こうして、わたしの恋は終わりました。
翌日、わたしは失恋した。
この場合、失恋という言葉が正しいかどうかは、正直分からないのだけれど、それでも、人生の大部分は、早羅さんと共にあったし、彼を想ってきたので、むしろそれが当たり前すぎたので、そういう過剰さが我ながら無邪気だった日々への供養も含めて、わたしは彼への想いを、恋だったと言いたい。
それは、誰が、特にわたしの中の論理的な部分が、いくら否定をしても。
その日の朝方、目覚める前のうつらの中で、夢を見た。
夢の中のそこは、四畳半を二つ合わせた位の部屋で、粗末の感じない木のフローリングの縦三分の一を、汗が染み付いて久しいパイプベッドが占めていた。
ベッドの上には、肌の照りがとても美しい男性がいた。彼は半裸で、噴火した火山の黒煙のような猛々しさをまとう背の筋骨を、滑らかで、ほのかに脂を帯びた肌が封じ込めていた。
後ろ髪は清潔に刈り込まれていて、ベッドの向こうの窓から、時折吹き込む風に、横髮の幾筋かがまとめて揺れた。
わたしの視点は、彼の正面に回りこんだ。
瀬長島君を少し思い出すような、そんな完璧に近く整った目鼻立ちの男の子だった。
でも、彼のような、憂いを含む、つまり心ここにあらずな心情を含む光を、その瞳は宿さず、むしろ、彼自身に対する絶対の確信と、寸分の濁りすらない慈愛の瞳は、少しだけど、九虚君に似ていた。
彼は、ベッドの上で半裸の膝立ちをしていて、彼の股下の何かに向かって、言葉を二三、短く言ってから、ズボンを脱いだ。
とても大きなズボン。
上野動物園の象さんでもはけそうな、大きさのそれを、綺麗にたたんでいる彼から、わたしの視線は、股下にあった何かに移った。
それは何もつけていない女性の肉体だった。ベッドのシーツと同化するほどに白く、肉に無駄の無い、けれどふくよかな四肢の接ぎ目には、静脈が小さく浮いていた。
水妖のような儚さをたたえるその肉体にも、生命を象徴するような黒い繁みがいくつもあった。
太ももと下腹部の形成するYの字の上とか、顔を隠すために覆った手のひらから続く腕から、かすかに覗く脇とか。
彼女の深い脇の繁みの肉は、魅惑的な凹凸を作って、生命というか、母性そのものというような、胸の膨らみに続いていた。
やはり静脈が、細く青く浮き出ていたけれど、大きめの風船のように膨らんだその乳房に、大抵の人は顔を埋めたくなるのではないだろうか。
瀬長島君のような男性は、服をたたみ終えた。床に綺麗にそれを置いてから、改めて彼女の上に覆いかぶさる。
顔を隠していた女性は、その男性の重みを、両手で包むように、つまり彼の背に両腕を回す形で受け止めたので、わたしは彼女の顔を見た。
狂濡奇さんだった。
そこで、彼女と愛し合っている男性が、噛月さんだと分かった。
彼は彼女の恋人であり、早羅さんの大切な友人である。
なので、好奇心が芽生えてしまった。
腰の揺さぶりに合わせて小刻みに、快楽に、上下する彼の顔を、もっとよく見たいと思って、覗き込んだら、いつもの見慣れた早羅さんが、ゆるいウェーブを描く前髪を揺らして、恍惚または、苦痛をこらえるように、両目を閉じていた。
長いまつ毛。それは、わたしの愛するいつもの彼のもので。
だからだろう。
わたしの胸に痛みが生まれた。
それは感情という感情を、生産する器官が根こそぎもぎとられるような、痛み、というよりも衝撃で。
でも、だからこそ、この痛みに安心した。
つまり、まだ、わたしは、わたしなのだ。
早羅さんは、ちょっと恥ずかしいアメリカの映画の男性みたいに、息を飲み込み、首筋が小さく揺れて、狂濡奇さんの上に倒れ込んだ。
倒れ込まれた彼女は、彼の美しくしなやかな肉体を、その豊かで透き通った胸で受け止めて、両手を彼の背中に回しながら。
お産を終えて、産湯のわが子に満足を浮かべる母親のような、潤んだ笑みを浮かべて、口を大きく開き、並びの良い歯列の白がきらめき、小さな犬歯が、早羅さんの首の脈に食い込み、わたしは悲鳴を上げて。
目が、覚めた。
「おはよう。大丈夫かい? 」
鼓膜に早羅さんの声が届いたけれど、わたしは、両手で視界を覆って、仰向けになったまま、返事をしなかった。
心臓を起点とした、とても激しい脈を全身に感じながら、考える。
何故だろう。昨日、あんなに優しくしてくれた狂濡奇さんに、わたしは嫉妬している。
むしろ敵視に近い。
早羅さんとの男女の関係の夢を、見てしまうくらい。
昨日の彼女のメイド服の黒い肩には、何の気負いも無かった。
白く滑らかな裾から伸びた腕は闇に光を帯びた水のように白く、その細腕は、早羅さんを遠慮なくたたきのめした。
その彼女の言葉。早羅さんは馬鹿だから、多目に見てあげて、というのは。どういう意味なのだろう。
彼女の声色は、とても柔らかく、軽蔑は感じなかった。
むしろ、長いときを経た間柄にしか生じないような、親しみがあった。
彼女は、本当の彼を知っているのだ。それは、わたしの知らない彼であり。
どういう馬鹿だから、何を多目に見て、わたしにどうして欲しいのか?
あの短い言葉では、推し量ることすらできない。
そもそも、もし正確に彼女の意を汲むことができても、わたしは消滅するのだ。
そう、消滅してしまう。
同世代の若い子達が、日々の永続を錯覚する中で、わたしも彼らと同じように、時の連続を当たり前と思ってきた。
大地が地平に延びるように、時は、日々は、日常は続いていくはずだ、と。
けれど、違う。いつ、喪われるか、分からない。
分からないのだ。
この呼吸を終えた次の時には、わたしそのものが喪われているかもしれない。
そして、彼と離される。
村に運ばれて、予言と命名の因果という機械となって、後の一生を終える。
「早羅さん」
わたしは、手のひらで視界を世界から隔絶させたまま、か細い声を出した。
「何だい」
「わたしと、養豚場の豚って、何が違うの? 」
「何もかもが違うよ」
「でも。待ってる、でしょ? あたしが、ばば様になる、の」
……返事が無いまま、枕もとの目覚まし時計の秒針が、随分とゆっくり沈黙を刻んだので、そのゆっくり加減に不快を覚えながら、声を低く荒げた。
「ついて来てくれるなら、それでも受け入れる。けど、早羅さんは、境間さんって人にわたしをバトンタッチして、その後の事なんか知らない。そこで御終いなんで、しょ」
胃を何かがこみ上げたので、わたしは唾を飲んだ。
昨日食べ過ぎた胃もたれとかではない。
むしろ、肉体は活力に満ちていた。
名も無い店の料理は、身体に合う。
それも、わたしが村人である証拠だ。
だから体調ではなく、精神的な、何かが胃を荒げている。
わたしはその理由を確認した。
嫌悪。自己に対する、酷い嫌悪。
そうだ。昨日のひきつり笑いが、続いているのだ。
昨日は頬のこわばりだったけれど、今朝は心にきている。だから、こんなに、声も物言いも刺々しい。
しかも、これは子供の駄々だ。
いや、養豚場の豚が拗ねるようなもので、駄々以下の代物だ。
無邪気な分、豚の方がまだ可愛げがある。
早羅さんには早羅さんの事情があるのに。
だけど、わたしは、それでも。
「境間君は良くしてくれるよ。君に対して最善を尽くす」
早羅さんの声が鼓膜に響いた。
「そんなの、わかんないじゃない」
早羅さんなら、分かる。
彼なら。いっそのこと、彼がこのまま助役さんになってくれれば。まだ救いがあるのに、と思いながら、わたしは返事をした。
……早羅さんの気配が、変わった。声の空気というか、呼吸に、強い何かを感じる。
「村人は、器様、ばば様に忠誠を尽くすんだ。それは因果に縛られるのと同じ位に、ね」
「どういう、こと? 」
起き上がり、彼の顔を直視した。
早羅さんの瞳は寂しげだった。
「器様には、産まれた時からの因果があるんだよ。それは、生粋の村人にだけ効力がある。カリスマとか、魅了と言ってもいい。
つまり村人は、器様に強い愛情を抱くように出来ている。だから、全ての攻撃の因果は、器様の前では無効になる。働き蜂が女王蜂を攻撃できないのと同じだ。むしろ、彼らは女王蜂のために、千里を飛ぶ」
わたしの頭に、それまで会った村人さんたちの瞳が、走馬灯みたいに浮かんでは消えた。
みんな、涙ぐんでいた。それに九虚君。彼は、器様の因果がきつい、と言っていた。納得がいく。けれど、それでは。
早羅さん、も……?
口を半ば開いて放心するわたしを、カーテンから差し込んだ朝陽が照らして。早羅さんは、そんなわたしに、苦しそうに目を細めて、言った。
「君は、女王の卵なんだ。だから、心配しなくていい」
彼の言葉は、わたしを叩きのめした。
でも、何故かは、すぐに分からなかったので、その衝撃は、思考を必要とした。
その日、朝早くに、上野へ出かけた。
象さんが見たくなったのだ。
何故かは分からなかったけれど、夢の影響かもしれない。
けれど、動物園の開園前にできる人だかりの、主に家族という単位たちの、冬だからだろうか、暖かな白い息に代表される幸福に、彼らに刻まれるこの日に、眩暈を覚えそうになって、わたしは踵を返した。
その後ろを、早羅さんが護衛として離れず。
わたしたちの間には、歩幅五つ分くらいの距離があった。
手は昨日と違い、つないでいなかったので、手のひらに冬の風と、寂しさを感じていた。
でも、わたしがお願いしたのだ。
「今日は後ろをついて来て。いいと言うまで、敬語を使って。
……わたし、女王様なんでしょ? 」
彼は了承した。いつもと変わらない、穏やかな顔で。
動物園を諦めて、でも人ごみに突入する気力も無かったので、上野動物園の近くの博物館の傍の住宅街に、隠れるように営まれる、けれど菓子好きには人気な、西洋菓子店に向かった。
隣に早羅さんがいない。寒い。会話がしたい。振り返りたい。けど、敬語で話されたくない。いや、わたしがお願いしたんだけど。でも。女王様とか。何それ?
寂しさは怒りになり、それは丁度、菓子店の前で臨界を迎えた。
「早羅さん」
「はい」
「ケーキ、とってきて。何でもいい。シュークリームでも。苺ショートでも。カシスベリーのレアチーズでも何でもいいから。とってきて。早羅さんなら、余裕でしょ」
犯罪である。店から黙って盗んできて、とわたしは彼に言ったのだ。
彼の穏やかな眉は、少しだけひそめられたので、この時わたしは、否定を期待した。
いさめられたかった。そしたら謝るのだ。
その行為によって、女王という言葉の距離と、距離に感じる絶望を、薄めるのだ。
けれど、やはり期待とは裏腹に、早羅さんは柔らかくうなずいて。
「君が望むなら、行ってきます、ね」
と言って、ためらいのない足取りで、扉の向こうに消えてしまった。
この時、冬の快晴の風が、頬を切ってきて、わたしは孤独を覚えた。
孤独が正しいと思う。それはわたしが招いた物だ。
巣から落ちた雛の気持ちに、鬱々としているうちに、早羅さんが出てきた。綺麗な、白いレンガみたいな紙の箱を提げて、
「はい」
と言って、それをわたしに渡した。
開くと、シュークリームと、苺ショートと、カシスベリーのレアチーズが入っていた。
それらは、純白の紙の包みという小さな空間の中で、地中海の宝石みたいな美しい煌きを帯びていて。
カシスの甘酸っぱい匂いや、シュークリームのバニラビーンズの甘い香りが、嗅覚の毛細を魅了して。
さすが人気店である。
けれど。だけれど。わたしには、それらが、腐った果実にしか思えなかった。
正常の対価を支払わず、早羅さんに手を汚させて、得た対価。
それは、腐ったわたし、腐った桃の木にふさわしい。
恥を覚えた。
そして、それ以上に悲哀を、早羅さんに覚えた。
なぜなら、彼は変わらなかったからだ。
いつもどおり、少し眠たげな、黒目がちな二重で、微笑むように、わたしを見守ってくれていた。
怒りも、非難も、悲哀すらなかった。
そこに、彼の態度に、感情の不在を感じた。
わたしの手は、箱を、開いたままひっくり返した。
罪の果実たちは、重力に素直に加速して、シュークリームと苺ショートは地面の暗いコンクリート舗装に、カシスベリーはわたしの靴先に、それぞれ激突して、位置エネルギーの変換によって、潰れて白や深紅に輝きながら飛散した。
「靴が汚れたの。舐めて」
早羅さんの瞳を見据えて、冷たく、そう言う。
彼の瞳に変化はなかった。眉だけが、やはり、少しだけひそめられた。
そしてこれもやはり、柔らかくうなずいて
「君が望むなら」
と言って、わたしの靴先にかがみ込んだので。
静寂。
ひどい静寂を、感じた。
それは、喪失と言ってもいい。
動物性脂肪分や小麦粉やグラニュー糖の塊とは、比較にならない何かを、わたしは潰そうとしている。
そしてそれは、何の滞りもなく、行われてしまうのだ。
……わたしの消滅と同じくらい、静かに。
「やめて」
わたしの喉から声が出て、それは涙を含んでいた。
早羅さんが顔を上げて、ほっとしたように微笑んでくれて、
「ハンカチで拭きますね」
と言って、靴先を綺麗にしてくれて、立上がり、
「後はカラス達にあげましょう」
と、住宅街の空を見渡した。
彼に抱きつきたかった。
抱きついて、泣いて、謝りたかった。
けれど、距離が。それは、女王という言葉とか、また、黒い宝石の海に消える運命とか、そういう物が絡まって、結局、できたのは、財布から紙幣を二枚取り出して渡すことだけだった。
「お金、置いてきて」
「払っておきましたよ」
「お金、持ってきたの? いつも、わたしが払うから、持ってないのに」
「はい。何となく、予感がしまして、念のため」
……何というお見通し加減だ。
至れり尽くせりがはなはだしい。けれど、だからこそ。
わたしは不満を覚えた。
彼の態度に。不変の忠誠がほのめかす、個人的な感情の不在に。
そう、彼はわたしに迷わない。幼少からの時間もあって、わたしの性格を熟知している。
でも、わたしは、騎士としての彼しか、知らないのだ。素の彼は、狂濡奇さんの方がよほど知っているだろうし。
そして、彼を知らないまま、エスコートだけされて、やがて、運命に屠殺される。
その全てを見守る彼を、黒い宝石の海の因果によってではなく、惹き付けれるものが、わたしにあるのか?
無い。
全く無い。
加えて、彼の敬語の自然さに、自信が全て削られる。
それはわたしの自業自得だ。
……時間に、限りがあるのなら。いや、あるのだから。
もっと有意義なことがしたい。こんな、自業自得的な茶番は嫌だ。
もっと輝かしく、もっと、充実した時間を送れるはずだ。
でも、その時間を踏み出そうとした瞬間に、わたしは消滅するかもしれない。
それが怖い。
希望が無いのが怖いのではない。
希望に触れた瞬間、喪うのが怖いのだ。
でも、普通、そうだろうと思う。
わたしは、器様とかなんとか言われても、15歳になったばかりの小娘なのだ。
怖いのが自然だろう。
そして、怯えるわたしを見守る早羅さんは、いつもどおりで、そこに感情は無い。
海のように限りの無い愛情はあっても、その愛情は、わたしの中身の因果であり、殻であるわたしに向けられるものではないのだろう。
そう。それが酷く悲しいのだ。
……ここでようやく、わたしは、今朝の衝撃の中身を理解して、上野駅に向かった。
けれど、自宅に帰る気にはなれなかった。
色々な憂鬱が、晴れ渡った遊歩道の青空となって、わたしを圧迫していた。
結局わたしは、住まいとは方向の違う電車に乗った。方角自体は迷ったけれど、西だと際限が無い感じがしたので、東に向う電車に揺られることにした。
いくつかの乗り換えを経る間、座席の向かいで、すみっこに肩を小さくする早羅さんの、やはり小さな顎下とその下の華奢な首筋を眺める。視線は合わせる気になれなかった。
だって、どんなに、わたしの中に刻んでも、それは喪われてしまうし、彼に刻まれるわたしの姿は、結局は、器の力なのだ。
中性的とも言える早羅さんの顔立ちでも、喉下にはちゃんと小さな膨らみがある。それはつまり、彼が男性であることを示している。つまり彼の肉体は、ちゃんと男性ホルモンを満たし、睾丸があり、テステトロンというホルモンを分泌しているのだ。
わたしが消滅した後は、村の誰かと結ばれたりするのだろうか。
彼の遺伝子は、XX染色体の保持者と結びついて、子供が産まれ、わたしの中身が、その命名をするのだろうか。
子を成さなくても、例えば今消滅してしまったら、彼は、わたしを村に届けてから、狂濡奇さんとくっつくのだろうか。
こんなどうしようもない思考は、結局、その朝の夢と、痛みに回帰し、わたしはその痛みに沈んだ。
けれど、窓の外は穏やかな冬の田畑で、杉の林の向こうに広がる沼が、冬枯れの景色に色彩を与えたりして、電車の窓ガラスというフィルターを通して眺める景色は穏やかで、そこに電車そのものの、赤子を揺らすような揺れが加わって、眠気を覚えた。
刹那。
酷い恐怖に目を見開く。頬がこわばり、反射的に両手で顔を覆う。
今、寝たら、わたしは消滅しないとは限らない。それは、捨てられる殻の、恐怖で。
まあ、でも、昨日の状況よりは、楽だ。
目の前には早羅さんしかいないし。
つまり、他人の目、早羅さんの面目を気にせずに、声だけ我慢して、泣く事ができる。
ということで、わたしは泣いた。
声を出さず。早羅さんにしがみつかず、かけてくる彼の声を、小さく振った首で拒否して。
顔を洗うみたいに首を曲げて、両手のひらに前髪とこめかみを埋めて、泣いた。
電車は房総の東の端の港町に着いた。
とても長いけれど、九十九里も無いと思われる浜の端を歩く。地面は岩と傾斜を帯びる。
そこを登っていき、人気の無い崖に立つと、体が吸い寄せられるみたいに、崖下に飛んだ。
重力に綺麗に加速する。遥か下の青の濃い海面には、大小の岩が突き出ている。
激突すれば、わたしは上野のケーキになる。
弾ける血は、カシスベリーほど綺麗だろうか?できればそうであって欲しい、と思っていたら、早羅さんの叫び声が隣で聞こえた。そう、隣だ。
彼は崖の黒い斜面を、垂直に走っていた。
そのままわたしを抜き去る。飛び降りる前に、ちょっと上を見て貰ったのが失敗だった。後ろにダッシュして貰えば良かった。
せっかく終われたのに。せっかく、早羅さんだけのわたしで、終われるところだったのに、と、残念に思う。
けれど。懸命に、なりふり構わず、壁を垂直に駆けていく彼の後姿は、見てて微笑ましい。
そう、それが早羅さんだ。わたしの好きな。
海面から吹き上がる潮風に目がやられたのか、視界が涙で滲んだ。
体が風の抵抗を受けて、腰が上に、背が下に引かれる。
落とし穴に落ちる漫画みたいだ。
急速に離れていく崖上の木々の彼方の、海風の吹き渡る青空は、全てを吸い込むように高く、はるか上空に一筋の雲が、花嫁のレースみたいに、薄くかかっていて、わたしは結婚したいと思った。
早羅さんの花嫁になりたい。
それでいい。
消滅しても、その後を彼が看てくれるなら、文句は言わない。
予言やら何やらは、電話で受け付けよう。
と、考えていると、肩甲骨と膝裏に、柔らかい手が、絹のように優しく触れたのを感じた。
さすがは早羅さんである。息を荒くするという対価だけで、崖を垂直に駆け抜け、下の岩でわたしを待ち受けて、マットなんかより優しくわたしを受け止める。
わたしの頬は自然にゆるんだ。
やっと、今日初めて、彼に微笑むことができた。
必死で余裕の無い、けれど波濤のしぶきの滴が、ビーズみたいにいくつもきらめく彼の髪は美しい。
だから、落下の際も敬語だったのは、気にしない。
何より、わたしはお姫様抱っこをされている。
早羅さんの足元の岩に打ち付ける波音が、嫌にうるさいことはうるさいけれど、ロマンチックなことには変わりない。
そう。ロマンチックだ。
わたしは彼にお姫様だっこをされたまま、両手を彼の首に伸ばして、抱き寄せようと思った。
唇を重ねたいと思ったからだ。
けれど、彼の首は、松の樹のように硬く、動かなかった。それが、彼の意思だった。
拒絶。どうしようもない、拒絶。
「キス、したいの。力、抜いて」
腕に疲れを感じながら、そう呼びかけた。
まだ、ロマンチックな何かが残っているうちに、首を曲げて欲しかった。
そうすれば、わたしは幸せになれる。
後は話し合いだ。
けれど。
「座敷童が器様と唇を重ねるなど、畏れ多いことです」
という返事が、穏やかに、けれど、はっきりと返ってきた。
いつもどおりだ。身分の差という隔絶。
隔絶という拒絶。
拒絶の招く、沈黙。
岩に崩壊する波のしぶく音がうるさ過ぎて、かえって静寂を感じる。
「……早羅さんって、わたしのこと、朱森紗愛のこと、全然好きじゃないよね」
それは、わたしの総合的評価だった。
彼は、いつも穏やかで眠たげで、強く、非情なほどに全力でわたしを守り抜く。
けれどそれは、結局、亡くした友達への想いなのだ。
もっと言うと、償いに過ぎない。わたしに対する愛情と思えたものは、結局、わたしのオートマチックな力に過ぎない。
なにそれ。どれだけ馬鹿にしてるの? 運命って。
わたしの言葉は、このように、素直な感想だったのだけど。随分と彼を揺るがしたらしい。
「……君の因果を一番受けてきたのは、僕だ。好きじゃない訳、ない、じゃ、ないか」
最後ら辺は、途切れ途切れで。言葉が切れるたびに、早羅さんの頬は紅潮していった。
雲が夕に焼けるような、輝きと美しさがあった。
穏やかな長い眉は、きつくしかめられ、綺麗な二重の瞳は熱く潤んだ。
「そう。因果、かあ」
力の抜けた声でそう言って、ため息をつく。
房総の東の町に来て、崖から飛んだだけなのに、ずいぶんな疲労を感じる。体の芯から、何かが抜けてしまった。
そんなわたしを、やはりお姫様抱っこしたまま、早羅さんは、まつ毛の長い瞼を、固く閉じて、その隙間と言えない隙間から、透明な滴が、幾つも生まれて、どこかの国の洗礼みたいに、一滴ずつかかって、わたしのおでこや頬を濡らした。
それは、早羅さんの体温や、おそらく、魂と同じくらいの熱さだった。
帰りの電車で、謝った。敬語もやめて貰う。
そして、いつ、ばば様という因果が発現して、わたしが消滅するか分からないから不安で、ふさぎこんでしまい、いっそのこと、崖から飛び降りて終わらせたいと、衝動的に思ってしまった、と伝えると。
ため息まじりに、彼は一つの詩を教えてくれた。
覚えがある一句だ。
万葉集に出てくる。女が、兵役に就く恋人を想う詩だ。
復唱しようとすると、両手で口を塞がれた。
「これが、鍵の詩なんだ」
「何の鍵? 」
「君に、ばば様が降りる。つまり、いつ君に、ばば様が発現するか、僕も分からないけれど、この詩を唱えれば、いつでも発現する。君は、いつでも、終わらせれる」
「今でもいいのに」
本音だった。それは、若者特有の投げやりと似ているようで、少し違っていた。
信じていたもの、拠り所としてきた価値観、の崩壊による虚脱、と言っていいかもしれない。
早羅さんは、そんなわたしを、じっと見て、悲しげに、こう言った。
「君には、広い場所で、できるだけ生きて欲しいんだ。文明社会っていうのかな。もちろん、これは僕個人の願いで、普通のヒトへの憧れで、嫉妬なんだけどね。いつかは村にお連れするけれど、できるだけ、器様には、文明社会ってやつを、ありのまま体験してほしい。それは、呪われた血の中でしか生きれない僕らが、絶対にできないことだ。だから、君には他の、普通の子達みたいに、勉強をして、才能にあった学校に進んで、結婚もして、幸せといえる幸せを、発現のぎりぎりまで、身に受けて欲しいんだ」
結婚、という言葉が、わたしの胸に響いた。
それは響きを繰り返しながら、胸の奥の、とても大事な所に孔をあけた。
その孔の出現は、残酷なほどの痛みをともなったけど、わたしは表情に表さず、むしろ、呆けた遠い目で、こう言った。
「結婚、かあ」
この声は、痛みの輪郭をなぞるみたいで。体の芯から、色々なものが、炭酸みたいに抜けていくのが分かった。
車窓の向こうに視線を投げると、田園全体に、黄昏特有の輝きに満ちていた。空の向こうは既に濃紺を帯びて、やがてその全体が、薄い闇に沈み、その一連の変化が、何かの終幕を告げていた。
そう、終幕である。
……こうして、1994年のクリスマス・イブに、わたしの恋は終わった。