瞬間に早羅さんから全てを聴こうと思っていたのに、気がつけば寝ていた。
水が綿に吸われるように、わたしは眠りに意識を吸われた。それがどうしてかは分からない。
けれどそれも、わたしの迎えた変化の現われだったのかもしれない。身体は変化する。女の子は初潮を迎えて、妊娠が可能な身体、成体に変化する。わたしの初潮はとっくに来ていたけれど、もっと違う何かがわたしに来たのかもしれない。
花華さんの夢を思い出す。
黒い砂の海と、その輝き。
「おはよう。紗愛ちゃん」
鼓膜は柔らかい声を受容した。それはいつもどおりの響きで。だからこそわたしは、いつもどおりに挨拶を返すことが出来なかった。
だって、おはよう、と返してしまったら、それについて訊かざるを得ないのだ。
わたしの中の覚悟が、意志と言ってもいいほどの形にみなぎっていたのは昨夜であり、この朝は冷蔵庫で忘れ去られて水分が抜けて代わりにしわがいくつも渓谷みたいに走った茄子みたいになっていた。
寝返りを打つみたいに早羅さんと反対方向の壁に身体と顔を向けて、沈黙をする。
寝たふりである。
つまりは狸寝入りである。けれどこの時、わたしの心臓は、鐘が打つような響きを立て続けに立ててそのいくつもの響きはわたしの全身を揺らしたし、頬とおでこは燃えた。
どうやらわたしには狸寝入りの才能は無いらしい。狸に生まれなくて良かった。
「今日、ご飯食べに行こうか」
早羅さんの声が響く。
その声の響きは、陽のまだない室内の闇に吸い込まれた後も、鼓膜の内側の渦巻きでぐるぐるしていて、いつまでもわたしの脳にはたどり着かないような錯覚を、わたしに覚えさせた。
上体が起き上がる。
枕と同じパステルカラーのカヴァーの布団がめくれる。
街とか珍しいね、とか、デートみたい、とか、ご飯って一緒に食べれるの不思議がられない?とか言いたい事がのど元で混雑をして、結局でてきたのは、
「おはよう」
で、それから間を置いて、わたしは
「うん。分かった」
と続け、早羅さんが声を出す代わりに微笑んでくれたのが分かった。
カーテンの向こうの大気に陽が昇る兆しが、淡い水のように満ち、布の隙間を通って彼をはっきりさせたからである。
……わたしたちは昼になる前に出かけた。
その前に服を選んだり、おめかしをしたりと色々した。
高校生になって外出する時に化粧をしないのは常識的にあり得ない、と学友から聴いていたので、その頃は化粧というものを試行錯誤するようになっていたが、問題は、である。
おそろしく時間がかかるのだ。およそ自らの顔面に疎い人生を送ってきたせいか、はたまた、
「紗愛ちゃんは何もしなくても綺麗だよ」
という早羅さんの言葉にどっぷり甘えてきたせいか、美しくありたいのに、美しく化粧をしよう、という発想に至らなかった因果のせいか、わたしはメイクの完成手前で再びやり直し、を何度もしてしまうのだ。単純に美術の才能がないだけかもしれない。
ともかくそんなこんなで、恐ろしく長い身支度を終えて、家を出て、早羅さんと手をつないで、北風の中を駅に向かった。
風は冷たかったけれど、彼の手が暖かかったので、幸せを覚えた。それは、カイロを握るのと似てるようで全く違う、幸福だった。
わたしたちは、電車に揺られながら冬に色彩を喪った首都の街並を眺める。
車外の景色について目配せをし合う。
楽しい。まあ、普通のかっぷるみたいには話せないけど(変な目で見られるので)十分幸せだ。
乗り継ぎをいくつかして都営地下鉄に入ってからすぐ、六本木でも赤坂でもないあまり名前の聞かない駅で降りて、地上に上がった。
コンクリートは路地を覆い、そこからいくつものビルたちが、大地から空に伸びる林の木々みたいに、湿度の無い青空を、やりかけのジグソーパズルみたいに切り取っている。とても大きな建物たちが防いでくれるはずなのに、風は路地で暴れてわたしや早羅さんの頬を切った。
「風邪引く前に、急ごう」
と早羅さんが言ってくれたので、首に巻いた赤のマフラーに頬を埋めるみたいに、彼にうなずく。
交差点をいくつか渡ってからたどり着いたのは、5階建てのビルで、およそこの大都会の活動から忘れ去られたみたいな、廃れ具合だった。
それこそ竣工落成の直後に致命的な不具合でも見つかったのかという位、人の営みの形跡を見せないビルで、ひびの入った壁面とガラスの抜けた窓枠しかなく、しかも窓の内側の通路には所々、どす黒い水が溜まっているのが分かり、そこから漂う埃のかび臭さに、鼻の先が硬くなる。
思わず、早羅さんに訊いてしまった。
「ここ?」
「うん、ここだよ」
彼は答えながら錆びついたノブの手をかけて、わたしを通路に招きいれた。
通路は、窓枠から吹き込む風と共に光を採っているせいか、意外にも明るかったけれど、やはりカビの臭いが強く、何度もむせる。
早羅さんの手のひらの弾力を、背が柔らかく感じる。その柔らかさに幸福を覚えながら、いや、覚えているからこそ、少し彼に不満を覚えた。さすがにここは無いだろう。廃墟すぎる。
けれど我慢をした。
そして、懐から取り出したライトで足元を照らす彼に手を引かれて、微かに水の流れのような音を鼓膜に感じながら、奥まった作りらしい迷宮の角を幾つも曲がり、地下に続く階段を下りて、さらにまた通路を行く頃には、闇にも大分目が慣れていたので、通路の果てに光を確認した時、息を呑んだ。
それは、蛍の光を集めたような謙虚な白の光で、流れるような弧を空中に幾つも描いていた。その軌跡はアルファベットに見えなくもなかったし、軌跡の集まりは月光をためて輝く花畑にも思えた。
早羅さんの手のひらを固く握りながら近づいていくと、その光の畑が、本当に蛍の群れだと分かった。
清流が環を成して、蛇のようにくねりながら地下通路を巡っている。その面に浮かぶ飛び石を早羅さんの手に支えられながら渡る。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
女の人が腰をかがめていた。
漆のような黒のワンピースに、フリルの柔らかな白エプロン。このエプロンドレスと、纏め上げた黒髪に戴冠した白のカチューシャという組み合わせに、メイド服という単語を思い出すのに少しの時を必要とした。
彼女の背丈はわたしと同じ位で、フリルからのぞく黒タイツの足はわたしより細かったけれど、ワンピースの奥の胸はとても豊かで、花華さんを思い出す。
けれど、顔立ちは整っていることは整っているが、それこそ池袋のスターパックスでクルーをしている女子大生なお姉さんたちとそう大差は無い。
彼女がわたしに視線を合わせ、瞼を落として口角を上げたとき、彼女に目を凝らし過ぎている事に気がついて、赤くなった。
「時間が遅れた。すまない」
肩の横で早羅さんの声がした。
「いえいえ。お気になさらず。それに器様のお誕生日をお祝い差し上げる誉れに比べれば、全ては些細です」
言いながら涙ぐむ彼女の長いまつげを、蛍の光が浮かび上がらせた。
その刹那の彼女は、ちょっとお化けに見える位、微笑が妖しく艶かしかった。それは女子大生の域を超えて、人ではない誰かを感じさせる。
けれど、それはそうである。彼女は普通のヒトではない。早羅さんを認識できて、朱森紗愛を器様と呼ぶメイド服さんなのだ。わたしは廃墟のビルに入り、地下通路を抜けて、ここに来たという事を実感した。
ここは、この蛍の闇は。
……早羅さんの世界である。
…………
『注文の多い料理店』という小説を思い出した。
この小説は、狩猟をたしなむ者たちが、山歩きの末に、ヒトならざる者の営む料理店に迷い込むという話である。
もちろんここは、都営地下鉄沿線の廃れたビルの、光から隔絶された地下通路の果てに過ぎない。
けれど地上階のかび臭さと違って、この細長い空間を循環する空気には、山深い神社とかでしか味わえないような清浄が満ちている。
それは蛍すら飛べそうなほどで、実際飛んでいる。光として集う彼らは、床に環を描く清流のせせらぎに恍惚するように、無数に揺らめいている。その揺らめきに、わたしは軽い酩酊を覚える。
「ご案内いたします。器様、こちらへ」
メイド服さんの顔面に笑みが満ち、闇に光を帯びる雪のように白い手を差し出された。
黒目が見えなくなるほど細められた彼女の瞳には、つい先ほど涙ぐんだ時の妖艶さはかけらも無かったけれど、有無を言わせぬ力があり、思わず肩の隣の早羅さんを横目で見る。
早羅さんは、わたしを軽く見上げながら、柔らかく肯いてくれた。
「大丈夫だよ。僕も後で合流するから。それにこのお姉さんはとても優しいし、信頼できる人だから、安心していい」
……彼のその言葉にわたしの頬は硬くなり、もう見向きもせずにメイド服さんの手を取って、蛍の闇の奥に控えていた漆黒の扉の向こうに誘われる。
……わたしは、欲深い女ではないはずだけれど、早羅さんに関しては何故こんなに誰彼構わず嫉妬するのだろう。
彼がメイド服さんを誉めた。
優しいし信頼できると言えるほどの関係性がある。
それは知らない早羅さんだ。彼女が羨ましい。
わたしという存在は、彼が守る対象で、器様という黒い砂の海を抱えるヒトに過ぎない。
信頼できる人だとか言ってもらったことは無い。
いやそもそも夏の甲子園でお会いした千骸さんの他には、九虚君くらいしか、早羅さんと話している人を見たことがないのだ。
ちなみに九虚君はわたしよりも一つ年下の男の子だ。
夏の甲子園で花華さんの殺気に中てられて意識不明となったのは、以前にも書いたのだが、彼は、わたしが目を覚まして帰宅した二週間後に早羅さんが村から呼び寄せた人物である。
何故二週間かという理由は言わなかったけれど、おそらく早羅さんは花華さんの襲撃を恐れたのだろう。
彼女は強い人を漏れなく襲う。
なので、早羅さんは、警戒に警戒を重ねて二週間外部の侵入の形跡の無いことつまり安全を確認した上で、九虚君を呼んだ。
その日は夏休みの残りもわずかで、窓の外の気だるい熱気と蝉の命の絶叫を聴きながら、勉強机に向かって花華さんの夢のことを思い返していた。口は西瓜氷菓をかじっていた。
「紗愛ちゃん、公園に行こう」
窓の外の住宅街を覆うように広がる紺碧にいくつものメレンゲをこれでもかと落としたみたいに堆積した雲の輝きに、視線を投げながら早羅さんがそう言った時、うん、と言って頷きながら意外に思った。
声は、いつもと同じ柔らかさだったけれど、オクターブが少し高かったからだ。
基本座敷童の地をいく引きこもりである早羅さんが、公園にときめくとはかなり珍しい。
しかも、わたしを花華さんから守れなかったために、この頃の彼のテンションは、ものすごい低空飛行というより地中にめり込むモグラ状態であった。
もう何度とも無く書いたことだけれど、彼と長年過ごしてきたわたしは、彼のテンションが分かるのである。
基本的にその尺度は、つっこみや軽口の有無に依存するけれど、甲子園から帰宅後の早羅さんからは、そういうものが一切消滅していた。
かけてくれる声も柔らかな響きだったけれど、どこかで張り詰めていた。これは全て花華さんのせいである。けれど、わたしを治してくれたのも彼女なのである。複雑だ。
住宅街の隅に落とされた忘れ物のような小さなたたずまいの公園に着いた時、ベンチに腰掛けていた黒サングラスの男の子が、立ち上がって、こちらに向かって深深と礼をした。
早羅さんはそんな彼に歩み寄って、その両肩を軽く叩いた。
「はるばる済まないね」
「いえ、光栄です」
男の子はそう言ってからわたしに向き直ったので、彼と対峙することになった。
色白でパーツが端正なうりざね顔にかけている黒のサングラスは、アンバランスに大きく、彼の感じを悪くしていた。
平たく言うと不良っぽい。
サングラスの上の額とさらに上の丸刈りの密度の濃い黒髪は、陽を受けて汗に輝いていた。
背丈はわたしと同じ位で、早羅さんより高く、紺のジャージの股下は長く、白無地のTシャツから伸びた腕は長い。
わたしが早羅さんを見て何かを言おうとしたその時、九虚君がサングラスを外す。
わたしを見据える黒目がちな瞳は、涼やかで、その宿す光には慈悲があった。
……嵐の暴れ去った海。海面に残る無数の白波。未だうねり狂う黒灰色の雲。
その雲間から陽がのぞき、光の柱がいくつも斜めに海面に注ぎ降りて、濃紺の海面を淡く水色に透く。
その淡さはやがて海原全体に広がり、陽は風を鎮め、海は凪ぎ、世界の全てに光が回復する。
そんな情景が脳内を巡る。
そんな慈悲。
「終わりました」
九虚君はサングラスをかけなおしながら早羅さんにそう言って、わたしは我に帰り、早羅さんを見ると、彼はとても苦しそうに九虚君を見ていた。
この場合は心配という言葉が正しいのだろうけれど、心配が高じると苦しくなるのだろう。
本当に苦しそうで、わたしの胸も痛む。
「ありがとう。彼女に後遺症は」
「ありませんよ。健康そのものです。器様はヒトに近いといっても、村人ですからね。命の力も強いのでしょうね。後……」
「後!?」
言いよどむ九虚君に早羅さんが詰め寄る。
「いえ、大した事ではないんですけど。高度な治療の痕跡が気の循環に見られます。微かですけどね。誰かが力を使ったのでしょう。けれど悪意は感じません。今でも薄いですし、ほうっておいても月が変われば消える程度です」
花華さんだ、と思った。
わたしは九虚君から目をそらし、その間に彼は、早羅さんと二三の言葉を交わして、
「器様の因果を堪えるのが辛いので、もう行きますね」
と言って、やはり深々とした敬礼の後で立ち去ってしまった。
…………
メイド服さんに案内されながら、九虚君について考える。
何故彼には嫉妬しなかったのだろう?彼の慈悲?いや、関係は無い。
彼だってわたしの知らない早羅さんのことを知っていたはずだ。結局は性別ということか。女は女に嫉妬する。そして嫉妬というものは、美しい感情ではない。
だって、それは劣等感の投影に過ぎないからだ。
とわたしが悶々と考えている間に、黒い天井のシャンデリアが目にまばゆいエントランス、さらにそこからカーテンで仕切られた奥の小部屋に、通された。
その小部屋は衣装部屋で、銀座のデパートのショーウインドウできらめく服たちみたいに、真紅、檸檬、純白、濃紺、漆黒、ライムグリーン、他さまざまな色のドレスが陳列されていた。
口を鳩みたいに開けたわたしの横から、メイド服さんが訊いて来る。
「どれになさいますか?」
花嫁の衣装合わせみたいな訊き方だったので、気後れする。
ドレスのどれもが誇り高くきらめいていた。
上質という言葉を布にしたらこんな感じなのだろう。
布の裁ち方、縫い方に使われた技術の高さも、華麗で高貴な形状から伝わってくる。
そうなのだ。これは華麗や高貴という概念を服にしたもので、こういったものは、15の小娘のわたしなどではなく、オードリーヘップバーンとか、ハリウッド在住の白人たちかモナコの王族が着てしかるべきものなのだ。
わたしは硬直を続けた。
そんなわたしに、メイド服さんは困ったように微笑んでから、耳元に囁きかけてきた。
「桃の夭夭たる 灼灼たる其の華」
「え?」
わたしはメイド服さんの整った瞳を見る。
「中国の古代詩です。……若々しい桃の木に燃え立つような花が咲いた。わたしは器様を本日拝見して、この詩を思い起こしました」
「え」
「花があってこそ草や空があるのです。服は飾りに過ぎません。器様の華に比べれば、それは些細なること」
彼女が励ましてくれているのは分かった。遠まわしにとても褒めてくれていることも。
その善意に背中を押されて、ライムグリーンのドレスの元に立って、生地に触れてみると、このドレスが輝いていた理由が分かった。
大小のエメラルドが薔薇があしらわれたような胸元から肩にかけて、散りばめられていたからである。それが、おびただしい光を輝かしていた。
他も同じだった。真紅のドレスにはルビーが、純白にはダイヤモンドが、無数に、海のように広がっていたので、メイド服さんが言う飾りの時価総額を想像して、頭の芯に軽い酩酊を覚える。
漆黒のドレスを手に取る。
やはり宝石がちりばめられている。
暁の闇を凝縮したようなその内部には、光が、幾重にも折り重なりながら静かに輝きを成している。この黒に。この光の重なりに、……覚えがあった。
ドレスの表面の宝石たちから顔を上げて、メイド服さんに訊く。
「これは?」
「黒金剛石です」
彼女はにっこりと笑って答え、わたしは、再びその石たちの輝きに視線を落として、まじまじと見入りながら、とても複雑な気持ちになった。
……黒い砂の海。
その砂は黒金剛石だった。
「これを着ます」
わたしは、黒金剛石の海に視線を落としたまま、呟くように声を出した。
メイド服さんはドレスの着付けに加えて、化粧もしてくれた。
「器様の紅の塗り方には、いじらしさを感じますが、この服飾には残念ながらそぐいません。変えさせていただきますね」
彼女の言葉を翻訳すると、化粧が下手で服に合わないから変える、ということなのだろう。
この言葉に、わたしのささやかな自負は、大いに傷つく。
けれど、メイド服さんが、わたしを美容室的な椅子に座らせて、クレンジングクリームを塗ってくれたり、温かい布でパックをしてくれたりする時には、エステに行った事はないのだけれど、韓国とかセブ島あたりの専用施設で美肌ケアを受けているような快適を感じて、自負の傷というものを少し忘れてしまった。
でも何だかそれとは別次元で、尻のすわりが悪いというか全然落ち着かなかったのだけれど、それは彼女のせいではない。
文字通りわたしの目と鼻の先で、まつげの長い瞳を大きく開いてグロスの先に集中するメイド服さんの面持ちは真剣そのもので、彼女の集中に、フレンチの皿に仕上げのソースを黒く垂らすシェフの姿を連想した。
彼女の首筋や鎖骨を覆う肌は、白くきめが細かく、花畑のような匂いが薫っている。頬はうっすらと上気して、集中の度に微かに漏れる吐息は温かいけれど不快ではない。
高原の天然のミントのような爽やかな香りがする。
白のカチューシャが上下するたびに黒い前髪が揺れて、そのたびに花粉のようなものが柔らかく舞う錯覚を覚える。
……と、長々と書いたけれど、彼女がしてくれたお姫様な扱い方が想像を超えていただけで、メイクにかかった時間自体はそこまで長いものではない。
メイド服さんの集中と裏腹に、彼女の指の先のグロスは、まるで別の意志を持った生き物みたいに、迷い無く速やかな運動をしていたし、塗られた紅やおしろいの量もさっぱりしたものだった。
むしろわたしがしてきたメイクの方が気合いが入り過ぎてごてごてしていた。
これが分かった点で、自負の傷といったものは恥ずかしさに変わる。
メイド服さんは、顔面の塗装作業を一通り終えると、わたしに視点を合わせたまま二歩後方に下がった。
全体のバランスを確認してから、白のエプロン部分つまり彼女の腰に両手をあてがって、口角を富二屋のぺこちゃんみたいに上げながら鼻を軽妙に鳴らす。
それから後ろに回りこんで、胸の横でまっすぐ重力に引かれているわたしの髪を編み編みしはじめた。
髪はびっくりしたことだろう。およそストレートに垂れるという事しか知らなかった髪たちは、幾つもの束にまとめられて、セーターを成す毛糸みたいに編まれて、頭部に沿うように曲げられたり巻かれたりして、15年間の歳月では一度も経験しなかった形に落ち着いたのだから。
その一連の後、白雪姫に出てきそうな堂々とした鏡の前に導かれた。
そして、その前で言語中枢というものがすっぽり脳から消失してしまうような錯覚を覚える。
育った環境的に起こる出来事の衝撃に言葉を失うことはあっても、自身に対してこんなに驚きを覚えることはなかった。
だって、鏡に存在しているのは、わたしではなかったからだ。
鏡という金属の奥の左右逆対象の中にたたずむ彼女の美の形容をわたしは知らない。
髪形はローマの休日のオードリーヘップバーンみたいだったし、肩の開いた黒のドレスはモナコの王女を讃えるようにきらめいていた。けれど、彼女を。彼女の美を現実的な何物かに例えることを、わたしは出来ない。
逆に幻想に求めるのならば、言葉は豊穣になる。
月の輝く白鳥の湖。悪魔に囚われた姫を救おうとする王子。
彼を魅了した黒鳥。闇に輝く美。黒金剛石のようなきらめきは、瞼を貫くのみならず、全てを闇にひたし、陶酔の予感に誘う。
そういう美が、わたしの前の鏡の奥に立ちすくんでいた。
「いかがですか」
人を化かすことを楽しむような響きを帯びたその声が、メイド服さんの唇から出たものであると認識するのに、しばらくの時を要した。それほどまでに、あっけにとられていた。
わたしは答える代わりに鏡の向こうの彼女を指さして、
「これ、わたし、ですか?」
と、途切れ途切れに訊く。
メイド服さんは、瞼を薄めて艶かに微笑む。
「紛れも無い器様です」
「信じられない」
「女性には、あるべき姿がいくつもあるのですよ。わたしがお見せしたのは貴方様の片鱗」
ため息をつくように言葉を漏らしたわたしに、メイド服さんはそう言った。
彼女のこの、片鱗という言葉に、花華さんを思い出す。
なんというか、見た目女子大生なメイド服さんは、仕草や言い回しが花華さんと似ている。
仕草はすみずみまで雅やかで、言葉はそれとなくとても優しい。
おそらくこの人もとても恐ろしい人なのだろう。
だからだろうか?
違和感がある。落ち着かないし、その事に心のどこかで申し訳なく思う。
「準備も整いましたし。こちらへ」
メイド服さんに付き添われて、次の小部屋を隔てる幕を抜け。
白真珠、透き通った紫のアメジスト、陽に透けた海のようなアクアマリン、砂漠の太陽のようなシトリンクォーツ、桃のような紅水晶、草原の空のようなターコイズ、夜空のような藍のラピスラズリ、輝きを結晶にしたような金剛石、そして、暁の闇に光を孕ませたような黒金剛石たちが、ネックレスやブレスレット、指輪の形をして陳列されているのを見て、輝きに言葉を失う。
行ったことはないけれど、発掘されてないピラミッドの奥か、大英博物館にいるみたいだ。
メイド服さんに、お選びください、と言われたので黒金剛石を選んだ。ネックレスもブレスレットも指輪も。
それがわたしの本来だろうし、それが逃れられないのならせめて堂々と受け入れるべき、わたしの運命だと思ったからだ。
最後の幕をくぐると、小さなお店だった。
床も壁も柔らかな木の作りで、山の清涼な匂いがして、表の蛍の闇を思い出す。
四隅にはランプが置かれて、そのガラスの中で小人が踊るみたいに炎が揺らめいていた。
ランプの淡い橙色の光は暗がりに柔らかい輪郭を与えている。
春を待つ冬の眠りのような管弦楽が空気に循環していて、空間にかぶさる天井は闇のように黒いけれど、いくつもの小さなライトが瞬いていて、銀河みたいだった。
その銀河のちょうど中央の夜空に一際輝かしい星があって、そこから真下の、店内にたった一つのテーブルと純白のテーブルクロス、それを挟んで向き合う一対の木製の椅子たちを、光で円く包んでいた。
奥にはカウンターがあって、その向こうでは、野菜を切ったり、フライパンで茸を焼いたり、オーブンに肉を入れる人たちの白い制服が、あわただしく動いている。
わたしの心はその景色のどれもとらえず、瞳は、テーブルの横に立つ早羅さんの黒の背広姿と、かき上げて整えられた髪を、瞳孔の奥の網膜に焼き付けていた。
彼のおでこがあらわになっているせいか、いつものどことなく眠たげな早羅さんらしさはすっかり消えて、代わりに実年齢33歳を思わせる大人っぽさというか威厳があった。
まっすぐだけれど力みの抜けた立ち姿はいつも通りだったけれど、身に包んだ背広の黒が、彼の容姿や立ち姿の美しさを、光を与えるように際立たせていた。
「いつもと全然違う、ね」
と、彼に微笑みと共に言いながら。
……とても安心した。
なぜかというと、尻のすわりの悪さというか、緊張というか、違和感。メイドさんとの間中ずっと感じていた落ち着かなさが、体の中から、霧が晴れるように消えたからだ。
わたしはどこかの王族みたいな身なりになって、童話の誰かみたいな別人になって、早羅さんはキラキラした威厳あふれる誰かになっていたけれど、彼に感じる安心。わたしがあるべき場所が、彼の在る場所である、という感覚は、いつもと変わらないでいてくれた。
黒い砂の海によって、わたしがどう変わってしまっても、どれだけ世界が変わっても、この安心は変わらない。
わたしは彼を探し続けるし、彼はわたしと在り続けてくれる。
そういう確信がこの時にはあり、だからこそ、いつもと全然違うと言いながら、安らぎを覚えた。
……けれどそんな確信は、わたしが勝手に胸に抱いた一方的で絶望的な、勘違いであるとすぐに思い知ることになる。
それは、早羅さんの独白によって。