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わたしはそれを、母を求める赤ん坊のように感じた。孤独に泣く、とても弱弱しい存在として。

 高台に立っていた。

 笹薮(ささやぶ)みたいな濃い緑の草たちが、さえぎる物のない陽の光に照らされながら辺り一面をまばゆく覆っている。

 風がふもとを蛇行する川の水面(みなも)から吹き上がる度に、波のような弧を幾つも走らせながら揺れた。緑に沈黙する草たちが、その時だけは陽をおびただしく受けてエメラルドの色合いを帯びていた。


 その色合いに目を惹きつけられたわたしは、この髪もこんな風に美しく輝いてくれたら良いのにと思いつつ、風にたなびき乱れる髪を押さえながら草むらにしゃがみ込んだ。

 それから、四六時中輝いてほしいとかそんな贅沢は言わないから、せめて早羅(さわら)さんの前では目いっぱいきらきらして欲しい、と心から思う。


「年頃の乙女は全体的に輝かしいものよ。ほっといてもね」

 忘れるには色々印象的すぎる花華さんの声が、鼓膜の内側に甘く響いたと思ったら、後ろから首を抱きしめられた。

 わたしの胸に(よみがえ)ろうとした彼女に対する恐れは、この人が続けざまに行った頬ずりの柔らかさと優しさのために、色合いをとても(すみ)やかに喪ってしまう。

 背に感じる柔らかな弾力は彼女の豊かな胸であり、その温かさも速やかさに拍車をかけた。

 なんとなくライオンに抱えられてすりすりされたらこんな感じなのかなという妙な空想を抱いてから、我に返ってとりあえず慌てる。

「ふぁ、花華(ふぁふぁ)さん!?」

「ん?」

「」

 口から出るはずの言葉たちは、気道のなかばで(つか)えて渋滞を起こしてもつれてごちゃごちゃに絡まりあって、結局わたしの心から秩序だけを奪っていく。

 なんでここにいるんですか、そもそもここはどこなんですか、瀬長島君を見に行ったんじゃないんですか、とか幾らでも訊きようはあるはずなのに、である。

 

 それらの全てをほっぽらかしにして早羅さんを視界に探す。


「可愛らしい慌てようね。でも必要なことではない」

「え」

「……わたしは貴女が気にかかった。その結果ここにいる。それだけの話なの」

 花華さんは、わたしを放して、隣に腰を下ろしつつそう言った。

 川向こうに視線を投げる彼女の瞳は黒々としていてかすかに暗い緑色を帯びていて、無意識に惹き込まれながら、彼女の次の言葉を待つ。


 「そんなに見つめないで。照れるから」

 照れるとかいう言葉がもっとも縁遠い感じがする恐るべき花華さんは、驚くべきことに本当に照れて、横風に揺れる黒髪がかかる口元に恥じらいすら浮かべていた。

「人に見られる事に慣れてないの。わたしを知覚できる人って稀有(けう)だし。まあでも、こういうのも悪くはないわね。中々珍しい体験だわ」

 川向こうに視線を戻して目を細める花華さんの前髪を風がかき乱して、滑らかな曲線を描く額をあらわにした。

 形の優れた鼻梁やなまめかしさのあふれる唇とともに、彼女の額は陽を受けて輝く。

 その美しさは、風に揺れる草のエメラルドなどは比べ物にならないもので、思わず喉を無作法に鳴らしてしまった。

 耳たぶが恥じと彼女の美に熱くなり目を伏せるわたしに、花華さんは真紅の薔薇のつぼみが少し開くみたいに横目で微笑んでから、

「これは夢なの。希望という意味の夢ではなくて、あなたが眠りから覚めるまでの刹那の(はざま)という意味の夢なの」と言った。


 わたしは、妙に納得したというより、夢の中でいちいち物事に反論するといった経験が無かったので、なるほど夢かあ、と思ったりして何故か背骨に張り詰めていたものがふにゃっとなったりする。

「だから早羅さんがいないんですね。」

 その声には安堵が大層こもっていたらしく、花華さんは声をこらえるようにして笑う。

 

「想い人の不在に理由があることに、安心する、か。乙女というものは実に輝かしいものだな」

 彼女はそこで言葉を一度切って、わたしの、ただでさえ風にまとまりのなくなっている髪をさらに乱して、続けた。

「安心しなさい。彼は目覚めつつある女方の(かたわら)()る。現実の私は彼の向かいで貴女を気功で癒している。……ああ、大丈夫よ。私は彼を襲わないわ。見逃すと決めた相手に手をかけるのは、私の誇りが許さない。しかも彼も私を認識していないから、戦闘も起きようがないわ」

「早羅さんは花華さんが見えないんですか? 」

「余計な(いさか)いを避けて治療に専念するために、ね。本気で気配を消しているの。本気の私は元始天尊ですら認識できない。それが私のクンフーだから」

 悪戯(いたずら)を語る子供みたいに誇らしげな花華さんに首をかしげる。

「あれ?でもわたし花華さんと話していますよ? 」

「それはね、夢だから。私の意識は貴女の治療に専念している。今ここでくつろいでいる私は、私の無意識。私は気功を通じて貴方とつながっているだけだから、この会話も現実の私は認識していないわ。貴女だって目が覚めたら忘れてしまうでしょう。でも良いの。夢だから」

 わたしの脳に疑問符がおびただしく、ついには眼球すら疑問符マークになってしまったらしい。

 花華さんは少し困ったように口の端を上げた。


「辻褄が合わないのが夢というものよ。でも、滅多にあることじゃないの。私の気功は気を通わせて癒すだけ。ここで貴女とこうしてお話ができるのは、貴女の稀有(けう)な力のおかげよ」

 彼女の言葉に疑問符すら通り越して、(まなこ)を大きく開いてぼんやりとしてしまった。

 力? 

 口が自然に開く。


「わたしの力、ですか?」

「そう。貴女の力。でも今はあまり難しく考えないで、この時間を楽しみましょう。……何気なく憧れだったの。ガールズトーク」

 花華さんはそう言ってから、笑った。

 その笑顔には、やっぱり真紅の薔薇たちが満ちて開くような(あでに)やかさがあったけれど、飾り気のない素直なあどけなさもあって、思わず何度も(うなず)いてしまった。


 花華さんは色々な事を話してくれた。

 彼女の生まれ育ってきた経歴から始まって、瀬長島君の警護をするまでに至った経緯(いきさつ)から、台湾料理を美味しく仕上げる方法まで、とてもゆったりとした面持(おもも)ちで話してくれたので、彼女の話に耳を傾けているうちに、頬や肩に張っていた緊張が自然と(ほど)けていった。


 けれど、話の内容自体は壮絶の一言につきる。


 まず、彼女が生まれたのは台湾の売春街で、物心つく前に太極拳の師匠(せんせい)に買い取られたため、彼女は親の名前も顔も知らない。日常生活の(わずら)わしい物事を面倒に思っていた師匠(せんせい)は、彼女に拳法を丁寧に教えてくれたけれど、彼女が娼婦の娘であることを全く隠さなかった。


 このために彼女は、師匠(せんせい)のもとで共同生活を送っていた兄弟子たちから、壮絶な虐待を受けて育つ。ただ、彼らの全員が彼女を虐待したわけではない。一人だけ彼女を可愛がって大切にしてくれた兄弟子がいた。


 彼の名前は(しん)と言った。

 弟子たちの中では背も低く、当時は力もそこまで強くなかったため、花華さんを虐待する兄弟子たちを止めることはできなかったけれど、それでも極端なほど頑固に彼女を守ろうとし続けた。

「本当に馬鹿よねえ。いつも辛は、ぶるぶる震えながら私をかばって鬼畜たちに立ふさがってね、

『大兄たち、やめてください!!』て叫んで、もれなくぼろ雑巾みたいに痛めつけられるの。この人は本当に知恵が遅れてるんじゃないかとね、辛の惨めな様を見てたら思わずにはいられなかった。でも体は幼いうちから異常に頑丈な男だったから、私より怪我をしているのに、いつも私の手当てを先にしてくれていたの。馬鹿みたいに、『すまない、守れなくて、すまない』て男泣きしながらね」

 彼女はそこで言葉を切って、上空の太陽を眩しく見上げた。

「違うわ。馬鹿みたい、じゃなくて本物の馬鹿だわ。でも辛の馬鹿のおかげで、わたしはこうして生きている」

 恐ろしく悲惨な日々の事をとても上質な時間のように語る彼女の額の生え際から漆黒の髪が、陽を受けてまばゆく輝きながら、川向こうから高台を吹き上げてくる風に後方にたなびくのを眺めながら、思考は、早羅さんにどこかでつながる。


「貴女の騎士さんみたいな美形ではないわよ」

 花華さんは、くすぐったさを(こら)えるように笑いながら、小さく顔の前で手のひらを振り、その指は一本一本がすらりと長く、わたしはピアノ奏者を連想した。


 こんな感じで花華さんは、大切な思い出の写真を整理するみたいに(いとお)しげに、たくさんの出来事を語ってくれたのだけれど、そのどれもが壮絶過ぎてというより、縁遠い世界過ぎて、耳を傾けるということしかできなかった。

 けれど彼女の言葉を借りるのなら、夢であるので、多少の現実感の無さは推して知るべし、である。

 ちなみにその後の辛さんは、愚直に太極拳の鍛錬を積み続け晴れて世界最強の男になってから、兄弟子たちを全員殺害してアメリカに渡り、現在はマサチューセツ工科大学の大学教授をしているそうだ。彼が渡米する前に、花華さんは彼と共に師匠に挑んで見事撃破したらしい。

 師匠を超える事は弟子の報い得る最大の孝行らしいのだけれど、おかげで一人ぼっちになってしまった花華さんは、彼女をその強さごと受け止めてくれる強い男を求めて、傭兵の世界にその身を投じ、主に中東やアフリカの紛争地帯を巡り歩いた末に、台湾名物の濃厚マンゴーソースがたっぷりかかったカキ氷が恋しくなって、帰国した先の夜の屋台で、瀬長島君の親権者さんに一目ぼれしてそのまま彼の愛人になったという。

 そういう訳で今の生活には満足しているけれど、やはり強い男を探してしまうし、

 見つけたら襲わざるをえない、というのが彼女の主張だった。


「花華さん」

「ん?」

「強い人を探したい、ていうのはなんとなく分かります。けど、襲わざるを得ない、というのが分かりません」

「そう? 」

「はい。すごく分かりません。友達になる、じゃだめなんですか」

 別に道徳の教科書的な論理を振りかざしたいわけではなかった。

 むしろ、やはりこの時も早羅さんを想っていたのだ。

 花華さんはわたしを現実の世界で癒してくれている恩人である。とても優しく、魅力的という言葉では表せない、惹きつけられる物を持つ人だ。しかも彼女は、早羅さんと同じ、人に認識されないという孤独を抱えている。

 正直、彼女と現実でも親しくなりたい。

 でもそのためには、早羅さんとも親しくなってもらわなければならないのだ。つまり、皆で親しくなれれば、みんな幸せになる。最大多数の最大幸福が実現される、と彼女との短いようなとても長いような関わりの中で、本気で思っていた。

 後で思うと恥ずかしさを禁じえないほどの独善であるけれど、真剣にそう思ったし、同じくらい真剣に、真っ直ぐ花華さんの黒曜石みたいな瞳を覗き込んだ。

 花華さんの瞳の奥の暗緑色が微かに揺らいで、胸には期待がこみ上げたのだけれど、彼女はすぐに否定した。

「違うの。ただ貴女の清らかさに感動しただけ。それにね」

 彼女はそこで言葉を一度切って、吹き付ける風を吸い込んでから、続ける。

「現実の私は貴女との会話をそもそも認識すらしていない。貴女も目覚めたらおそらく忘れるでしょう。なぜならこれは夢だもの。何より、私が強い者を襲いたいと思う衝動は、性欲のようなものなの。

獣は生きるために獲物の肉を噛み裂くけれど、味わうために血を()める。それと同じ。これはどうしようもない快楽(もの)、なの」

 花華さんはそう言ってから、孤独に痛むように微笑んだ。

 その瞳は、慟哭(どうこく)を堪える少女のように、わずかに潤んでいた。

 

………


 話題は中華料理に移った。

 花華さんは、中華料理を美味しく仕上げる秘訣について色々語ってくれたのだけれど、その内容については正直あまり覚えていない。なんせ夢なのだ。記憶力を求めるには無理があるのが、夢というもので。ただ彼女が、わたしの独善の結果である、強者との友になれるか否かという暗い話題を、できるだけ明るくかつわたしの興味の持ちそうなものにと気をきかせて、変えてくれたことは分かった。


「横浜にね、青夫人という方が店を構えていてね、親しくさせていただいているの。あの方と知り合ったのは常盤平(ときわだいら)について来日した後だけれど、100点満点中80点だった私の料理のクンフーを、95点に変えてくれたのは、間違いなくあの人のご指導の賜物(たまもの)ね。この点だけでも、私に彼女を紹介してくれた常盤平には感謝している」

 常盤平さんは瀬長島君の叔父さんで、彼の親権者でもある。そして花華さんを愛人として囲うのみならず、瀬長島君の警護まで申し付けてしまうもの凄い人だ。凄すぎて想像の焦点が合わないけれど、とりあえず中国との国交正常化を果たした時の首相を思い浮かべていたのだが、花華さんの関係者に青夫人という方も出てきた時点で、聴き取りはいささか秩序を喪ったので、整理のために訊いてみる。

「花華さん」

「ん?」

「常盤平さんも青夫人も、普通の人ですか?」

「武の種類(くくり)で言えばだけど、彼らは普通よ。とてもか弱い。もちろん、わたしにとっては特別な存在たちだけど」

 花華さんは、警察官を指差してお(まわ)りさんと言う子供にうなずいてみせる母親みたいな表情をわたしに対して浮かべつつ、肯定してから続けた。


「貴女の騎士さまと違って、私は『見せること』ができるの。体力というか寿命も使うから、四六時中という訳にはいかないけれど、誰にでも認識されうる。私の『見えない』という(ごう)はクンフーの結果なの。貴女の(きしさま)とは現象は似てはいるけれど、因果は全く違うわ。だって、わたしはカメラに映るけれど、彼は鏡にも映らないでしょう?」

 そのとおりだった。

 早羅さんの姿は鏡にも夜のガラスにも映らない。誰よりも存在してくれているのに、世界から取り残されて、光からすらも完全にないものとして扱われている。

 その事に悲哀を覚える。それを覚えることすら失礼だとは分かっていても、それでも覚えてしまう。

 わたしは黙ったまま小さくうなずいた。

「そんな悲しい顔をしないで。彼は根本的に『見えない』から、貴女を守り抜けるのよ。私は無理。気功で人も癒せるし、呼吸で心のひだも読み解くことができるし、気配もこの世から消せるし、中華料理も95点な私だけれど、彼みたいに不動の心を貫くことはできない」

 

 ……嫉妬した。

 そう。嫉妬という言葉が適当だろうと思う。花華さんは、まるで全てを()る仙女みたいに、話す前から全てを知っている。訊きたいことや言いたい事も全て先回りして答えてくれる。だから、心を読めるという言葉も真実だろう。


 けれど彼女は心以外にも、好きとか嫌いとかそんな表面的な心の自由運動よりももっと大切な、本質を(ほど)くように悟っている気がするのだ。その本質は、わたしについての本質であるのはもちろんだけれど、何より早羅さんが抱えているものを表す。

 つまり、ずっとずっと知りたくても触れることすらどこか(はばか)られた答えを彼女は知っている気がしたし、そしてそれは見当外れではなかったと思う。

 泉に斧を落としたために女神と対峙するはめになった(きこり)のような面持ちで、必死に花華さんの際立って整った瞳を覗き込む。

「教えて下さい。早羅さんはわたしをどう思っているんですか?どうして思っているんですか?」

 出来るだけはっきりと伝わるようにこう言ったのだけれど、正直、心臓の鳴動の方が大迫力だったと思う。つまりわたしは緊張していた。


 緊張による心臓の鳴動によって、頬も耳たぶも血に熱くなり、夢の中であるにも関わらず眩暈(めまい)のような現実感の喪失を覚える。

 けれど、花華さんは優美に微笑んで、

「それは本当に乙女な問いね。これぞガールズトークという感じだけれど、第三者がそれに答えるのは無粋。……大切な物事はね、誰かに判断を頼っちゃ駄目なの。自分で考えて、たどり着きなさい」

 正論だった。しかし14歳の子供には厳しすぎる正論だった。そしてわたしは14歳であり、つまり泣きたくなったというより、視界が急速に水中みたいにかすれて熱くぼやけた。


「あらあら可哀そうに。お姫さまを泣かせるなんて、騎士さまも罪作りね」

 花華さんはそう言って、彼女の長い人差し指と親指を、両のまぶたに触れて閉じてくれたので、視界は暗闇に帰り、頬を雨だれが渡るみたいに、水滴が伝うのが分かった。


「でも、そうね。答えの片鱗(ごくわずか)なら、見せてあげる事ができる。私は私の無意識にしか過ぎないから、干渉(できること)には限りがあるけれど、見たい?おすすめはしないけれど」


 閉じた視界から鼓膜に響く彼女の言葉は、とても柔らかく美しさを覚えるほど優しく、言葉にできない不吉を覚えて、その不吉は喉のあたり一帯を硬くした。それは石みたいに。

「……貴女が首を横に振ったら、この(ばしょ)は泡と消え、意識は現実に浮かび戻る。もうそろそろ時間だし。それでも、片鱗(ごくわずか)を見る意志があるのなら、(まぶた)を開きなさい」

 

 花華さんの二つの指先の弾力がわたしの瞼の皮膚から離れた。

 わたしは目を開いた。


 ……上空に君臨していたはずの陽は川向こうの山々の連なりに傾いていた。

 慈悲を光に託して草たちやわたしや花華さんやおよそ世界にあまねく注いでいたその根源は、大地から膨らんだすがたのままで逆さに生まれ落ちた巨大なマグマか、または燃え尽きて大地に衝突する瞬きの時を切り取って身動きを取れなくさせてしまった線香花火の燃え尽きる最後の塊みたいになって、はちきれるのを待つように禍禍(まがまが)しい赤が渦巻きながら満ちていた。


 晴れ渡り()くような(あお)だったはずの空には、大地を飲み込むという神話の怪物(よるむがんど)のくねる腹みたいな立体感のある雲が、実際にはわたしたちの周りの風はぴたりと止んでしまっているのに、人の脳を蝕む回虫のような勢いで変形し増殖していた。


 その巨大に力と立体を与えていたのは、川向こうの山々を黄金(こがね)色に焼きながら渦巻く陽だった。陽は、大空と大地を圧する雲のみならず、わたしと花華さんをやはり黄金色に染めて、そして世界の、つまり清らかな蛇のように緩やかに川が吸い込まれて行く果ての先、山々の向こうに闇を満たし始めていた。

 胸に終末の予感が宿る。

 それは、静寂に代表される夜の開始ではなく、純粋な何かの終わりだった。陽は沈むのではなく、全てに幕を引くことを許すのだ。

 そして闇が世界を覆う。

 

 不意に眩暈がしたと思った。

 真横に世界が引っ張られるような慣性を三半規管が受容する。

 でもすぐにこれは大地が揺れているのだと分かった。

 響いたのだ。大地が。


 その響きと揺れの区別はわたしにはつかなかった。それほどまでに、その鳴動は轟轟(ごうごう)たるものだった。

 膝から草むらに崩れ前のめりに土に手をつく背中に体温を感じる。

 花華さんが、鶴が羽を交わすみたいに、後ろから抱きしめてくれていた。

「来るわ。目に焼き付けなさい。あれが貴女の授かった力で、避けることの(あた)わない運命(さだめ)、よ」


 高台のふもとを流れる川の()を、さざなみが川上に向かって逆さに渡った。

 それは小さな兆候(きざしで、その時はまだ川には黄昏があって、川は金色の蛇みたいだった。

 さざなみは高台を上空に吹きぬけるエメラルドの風みたいに、夕の日を純白に乱反射して、わたしは畏れの中で花嫁の衣装を連想したけれど、そんな美しさは初めの方だけで、その波の連なりは途切れを知らず、さざなみは波から勢いを増して濁流となり、川の金色は土を帯びた茶色に変わり、その流れは川の定めを超えてあふれ出し、高台のすそに吹き上がるように流れ始めた。


 濁流は暴なる大蛇となり、その色は茶から墨汁のような黒に変わって、勢いも増し、やがて高台の中腹まで浸してしまった。川が緩やかに永い年月をかけて作った平野や、平野を丸く覆う山々は、終末の招く闇と共に暗黒の洪水に浸され、途方も無い湖のように、世界は変わってしまった。

 

けれど、流れの姿をまとったその黒い巨大は、中腹を飲み込むだけで飽き足らず、物凄い勢いで世界を浸し高台の草たちを食みながら、わたしたちの足元に迫っていた。


「どう? 美しいでしょう。貴女はこれの(さなぎ)に過ぎないけれど、わたしは蝶も(さなぎ)も等しく尊いと思っている」

 耳にかかる花華さんの息の熱さに、酩酊(めいてい)を覚えた。

 黒いそれは既に川むかいだった場所にあった太陽さえ飲み込んで、上空の巨大だった雲たちすら、そのあふれる闇に飲み込んでしまっていた。そしてそれはわたしの膝の先まで上ってきて、わたしは初めてそれをじっくりと観る。

 その黒い海の水は、とても濃く細やかな砂でできていた。

 一つ一つの砂は、ビロードを成せるほど滑らかに黒く輝いていて宝石のようで、素直に美しいと思った。

「そう。これは美しいの。貴女と同じ位に。もう、時間ね。大分過ぎて、しまった。それでは、良い…生、……を……」

 わたしの耳にかかる花華さんの言葉は、後に行くほど小さく輪郭を喪ってしまった。

 それは、夢の中のわたしの意識と共に。


 

 ……海の底から浮かぶような感覚を覚えたと思ったら、 早羅さんの顔が視界を覆うように飛び込んできて、わたしは夢から醒めたことを悟った。


……… 


 2日間昏睡していたらしい。

 甲子園球場の内通路で倒れて、救急車で指定病院に運ばれて、丁度48の時間の後にHCUの個室で意識が戻った時、早羅さんはわたしに、おはよう、と言ってくれて、おはよう、と返した。

 早羅さんはいつも通りの早羅さんで、半円の綺麗なアーチを描く二重の黒めがちな瞳も、やはりいつもどおりに穏やかで温かな光を宿していた。


 そんな彼に安心してから、クリーム色の天井や壁で囲まれた四角い空間のあちらこちらに、花華さんの姿を探すけれど、もちろん痕跡すら見出すことが出来ない。

 当たり前である。中国の伝説の仙人である元始天尊ですら見つけられないと豪語する花華さんだ。去っても留まっていても、わたしなどに認識などできるはずがないのだ。それは寂しいことだけれど、感謝すべきことであった。何故なら……。

「早羅さん」

「ん」

「誰か来なかった?」


 早羅さんは、窓枠から斜めに差し込んで、乳房の横まで伸びた髪を照らす陽の光と、反対側の個室の入り口にその視線を投げる。

「誰も来ないね。逆に、今さっき君のお母さんが出て行った。用でも足しにいったんじゃないかな」

「そう」


 何故なら、現実の花華さんは、無意識の彼女と同じく、早羅さんとの戦闘を避けてくれたからだ。

 強い人を襲う衝動を性欲に例えた彼女のかすかに濡れた暗緑色の瞳を思い出して、小さく眉をひそめる。

 何故、上から目線で平和主義者などを気取ってしまったのだろう。あれだけ優しい人なのだ。平和を望んでも襲わざるを得ないそういう物を抱えている彼女を、責めてしまった。

 心に沈痛を覚える。何より心を沈ませるのは、あの人はわたしとの時間を覚えていないという、事実だ。

 彼女の予想に反して、わたしは彼女との(じかん)を覚えている。わたしだけが覚えている。その事、置き去りにされた、という感覚を覚えさせた。

 もちろん早羅さんがいてくれるから、独りではない。けれど、置き去りにされたのだ。

 だって、花華さんは、あの黒の砂の海を見せて、それを片鱗(ほんのわずか)とだけ表現して去って行った。授かった力とか避けようの無い運命とか、胸の中の至るところに引っかかる何かを残して、彼女は行ってしまった。

 もっと聴きたかった。というより、本質を知る花華さんからの励ましや慰めの言葉を欲していた。でも無意識な花華さんの予想は、わたしも忘れる、ということだったので、見事にはずれたのは不幸な事実でしかない。かい間見た本質の正体を、おそらく早羅さんも知っているだろうと思ったし、それは間違いではなかったけれど、彼に訊く事はできなかった。

 何故ならそれはこの冬、15歳になった暁に、教えてもらう約束の内容と重複しているだろうし、何より、早羅さんに花華さんのことを話す事はできなかった。

 

 彼はとても警戒して緊張していた。警戒の対象は花華さんだろう。彼女は誰にも見えないし、その事を(さわらさん)も知っている。それにもし、無防備、いや彼に無防備な時があるのかどうか定かではない。

 けれど、とにかく無防備に近い状態、の時に昏睡していたわたしが目覚めたら、彼はおそらくとても喜んでくれたと思う。見た目一歳年上な少年の頬を紅く上気させて、もっと声のトーンもこんな穏やかで落ち着いてはいないはずだ。

 ただこういう心の微妙なおもむきは、彼と長年共に過ごしたわたしくらいしか分からないのだろう。この事実は嬉しい。だからこそ、本質を知るだろう花華さんに嫉妬したのだ。でも彼女は、嫉妬などどこふく風であり、早羅さんの警戒と緊張などもやはり全く気にかけなかったということを、神戸から実家に戻ってきた後で知った。


 …わたしが目覚める30分前に、病院の監視カメラの制御系統が何者かに乗っ取られた。

 そして手術室を除く院内の全てのカメラが『映らなく』なった。

 それからすぐにHCUの患者、わたしのいた病室の2つ隣の老人、が息を引き取った。

 次にICUに入室している患者たちの半分が、一分刻みで息を引き取って行き、続けて4階の脳外科病棟、5階の外科病棟で昏睡している患者たちの七割が次々と心肺停止に陥っていった。担当医を呼ぶ通話が院内に駆け巡り。母が席をはずしたのは用を足すためではなく、おびただしい死にどよめく病院全体の空気に、何か違うものを感じたからだろう。

 

 早羅さんは瞼を閉じたわたしから離れなかった。彼も異常を感じたはずだ。病院の患者たちを殺して回っている何者かがいる。そしてそれは十中八九、花華さんなのだ。駆けずりまわる青の医師服たち、薄いピンクのナース服たちの足音は、感覚の強い早羅さんには手に取るようだったろうし、だからこそ、花びらを振りまくように、死を撒き散らす花華さんの足取りも、やはり彼の頭の中ではつぶさに再生されたに違いない。それでも彼は動かなかった。花華さんが誘っている、と思ったからだ。


 彼女の足取りが途絶えると、HCUには静寂が訪れた。

 看護師たちはICUへの応援に駆り出されていた。早羅さんは警戒を強める。寝息を立てるわたしと、心電図、脈動を映し出すモニターに集中する。わたしに何らかの変化があれば、そこに(ふぁふぁさん)がいるからだ。花華さんは、その時確かにベッドをはさんで、彼の前に立っていたのだけれど、全く早羅さんに認識されることなく、わたしを癒して立ち去った。

 

 ちなみに目覚めの後で、院内ではもう一騒ぎがあった。

 HCU、ICU、4階と5階の各病棟に加えて、6階の小児科それと7階の産婦人科の、全ての意識不明の患者たちが、意識を回復したのだ。

 患者たちの家族たち及び看護師たちが飲む息や、担当医師を呼ぶたくさんの声は、欧米の祝祭で撃たれる祝砲のように次々と発生したし、その発生の軌跡が花華さんの足取りであることも、早羅さんは知っていた。けれど彼は動かなかった。わたしを守るためである。


 これを読む人は花華さんの行動がちょっと分からないと思う。実のところわたしもだけれど。あの(ばしょ)で話した花華さんを思い返せば、彼女の意図はなんとなく分かる気がする。

 花華さんは治療をしたかった。そのために早羅さんとの戦闘は避けたかった。

 しかも彼は花華さんにとっては、血を味わいたい獲物である。なので心置きなく治療に集中するためにも、席を外して欲しい。

 ということで、彼をおびき寄せるべく、『起きる見込みのない植物たち』の命を詰んで回った。

 けれど彼は誘いにはのらなかったので、諦めて多分肩をすくめたりしてから、治療をした。

 わたしは起きた。花華さんは、夢の中でしたみたいに、微笑んでくれたと思う。それから早羅さんの前を堂々と歩いて病室を出て、監視カメラの制御系統を復旧しに警備室に向かおうとして、立ち止まる。植物たちを枯らしながら、診て回った『人に戻る見込みのある植物たち』に、何となく後ろ髪を引かれたのだ。彼女は、全員を治療つまり起こして回ることにして、実際全員の意識を回復してみせた…ということなのだろう。

 

 なんというか、花華さんは生と死を司る女神のような人だ。もの凄く怖いけれど、同じくらい優しい。 機会があればもう一度会いたいし、あの(じかん)についても彼女に話したいのだけれど。早羅さんにとっては、彼女は精神的外傷(とらうま)以外の何物でもなく。加えて昏睡の原因は、早羅さんをかばって彼女の前に出た時に受けた殺気なのだ。

 それが心臓にきたのだと、早羅さんは後日説明してくれた。似たような力を持つ知り合いがいるらしい。

「防人が器様に救われました。そして死の淵を防げませんでした。この座敷童は防人失格です」

 説明の後で早羅さんは厳かに両膝と両手を床について、額もフローリングの木目になすりつけた。

 その仕草は静かで、とても早羅さんらしい品があったのだけれど、肩が小刻みに震えていたので、色々な感情を(こら)えているのが分かった。

 

 彼の前にしゃがみ込んでしばらくちょっと可愛らしいつむじを眺める。

 黒い砂の海について、わたしの避けることができない、つまり避けたいけれど避けれない運命について、訊きたい衝動をとても強く覚えたのだけれど、彼の肩の震えが視界に入って結局訊けなかった。

 代わりに彼の柔らかな両手を、わたしの両手で取って、顔を上げてもらい、正座の姿勢を取る彼の膝の上に乗って、鶴が羽を交わすみたいに、彼の上半身を抱きしめる。

 それは、ちょっと向きが逆だけど、花華さんがわたしにしてくれたみたいに。

 けれど彼女と違って、何も話せず、何も訊けなかった。

 

 そしてそのまま夏は終わり秋が来て、木の葉が色づいたと思ったら、あっという間に冬になった。

 つまり、わたしは15歳の誕生日を迎えた。

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