凶暴な彼の後ろ姿がこんなに弱々しく見えた事はない。けれど、そんなことで揺らぐくらいなら、わたしは初めから、恋などしていません‼
その年は、わたしの高校の野球部が奮闘をして地区予選を勝ち抜き、夏の甲子園に出場を果たした。
これはステータスを知力に全振りのわが校にしては、とても珍しいことだ。
地区予選を勝ち抜いた時は授業の関係で応援には行けなかったけれど、早羅さんにお願いをしてラジオをイヤホンで聴いてもらっていたので、授業中に彼が
「勝ったよ」
と言った時、わたしは
「おお! 」
と一人小さく叫んで、クラスの注目を集めてしまった。
人間は基本お祭り騒ぎが好きなもので、わたしも多分に漏れない。
しかもその騒ぎの原因が精一杯頑張った成果なら、なおさら胸の底がくすぐったくなるような、素敵な何かを感じるし、この高揚や一体感がいつまでも続いてくれたらなあ、と何となく思ったりする。
まあ、この高校は知力に全振りなので、生徒たちの関心も学術方面に集中しているため、汗やら熱気やら思い込んだら一直線に星を見上げるような人々に対する目は、温かいものばかりではなく、冷ややかな人も多い。
……わたしもどちらかというと、冷ややか組に見られがちであるけれども、ちょっと夜中にこっそり出向いて早羅さんに手伝ってもらって、白地に黒の筆致で描かれた甲子園出場の垂れ幕に、ピンクの花柄を足したりするくらいには、熱かったりする。
まあ、そういうわけで夏休みに突入し、全校応援に備えて制服やら着替えのジャージやらハーフパンツやら保険証の写しやら汗ふきシートやらタオルやら洗面用具やら雨用の折りたたみ傘をバッグに詰め込んでいる時に、早羅さんが学校配布の応援グッズである黄色のメガホンをぱこぱこしながら言った。
「これ、いいなあ」
なので、欲しいかと訊くと笑顔で否定される。
「おもちゃとして欲しいとかじゃないんだ。応援したいという想いが形状に詰まっているというか、さ」
「前もって言っておくけど。わたし、ホームランが出たりしたら、それ全力で振るから。想いに想いをめちゃくちゃ乗せるから。びっくりしないでね」
力こぶしを作るわたしに、早羅さんは、ははは、と笑った。
「幸せだね。野球部の丸刈り坊主君たちは。紗愛ちゃんとそこまで想いあえるなんて」
……意味がわからず、きょとんとして、首を傾げる。
と、彼は苦笑して首を横に小さく振った。
「特に意味は無いよ」
と言いながら、座敷童さんは窓を開けて、窓枠の向こうの青空と、綿菓子みたいに立ち上る遠くの入道雲に視線を投げる。
「……夏は、大気が濃いね」
と穏やかに言ってから、眩しそうに眼を細めた。
深夜バスで赴いた甲子園球場は、やはり天下の甲子園だけあって、道行く生徒たちみんなどこの高校も、それぞれの譲れない想いをその面立ちに滲ませていた。
― おおおお……!! ―
球場を包む真夏の炎天の陽気にも、よく分からない気合も覚えつつ人類が死滅して数百年経ったという説明にでも使われそうな蔓や蔦にまみれた壁面を、クラスの子たちから外れて見上げる。
「やあ、久しぶりだね」
20mほど後方から声がかかった。
中年の七三分けの教師、だろうか。
黒ズボンに白のワイシャツ。
左手でクリーム色のハンカチで汗でてかったをぬぐいながら、こちらに右手を振ってくる。
黒ぶちメガネの奥の瞳が穏やかだった。
― 中学の先生、かな? でもなんで… ―
「千骸さん? 」
早羅さんが驚いていた。
その教師に向き直ってから、真っすぐ彼を見て、顔をくしゃくしゃにして笑った。
そんな彼を見るのは初めてだった。
無邪気というのか。
15歳の少年に見える32歳ではなく、本当の15歳のように笑う姿に驚きと、胸のどこかに複雑を覚えた。
加えて、この唐突の出来事と球場を包みつつある熱気の予感、慣れない深夜バスの寝不足とか、そういう全てに当てられて、風景が歪みかけた。
けれど、ここで立ちくらみとか起こしたら恥ずかしいと思い、耐える。
― この先生は。早羅さんが見えて、彼もこの人を知っている。つまり、『村の人』なのだろう。―
早羅さんが千骸さんと呼んだその先生は、足早に早羅さんのもとに来て、彼の両肩をわしっとつかみ、
「頑張っているね」
と、瞳と同じくらい穏やかな声でそう言ってから、何度もうなずく。
まるで大成した卒業生の訪問に感極まる恩師みたいだ。
それから、わたしの視線に気づき、
こちらに向き直って、涙ぐむ。それから、
「器様、お久しぶりでございます」
と言って姿勢を正し、深く一礼してきた。
…………
千骸さんは顔を上げて、額の汗や目元に溢れる涙をハンカチで忙しくぬぐってから、ぶちメガネの向こうの穏やかな瞳のまなじりをさげ、口角を上げる。
「応援でこられたのですか?」
との彼の問いに思わず姿勢を正して
「あ、はい」
と答える。
隣で、早羅さんが首を傾げる。
「千骸さんも、応援ですか?」
「ああ、うん。暑いのに迷惑なことだよ」
恩師さんは一旦言葉を切って、目をしょぼしょぼさせる。
「うちの馬鹿校長が金にものいわせて、花形選手を他校から引き抜きまくりましてね。本当にいい迷惑ですよ。案件なので文句も言えませんが、夏休みくらい団扇片手に西瓜氷菓をかじっていたいですよねえ。甲子園はテレビで眺めるものです。しかし……」
そこで彼は言葉を切って、まじまじと見てきたので、戸惑いを覚える。
なんせこの人は初めてお会いする早羅さん以外の村人、なのだ。
「何か?」
首を傾げると、千骸さんは再び口角を上げた。
「早羅君は器様をちゃんとお守りしているのですね。安心しました」
「結構いつもひやひやしていますよ」
困ったように笑いながら茶々を入れる早羅さんに、村人さんは視線を移す。
「大丈夫だよ。器様はのびやかに育たれている。君の仕事が丁寧な証だ」
「ありがたいお言葉です」
「しかし、危なかった」
ため息交じりに言う千骸さんに、早羅さんの頬が硬直する。
「……どういうことですか? 」
「今ね、案件の流れで護衛している男の子に、ね。ほら、あの子だよ」
村人さんは肩越しに振り返り、後方30mで列を成す高校生たちの集団を指さす。
1人。
とても背が高い男の子が歩いている。
黒髪が陽を受けてきらきらしている。
真っすぐで長い眉も、凛々しいという言葉がぴたりと当てはまる涼やかな瞳も、端正な鼻も口元も、彼の周りだけ、陽の輝き方が違う、錯覚。
レオナルドダヴィンチが聖堂の天井に描いたキリストとか、ミケランジェロのダヴィデ像とかを彷彿とさせられる、完璧に近い目鼻立ち。
― あの男の子の方が、村の人っぽい。 ―
「ああ、はい」
早羅さんがうなずくと同時に、千骸さんがほほ笑んだ。
「浮世離れって言葉が似合う子だろう。まだ無力な雛なんだけどね、僕の勘だと彼は強くなる」
「普通の子供にしか見えませんけどね」
早羅さんの声が冷たい。
「今はね。そして、このままならね。けれど、彼は強くなるよ。境間君と並ぶくらいの強者になると思う。彼の名前は瀬長島優という。覚えておいて損は無いよ」
境間さんという名前を初めてきいたのだけれど、おそらくとても強い人なのだろう。
早羅さんが二重の瞳を大きく見開いて、あまり見ない感じの驚き方をしたので、そう思った。
「あの子の親権者が権力者でね。彼の依頼であの子を護衛しているんだけどね。いつもはもう1人、付いている。今日は幸い、いないけどね。花華さんという台湾の武人で。この人が、本当に危ないんだ」
「というと」
「村人ではないのに、村人並みの強さを誇る。純粋な戦闘なら、大抵の村人は敵わないだろうね。あの人は化け物だよ。因果も無しに、武術の鍛練だけであそこまでなれるってのは、本当に世の中は広い」
「……」
早羅さんは沈黙して、美しい顔をしかめた。
千骸さんは両手のひらを彼に向けて、眉に否定をこめて笑う。
「いや、器様に危険はないんだよ。彼女は弱者に興味を抱かないからね。強者にだけ恍惚と殺戮の衝動を覚えるらしい。おえらいさんが止めてくれているから、今のところ僕は無事だけど。護衛の契約が切れたら、間違いなく襲ってくるだろうなあ。実のところ、僕は契約の前に一度殺されかけててね。その際に手の内も明かされた。あれはきつい。しかも、契約切れを待ってるんだろうなあ。毎日、舌なめずりするみたいに、うっとりと僕を見て来るんだ。しかも絶世という言葉が似合う恐ろしいほどの美人だからね。これもきつい」
千骸さんは身をよじる仕草をした。
苦し気であり、また、嬉し気である。
早羅さんはしかめた眉を変えない。
「……千骸さんでも、手こずりそうですか?」
「手こずれるのなら、善戦だろうね。やり合ったら歯が立たないよ。鍛錬の末に神速と不可知の能力を修めた人だ。彼女は普通のヒトには見えないんだ。一定以上の強者にしか見えない。この能力は君に似ているけれど、彼女は更に異質でね。本気になったら強者にも認識しようがない。そして彼女は強者を襲う」
千骸さんの声のトーンが低くなる。
それだけで、背筋が真夏の熱気を忘れて、とても寒くなった。
早羅さんは顔をしかめたままで、村人さんに
「ということは」
と短く尋ね、千骸さんはゆっくりとうなずいた。
数学の教師が生徒に正解をつたえるような、肯定のうなずきだった。
「そう。君と彼女が鉢合わせたら、もれなく襲ってくる。彼女は強いから、君の因果は効かないね。そして彼女の能力は君に効く。しかも村人並みの怪力と、麒麟を遥かに超える神速というおまけ付きでね」
「それは……器様の安全のためにも、摘まないといけませんね」
早羅さんの声がとても低い。
彼の姿に警戒の姿勢を取る獣が重なる。
なぜかわたし達のまわりだけ、甲子園な感じがしない。
「僕でもだけど、君でも勝負にすらならないよ。それにあの人自体は器様の安全に差し障りない。村人ではないから器様の因果は効かないが、その分興味もひかないからね。それに、花華さんは戦闘以外では優しく誇り高い人なんだ。器様に迷惑がかからない場所とかには、気を使ってくれるだろう。けれど」
なだめるようにそこまで言ってから、千骸さんは一度言葉を切って。
「……防人が死ぬのは良くない。まあ、なんとかするよ」
と言った。
その時、せんせーい、と、瀬長島君がいた列から女の子が声を上げて、千骸さんに手を大きく振ったので、村人さんは彼女に小さく振り返って、小さく手を振った。
「もう行かないと。それじゃ、また。……器様、御機嫌よう」
千骸さんはそう言って、深く一礼をして、彼の生徒たちの列に戻って行った。
その列が入り口に吸い込まれて行って消えた後も、早羅さんはそこを見つめ続けた。
眉をひそめて、歯を食いしばる。
こめかみに植物の葉脈みたいに血管が浮きだっていて。
そんな彼の表情を見るのは初めてだったので、
「早羅さん」
「うん?」
「怒ってるの? 顔、怖い」
とか、訊いてしまったのだけど、彼はきょとんとした。
それから、困ったようにほほ笑む。
「ああ。違うんだ。僕は今」
そこで一度言葉を切る。
瞳に迷いを浮かべて、沈黙。
こんな彼も初めてだ。
「……怖がってた。千骸さんは強い村人だからね。彼が、僕が死ぬっていうことは、本当に死ぬんだ。死んだら、君を守れないから。それは、避けたい」
長いまつ毛を伏せて言う彼に、胸の奥が抉れる。
けれど、早羅さんはすっかり、いつもに戻っていて、言葉を失うわたしに、柔らかくほほ笑んでくれた。上空から注ぐ陽に夏が戻った気がした。
「行こうか。クラスのみんなが不思議がる」
「うん」
彼が手を差し出してくれたので、わたしは彼の手を取って、気がつく。
わたしの手は震えていた。
夏の陽は戻ったのに。
未知の恐怖が、去らない。
………
高校の試合が始まるまで時間があったので、1塁アルプス席中階の端に腰を下ろしつつ、台形の四隅を丸く切り取ったような球場の景色を見渡した。
球児用のお土産グッズと化している甲子園の黒土を囲んで広がるグリーンが陽を受けて輝いている。
相手校も順々に着席して、芝生の向こうの席も埋まりつつある。
千骸さんは、今日はいない、と言っていてくれたけれど、とにかく不安で、目がどこかを探してしまい、とても挙動不審になっていたのだろう。
隣の子たちに、大丈夫? と何回か訊かれた。
― 大丈夫ではない、けれど。説明がつかない。 ―
それはそうである。
見えない連れが、見えない人に狙われるかもしれない、とか、……暑さでおかしくなったのかと思われる。
実際おかしくなりそうなほど日光はきつい。
日よけのキャップをかぶっても、布の上からじりじりと髪や肌が焼かれる感覚を覚える。
「トイレ、行ってくるね」
緊張のせいか尿意を覚えたので、隣の子にそう言って席から立ち上がり、連絡階段を下りて連絡通路の日陰に入り、日光からの解放を少しだけ感じた。
そのまま内野2階のトイレに向かう。
壁も天井も白い通路は応援の高校生や、球児たちの家族、観客でにぎわっている。
「引き返そう」
早羅さんが静かに言った。
声が張りつめている。
― え。 ―
「前を見てはいけない」
と言った彼の声が鼓膜に届くのと。
その女の人と目が合うのは、ちょうど同じ刹那だった。
トイレから出てきた彼女の背はとても高い。
脚も腕も長くて、豊穣といえるほど豊かな胸の下のウエストのラインが描く無駄の無いラインを、真夏なのに、黒のタイトスーツがぴっちり覆っている。
スーツの奥の白のYシャツの第一ボタンは外されていて、そこからのぞく鎖骨のくぼみはくっきりとしており、少しだけ地黒だけど陶器のように滑らかな肌は汗にわずかにてかっていた。
つやつやとした黒髪は肩の上まで伸びたショートカットで、高い身長に関わらず、彼女の丸顔はわたしより小さい。長い眉と同じく長いまつげの下の瞳は黒目がちだけど、目じりがわずかに上がっているので、きつい印象を受ける。
唇は厚く、雌の肉食獣のような色気をかもしている。
その唇が、開いた。
「你好。你會說閩南語?我不知道如果這些英文好?」
球場の雑踏の中でもその声は不思議とよく通った。
抑揚の激しさで有名な中国語にしては、彼女の発音はとても穏やかなものだったけれど。
わたしは、ニーハオしか分からなかった。
早羅さんは分かったのだろうか?
分からない。
彼を見る事ができなかった。
視線が動かせない。
彼女の動きに特別なものは無かったはずなのに、 背筋がざわざわして、行き交う人の流れが急にスローモーションになるような錯覚を覚える。
大型の肉食獣に、衝立なしに対峙する感覚。
危機感ではない。
もっと非現実的な何かだ。
昔、早羅さんと土手で見た土佐犬が、とても可愛らしい哺乳類に思えるような、圧倒的な何かだった。
― ヒト、に、思えない。こんな綺麗なヒト、なのに。 ―
「やっぱり国際交流のために一番便利なのは英語よね?初めまして。わたしは花華と言うの。台湾人よ」
わたしの硬直などお構いなしに、彼女は再び唇を開いて、上記の意味の英語を話した。
その発音は滑らかで淀みなく、リスニングのテープでも聴いているような錯覚を覚える。
けれど、英語なら会話は成り立つと分かったので、それで返事をすることにした。
千骸さんから、彼女が、遭ってはいけない人、だと先ほど聞いたばかりなのに、いきなり出くわしてしまった。
けれども、話かけてくれている。
つまり、彼女は会話を求めている。
― そう。会話が続くうちは、まだ。大丈夫、なはず。 ―
「わたしの名前は朱森紗愛です」
上ずる声で、やっとそう発音したわたしに、花華さんは、くすっと笑った。
「貴女は礼儀正しいのね。礼儀正しい女の子は好きよ。不思議な女の子も好き。貴女は強くは見えないけれど、わたしを見る事ができるのね。強者しか私を見る事は出来ないのに、それができる。何故?それとも私が分からないくらい、あなたは強いの?」
この問いかけの時、花華さんの虹彩が急に密度を増した気がした。
黒曜石の闇に飲み込まれるような錯覚。
とても異質な圧迫に、肺が呼吸を潰されていく。
早羅さんの背が視界に現れて、呪縛が解ける。
肉食獣さんに立ちふさがってくれる彼のおかげで、呼吸が回復し、心臓がバクバク脈打つ。
瞳は涙目になる。
おそらく、首を絞められて、解放されたら、こんな感じになるのかもしれない。
14の夏には彼の背を5cmほど越してしまっていたわたしだけれど、彼の背はとても大きく見えて、
ふと、11歳の初シャワー熱湯事件を思い出した。
そう。
彼は身を挺して、花華さんの圧力から、わたしを守ってくれている。
けれど、平気な訳はないのだ。
だって、他人には絶対に震えない彼の肩が、わずかだけれど、震えている。
そんな彼に、花華さんはきょとんとして、それから柔らかく口角を上げた。
「あら、ごめんなさい。貴方を無視するつもりはなかったの。彼女が興味深すぎるから後回しにしてしまった。勘違いしないでね。嬉しいの。わたしの存在を認識できる人が2人もいるのよ。今日は幸せな日だわ。仕事を早く終わらせてここに来て良かった」
幸福の絶頂が、招待客にブーケをほおる純白の花嫁だとしたら、花華さんは、誰よりもその花嫁だった。
ブーケと共に胸元に祝福と幸福を抱えて、感動に頬を赤らめるそのたたずまいは、とても美しい。。
彼女は、うっとりと涙ぐみながら、すらっと長い人差し指をクの字に曲げて、目じりをぬぐう。
その仕草に、可憐という言葉が脳裏に浮かんだ。
「もう少しこの幸せを噛みしめたいけれど…。貴方はわたしと戦闘をしたいの?殺気がすごいわよ?でも恥ずかしがらないでいいわ。せっかちな人は嫌いではないというより、むしろ好きなの」
花華さんは艶やかに笑った。
真紅の花を無数に咲き乱すような、そんな笑い方だった。
背筋や、腰、陰部がしびれるような、感覚。
あれを色気と言わずして、何を色気と言うのか分からない。
女のわたしですらそう感じたのだから、早羅さんはいかほどだろうか?
また、彼は何を思ったのか?
その表情は見えず、後ろ髪しか見えなかったけれど、
彼の二の腕が、ビキっ!!!!と筋張った刹那。
その腕を両手でつかんでいた。
力いっぱい、必死に。
千骸さんの、『防人が死ぬのは良くない』という言葉を思い出す。
― 今、放したら、多分もう、生きている彼を、見ることはできない。―
「止めてください!」
それしか言えなかった。
それだけを、必死に呼びかける。
甲子園球場の内階通路の2人に。
花華さんは、きょとんとして、早羅さんの頭ごしに、こちらを見て、
「何故?その気なのは彼なのに」
と首を傾げる。
その問いに答える前に、とても優しくほほ笑む。
それから聞き分けのない子供を諭すみたいに、
「貴方は可愛い女の子ね。強者ではないのにわたしを見ることが出来るし、特別な能力を持つみたいだけど、それは戦いたいと思う能力ではない。貴女が弱者であることは分かった。だから、貴女を殺すつもりはないわ。ただ、興味があるだけ。貴方は彼の事を心配しているけれど、大丈夫。結果が決まっている戦闘などあり得ない。彼が勝つかもしれないし、私が勝つかもしれない。それは花占いみたいなものなの」
と言いながら、ゆっくりとわたし達に歩いてくる。
散歩でもしてるみたいだ。
その間のわたしはというと、必死に早羅さんの腕を両手で握り続けることしかできなかった。
でも、それは、ずるい、ことだったと後で思う。
防人さんは器様の希望を妨げてはならないのだ。
彼は腕を振り払えない。
そんな彼の葛藤や苦悶などどこふく風で、花華さんは、わたし達の前1mまできてしまった。
「……若作りの騎士様、ここでしますか?」
にっこりと笑顔を作って、彼女は早羅さんに首を傾げ、早羅さんは彼女を見上げる。
「僕は彼女を守っている。これは僕の特殊任務だ。僕が君に攻撃されたら、組織は任務妨害と見なして、君と君に関係する人たちを殺すだろう。例えば、瀬長島優とかを、襲う」
彼の声に、感情は無かった。
映画とかで駆け引きのシーンに使われそうな抑揚も何もなく、その抑揚の無さが、彼のその言葉が真実であることを告げていた。
千骸さんが指さした長い列でひと際目立っていた瀬長島優という男の子の、きらきらした黒髪と涼やかな瞳を思い出す。
さっきまで、わたしたちはあの彼の近くにいて、彼を眺めていて、甲子園球場だった。
― あの男の子を、襲う、の…!? ―
花華さんが眉をひそめた。
それは、わずかなひそめ方だったけれど、口元から微笑みが消えた彼女は、思わず魅入られるほど美しく、そして……。
「なるほど。お前はあの男の関係か。面白いことをお前は言うのだな」
恐ろしい。
わたしは彼女の虹彩から、暴風のようなものを感じた。
それは圧迫ですらない。
わたしの周囲から、酸素や温度を急激に奪う。
そして、代わりにはっきりとした質感すら感じる、恐怖、でわたしの肺や気道や胃や小腸や大腸や心房や心室や子宮や脊髄の隙間や口腔を満たしていく。
両膝の関節がぐにゃりと硬度を失う感覚。
立ってすらいられな…。
「やめてください…!!お願い…!!」
わたしは早羅さんの手を放して、花華さんの前に立ちふさがっていた。
彼女はこの時何を思ったのか分からない。
けれど、驚いたのはたしかだろう。
彼女のくっきりとした黒曜石のように黒めがちな瞳は、大きくなった。
同じ刹那に、恐怖の呪縛が通路から解けて、空気中に酸素と温度が回復した。
でもこちらは、もうほとんどパニック状態だったので、酸素や温度がどうこう言うより、もう、必死の極みだったのだ。
そんなわたしに、花華さんは、くすっ、と笑って。
「貴女は可憐な子ね。いいわ。貴女に免じて見逃してあげる。とても彼が好きなのね。彼との比武の魅力、天秤の傾き方はとても微妙だけど、つまり、後ろ髪は引かれるけれど。誇りに思いなさい。彼の命を救ってあげる。もうそろそろ行くわね。わたしは優を眺めに来たの。お姫様と騎士様、また会いましょうね」
とても柔らかく、優しくほほ笑みながら、そう言い終わるか終わらないかの刹那に、花華さんの姿は、球場の通路の景色に溶けるみたいに消えてしまった。
そして、視界は白く消失する。