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彼は怪異ですが、このお話はホラーではありません。わたしの大切な、とても大切な恋のお話です。

 吹き上げる海風に髪を乱されながら、切り立った断崖(だんがい)に立って下を眺める。


 足元からはるか下の海面に、黒土にまみれたジャガイモみたいな形の大小の岩たちが顔を出していた。

 そこに波が白い飛沫(しぶき)をあげながら寄せている。

 わたしは、教育番組でずっと前に観た切り絵や、日本の昔話という絵本調のアニメーションを連想する。


 潮騒の音が小豆を研ぐみたいに一定のリズムを刻んでいた。

 いや、小豆をといだことなどないのだけど、まあそんな雰囲気としてとらえていただけると助かる。


 で、そのリズムに(いざな)われるように崖から飛ぶ。

 すると、一瞬重力を忘れたように、ふわっと海風に浮いた体は、崖下の濃い青の波面やジャガイモ色の岩に向かって自由落下を始めた。


 ここまではとても自然な物理法則に沿っていると思うので、文章の上手(うま)い下手はおいておいて、それなりに分かりやすいと思う。


 要は、崖から飛んで、はるか下の海面やら岩やらに激突すべく落下しているという、ただそれだけの話なのだ。


 けど、異常なのは、わたしの隣を崖の壁面を海面に向かって全力疾走する、早羅(さわら)さんだ。



紗愛(さあ)ちゃん何やってんですかああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 彼はわたしを瞬く間に追い越し、崖下に駆け抜けた。

 そして、羽毛布団よりも優しく、わたしを受け止めた。


 わたしの命は彼によって守られた。

 それが、早羅さんという防人(さきもり)の仕事である。

 それにしても崖を全力で走れるとか、怪奇以外の何物でもない。

 そもそも早羅(さわら)さんの存在自体が怪奇なのだ。



 ……わたし、朱森紗愛(あかねもりさあ)は怪奇でも何でもない、極平凡な父と母のもとに生まれた。

 今はITソリューションとかいう意味のよく分からない分野の会社を経営して、バブル崩壊の荒波を乗り越えて注目のベンチャー企業10選とかいう雑誌の記事に顔写真が載るような父も、まだシュッとしていて、母と白菜鍋とかを食べていた頃。

 

 早羅さんは1ルームアパートの片隅の赤ちゃんベッドの柵の中で、はいはいをするわたしに、ひたすら、いないいないばぁ、をしていた。


 それが、彼についての一番古い記憶である。


 ちなみに彼は父とも母とも何の縁もゆかりもないし、なんと知人ですらない。

 そんな人が物心つく前からわたし達と住んでいる。

 これを読む人は訳が分からないと思うけれど、書いているわたしが一番わけがわからない。

 つまり、父も母も目の前の早羅さんの存在に全く気付かないのだ。


 ちなみに早羅さんはお化けでも、わたしの妄想でもない。

 ちゃんと皿の上のおかずもつまむしお茶碗も洗うし、朝の洗顔では隣でタオルをくれる。

 だから、おかずは減るしお茶碗は綺麗になるし、タオルだって濡れる。

 けれど、早羅さんのそういう全ての行動を、父も母も認識しないのだ。

 これは怪奇である。

 

 わたしだけが、早羅さんがいる事が分かるし、していることも目に映るのだけれど、

 他の誰も、彼が見えないので、

 ― 正確には見えているのだけれど、認知されないらしい。―

 彼と話しているわたしは空っぽの空中に話しかける可哀想な子に見えていたらしい。


 実際、わたしが小学に入りたてのころ、母親に精神科に連れていかれて検査を受けさせられる、という事があった。


 IQ検査に面談、性格検査で1日かかった3週間後の結果発表。


 講談を打つ医者は落語師に見えた、

「とてもIQの高いお子さんです。想像力が豊かなのでしょう。ただ、こういうことは自然に治まりますから、無理に辞めさせようとして、怒ったりしないで、温かく見守って下さいね」

 とありがたいのだかありがたくないのだかよく分からない御託を聴いた時、わたしは隣にしゃがみ込む早羅さんを見た。


 彼は困ったみたいに笑って、

「仕方がないよ。僕のご先祖様は座敷童(ざしきわらし)だし、座敷童はヒトの目には映らないんだ」

 と言った。


 この時わたしは、何か、早羅さんごと世の中から馬鹿にされて無視をされているような、不快と怒りを覚えた。

 けれど、自分で言うのもなんだけれど、物分かりがいいわたしは次の日から、人がいる場所で早羅(さわら)さんと話したいときは、彼を見ないで、できるだけ声を抑えてつぶやくことにした。


 どこにいても、何をしていても、早羅さんはわたしの声をちゃんと聴いてくれるので、これが正解だったのだろう。


 まあ、結果としては、空中に話しかける可哀想な子から、独り言をぶつぶつ呟く暗い子、に周囲の評価が変わっただけだけど、それでも、である。


 早羅さんと話す事で周りがわたしを変な目で見て、そのことで彼が心を痛めるよりは、100万倍以上マシなのだ。

 加えて、前向きなわたしは、彼を見る事ができるのがわたしだけである事を、特権だと思うようになった。

 だって、早羅さんの顔は、テレビのブラウン管の中でスケートに乗ってはちまきして下手な歌を歌うアイドルの男たちよりも、確実に整っているだけではなく、見ていると、とても穏やかな気持ちになってしまう位、笑顔が穏やかな癒し系なのである。


 ゆるくウェーブがかかって肩まで伸びた黒髪はつやつやしていて、アイドルの女の子よりも小さな丸顔は輪郭がとても綺麗だ。長い眉毛とその下のくるんと上向いた長いまつ毛。その下のくっきりとした二重の瞼の瞳は、慈しみに満ちている。

 しかも、これは第2の怪奇なのだけど、この男の子は老けないのだ。

 15歳くらいの見た目が、ずううっと昔から変わらない。

 

 1992年、わたしが中学に上がった年の事だ。

 彼に、それまで何度も訊こうとして、何となく聞けなかった歳を訊いたら、31歳だと答えられた。


 わたしは、全国の31歳の男性に喧嘩を売るつもりはない。

 けれど、31歳でこの綺麗さはないだろう、と全力で突っ込まざるを得なかった。

 そういうわけで、実際突っ込む。


「いや、ほら、座敷童(ざしきわらし)って老けないから」


 ちょっと困った顔をして彼はそう返してくれた。

 そんな顔も素敵だった。

 けれど、この時、脳裏に一抹の不安がよぎり、わたしはそれを、素直に口に出してしまった。


「わたしがおばあちゃんとかになっちゃっても、早羅さんは、見た目15歳のままなの?」


 彼はもっと困った、というより、少し寂しそうな顔をした。


「その頃には僕は死んでるね。……器様をお守りするのが防人(さきもり)の仕事ですけど、防人の寿命は不思議と短いんです」


 この時わたしは、明らかにムッとした。

 早羅さんの寿命が短い事。

 紗愛(さあ)ちゃんと呼ばれずに器様とか他人行儀に呼ばれる事。

 これは悲しく寂しい。

 そして、わたしは寂しいと怒るのである。


 むくれた顔をして、ぷいっ、と顔を背けたわたしをまじまじと見ながら、早羅(さわら)さんは苦笑した。


「村人としては器様のそばにいれることって、本当に嬉しいんですよ。つまり、僕は紗愛ちゃんのそばにいれて幸せだし、だからちょっとくらい寿命が短くたって文句は言う気にならないよ。けど……」


 口ごもった言葉の続きが気になって、13歳だったわたしは横目でちらりと彼をみた。

 続きをはやくと思うけれど中々言わないので、結局しびれを切らした。


「さっさと言ってよ。晩御飯のおかずあげないわよ?」

 そのころは晩御飯のおかずをあげるとかあげないとかで彼を釣っていた。

 今考えるととても子供っぽいのだけど、そういう幼稚さに付き合ってくれる早羅さんも早羅さんである。優しすぎるのだ。


「それは、お腹が減っちゃうなあ」

「しかも今すぐ言ってくれたら羊羮もつけてあげる。」

頑張って上目づかいをした。

「……つぶあんでお願いいたします」

「分かった。で、何なの?」


 彼はため息をついて、長いまつげを美しく伏せながら頭をポリポリした。


「ロリコンとか思われたら立つ瀬ないんだけどね。紗愛ちゃんみたいな綺麗な女の子を守るなら、できれば、笑顔を見ていたいなあ」

「……」

「え」

 わたしの沈黙に対して、分かりやすい不安とか、やってしまった感を帯びた彼の発音が可愛らしい。

 そもそも31歳を可愛らしいと思う当時13歳も、稀少(たいがい)である。


「やーい、ロリコン!!」

 はやし立てるわたしの言葉に、早羅さんはがっくりと肩を落とした。


「……だよなあ。立つ瀬がない」

「うっそ!! うっれしいっ!!」


 語尾を弾ませまくりながら、早羅さんに飛び付くように抱きつく。

 ビーチフラッグ大会で優勝できそうな勢いだった。


 これでもかというほどメロメロの恥ずかしい描写を精一杯したので、読む方は察して欲しい。

 わたしは、早羅さん、産まれてこのかたずっと共にいてくれた彼に、……恋をしていたのだ。

 しかもそれは、初めての恋だった。



 わたしが早羅さんに恋をするようになったのは、いつからだったのだろう。

 10歳くらいまでは、お風呂で背中を流してもらうことすら自然で、お湯の温度も彼が調整してくれていた。

 あ、でも、彼と一緒の浴槽に浸かることはなかった。

 わたしは全然かまわなかったし、一緒に入ろ?と一度提案したことがあったのだけれど、その時彼は、

 「器様(うつわさま)と座敷童が浴槽を共にするなど、恐れ多いことです」

 と、言って、ゆっくりとした綺麗な仕草で床に両膝を着いて、平服(ひれふ)した。

 

 一連の様子がとても静かで穏やかで、その静かさに泣きたくなる。

 基本的にゆるふわの権化という感じの早羅さんだけど、防人(さきもり)としての立場を説明する時、彼はとても静かに、そして(おごそ)かに語る。

 それがアイデンティテイなのだろう。


 11歳になると、背中を流すことも、防人としての立場上厳しくなったらしい。

 わたしは一人でシャワーを浴びたり入浴するようになったのだが、あれは一人シャワー第1回目の話である。


 温度調整の操作手順は早羅さんから入念な説明を受けたのだけれど、間違えてしまった。


 当時の温度調節は、水と熱湯の出量をそれぞれ調整して、中でミックスされた湯を蛇口やシャワーから出すというものだったのだけれど、水の青を止めて、熱湯の赤を全開にしてしまった。


 そのまま湯を出しかけた時、つまり、顔から全身にかけて熱湯を浴びかけた時。


 浴室の引き戸が悲鳴を上げて頬に風を感じたと思ったその刹那。


 わたしは早羅さんに抱きしめられていた。


 彼はわたしをかばう事で、降り注ぐ熱湯を防いでいた。

 もうもうと沸き上がる湯気にその熱さが熱さを超えて拷問に近い痛みとして、早羅さんの背中を焼いているのが分かり、叫ぶか泣くかおそらく両方をしたくなったのだけれど。


 彼は痛みに赤くなった頬と潤んだ瞳で、

「大丈夫、だから」

 と言って、優しく柔らかく微笑みかけてくれた。

 その刹那(せつな)、心臓をわしづかみにされるような、衝撃と痛みと、そしてとても甘い感情を胸に覚えた。


 あの時、だったのだろう。

 彼に恋をしたのは。

 不思議な居候(いそうろう)が、唯一無二(うんめい)の騎士に変わったのは。


 ……早羅さんはわたしを浴室の外に出して、真剣な光を宿した虹彩で、こちらを真っすぐに見た。


「火傷はありませんか?どこか、かかっていませんか?」

 彼の声色に余裕は全くなく、わたしは動転してしまい、声を出せないまま、この非常事態に目を潤ませて首を横に小さく振る。

 と、彼は、

「良かった……」

 と言って、へなへなと脱衣所の床にへたり込んでから、ボイラーのスイッチを切って、

 「申し訳ありません。器様を驚かせてしまいました」

 とひれ伏して言った。

 

 こういう時には必ず、紗愛(さあ)ちゃんではなく、器様、なのである。

 そして必ず、悲しいほど、非を彼自身に求める。


 でもその時のわたしには、寂しさとか悲しさとかを胸の中でこねくり回す余裕などなかった。


 母親の、どうしたのー、というのんきな声が階下から響いてくる。

 母が来る前に、いや、そんな事は関係なく手当を早くせねばと逆に混乱してしまったのだけれど、そんなわたしに、早羅さんは再びほほ笑む・


「僕は村の防人(さきもり)だからね、これくらいの事は、普通だから」

 その声はとても穏やかで、確信のようなものに満ちていたけれど、もちろんそんな事はなかった。


 その晩、アロエのプランターから拝借した果肉を背にあてて、苦痛に耐えながらうずくまる彼に、ポカリとか薬箱の痛み止めとかを運んだのだが、彼は謝絶してひたすら痛みに耐え続けた。


 その姿は何か、傷ついた美しい獣のようで、わたしの頭の中には、器様とか、防人とか、村とか、どういう事なのだろう?

 何が彼をここまでさせるのだろう?

 訊くたびにいつもはぐらかされてきた疑問が、その晩はいつもに増して強くて渦巻いて眠れなかった。けれど、それは少なくとも、彼を傍目(はため)に寝てしまうよりも良かったと思う。


 幼いわたしは結局寝てしまった。

 しかもそれは夢も見ない深い眠りだった。


 ……起きると。

 早羅(さわら)さんがおでこを撫でてくれていた。

 キテイちゃん柄のカーテンの隙間から差し込む朝の陽が、彼の輪郭の綺麗な頬を照らしていた。

 彼と目が合う。

 その瞳が宿す慈悲に、色々な気持ちが子供なりにも込み上げて、とても泣きたくなった。



「……」

「おはようございます。」

「……」

返事の代わりに、わたしは両手で掛け布団の端をつかんで、そのままおでこにずり上げて、彼から顔を隠す。

 顔を見れなかったからだ。

 でも、見たかった。

 けれど見れなかった。


 沈黙が柔らかく続く。

 破ってくれたのは早羅さんだった。


「昨日はすいませんでした。うつわさ……」

「早羅さん。」

 泣きだしたいのをこらえながら、彼の声を遮る。

「はい」

「器様って呼ばない、で」

「……」


 ……沈黙。

 わたしの胸は布団で作った暗闇のなかで、きゅううと痛み、耐えかねて言葉を漏らす。


「……今だけでいい、から」

「……分かった。紗愛ちゃん。無事でいてくれてありがとう」


― この人、普通のヒトだったら絶対女ったらしだ。―


 自覚の有り無しは関係ない。

 それくらい彼の言葉に、柔らかな声色にぐっときた。


「早羅さん」

「はい」

「器様って、村って、何なの?いつもはぐらかすけど、教えて」

「……」

「お願い。」

「……紗愛ちゃんが、15歳になったら教えて差し上げますよ。これは約束です」


静かで、そして(おごそ)かな語り口だった。

けれど、器様ではなく、紗愛ちゃんという言葉を彼が使ってくれたその優しさに、それが精一杯であると知って泣いてしまった。


わたしはどうやら、精一杯というものに弱いらしい。

結局、15歳になるまで、村や器様について彼に問いただすことはなかった。

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