わたしも村人でした。でも生け贄の羊みたいな、村人でした。
クリスマスの季節。父たちは、サンタ・クロースの代理で玩具店に足を伸ばし、母たちは、子供たちと緑のもみの木を金や赤のレースで装飾する。
それは不自然なほどのきらめきを、電飾と共に放ち、その螺旋は、緑のあやふやな錐体の頂点に向かって、螺旋に収束する。その先には、新しく生まれた星のモニュメントがあり、星は、冬至と、キリストの誕生を祝う。
雪を掻き分けて、冷気に火照る頬で、毛糸の帽子の
子供たちが白い蒸気を大気に戻しながら、家に帰ると、暖炉は暖かく、彼らが飾った樹は音楽をまとっている。それが、クリスマスの聖歌だ。
……音楽というものは、常に季節をまとうものだ。
季節はクリスマス真っ盛りだったけれど、早羅さんと長い時間を留まった、この名前の無い店に、そういったものは全く無かった。
鈴虫の音が秋を告げるのみだった。
けれど、わたしたちの上に星は満天に散らばり、それは神話のような悠久を予感させた。
室内は暑くも寒くもなく、ただ、厨房で肉を焼いた後の炭の香りが、熱量の名残のようなもので、じんわりと、空間に暖かさを与えていた。
ここは、わたしの皮膚や毛穴には、全く不快ではない、というより、とても快適な、それこそ満ちたお腹の身には、眠たさを覚えるはずの、場所だったはずだ。
狂濡奇さんが出してくれた料理はもちろん、彼女のサービスにもわたしは評価を求められたら、極上という言葉しか連想できない。
けれど。それでも、わたしは、その極上の時間と空間の中で、身に待ち受ける運命を告げられた時、まばたきを忘れた。
狂濡奇さんが化粧を施してくれた目元、額やこめかみからは、寒気を覚えるほど、血の気が引いて、奥歯が極寒に震えるように、かみ合うことなく、幾度もぶつかりあっているのが分かった。
その痙攣に似た震えは、こわばった頬に由来するもので、わたしの顔面は、酷く見るに耐えない、笑顔を作っていた。その笑顔の見苦しさは、汚らわしさすら覚えるほどで、わたしは、誇りとか、尊厳が喪われていくのが分かった。
早羅さんの手元のグラスには、岩清水の発泡水が半ばまで注がれていて、それが天井から降り注ぐ北極星の祝福に照らされながら、わたしの醜態も反射していた。鏡のように。
その鏡の中の口裂け女は、懸命にその肉食獣のような口を閉じようとし、何度も唾を飲み込む。
ようやく口を閉じる事に成功するけれど、無理やり閉じられた両端は、やはり不恰好につり上がって、笑いをこらえるみたいに、小さく震え続ける。でも瞳は不気味なほど大きく見開かれている。
……この女が、わたしだ。黒の装飾たちはどれも、相変わらず、闇に光を幾重にも折り重ねたように、静かに美しい。けれど、だからこそ、わたしの醜さが際立つのだ。その醜さという言葉は、邪悪に、置き換えても良いかもしれない。
黒鳥。白鳥の湖の王子を惑わした、黒鳥の邪悪。
邪悪の微笑み。
何故わたしは、もっと違う顔をできないのだろう。
欧米アニメーション大手の製作する映画のヒロインたちは、白雪姫も、眠り姫も、人魚だって、みんな悲しい時には、美しくその心情を表すのに、わたしは、どうやら、ヒロインとは別の何からしい。
いや、ヒロインでなくても、普通の子なら、涙ぐんだり、泣き出したり、両手に顔を埋めたり、そういうしおらしい行動を、いくらでも取れたはずなのに。結局できたのは、まばたきを忘れて角膜から水分を飛ばしながら、邪悪な微笑みを口許に浮かべるということだけだった。
「こんな顔、しかできなくて、ごめん、ね」
どれくらい、硬直していたのか、わたし自身さだかではないけれど、そこまで長い時間ではないと思う。
体感時間としては、夜中に体験する金縛りと同じ位だろうか。
わたしは、その金縛りの果てにようやく、喉を絞って、こう言った。
早羅さんは、わたしを真っ直ぐ見て、わたしたちの視線は、やっと正常な交差に戻った。
「いや、いいんだ。分かっていたことだ。ずっと前から、分かっていたことなんだ」
上に撫で付けられている髪は、いつもどおりの緩いウェーブを描いていた。
その一部が、彼のおでこに、雪の朝にしなり落ちる雪のようにうちかかって、わたしはその変化に、花びらが舞い落ちるような、色気を感じ、こんな時なのに、排卵日の前のような熱を、下腹部に覚えた。
救いようが無いわたしとは裏腹に、早羅さんのおでこの下の眉は、いつもどおり穏やかで、眉が薄く影を落とす、くっきりとした二重の黒目がちな瞳には。
悲哀と。
……強い、意志の光があったので。
早羅さんが、狼男さんと、桜の樹の下で対峙したときも、こんな顔をしていたのかな、と思った。
そう、強く、はっきりとした、意思だ。
早羅さんは、そういう人なのだ。
彼は彼で、覚悟して、わたしを、ずっと守ってくれてきた。それは、わたしがずっと、知っている。それでも、そのことすら、わたしは忘れてしまうのだろう。
……早羅さんは、器様とばば様についての話を続けた。
器様に、ばば様という因果が発現するのは、15歳以降であること。大体は30歳付近らしいけれど、16歳や80歳といった例もあるので、ばらつきがかなりあるらしい。
ばば様が発現した器様は、村に迎え入れられる。
そこで、助役さんに補佐をされながら、残りの人生を送るらしい。
彼女たちは、確率的な予言と、産まれてくる、または産まれた新生児の命名をする。
産まれたばかりの村の子供は、因果のためにとても弱く、ばば様の命名に基づいた措置が取られなければ、ほとんど死んでしまうらしい。
そういう意味でも、ばば様は村という共同体の核であり、だからこその、最高尊厳である。
という説明を、わたしは、黒鳥的な邪悪な顔を作ってしまった恥ずかしさ、負い目もあって、特に不満を唱えるわけでもなく聴いていたのだが、どうしても、本当にささやかな抵抗をしたくなり、
「お父さんとお母さんは? もう会えなくなるの? 娘だし、消えるのは親不孝だけど、やっぱりあの人たちのことも忘れてしまうの? 」
と訊いたら、
「彼らは、君の実の父母ではないよ。甲子園で会った、千骸さん。彼がさ、君を彼らの子供と、取り替えたんだ」
という答えが返って来てしまった。
取り替えられた子は、現在施設で育っているらしい。
匿名の送金を毎月受けて、結構な額が貯まっているとのこと。
望むなら、ばば様が降りた後に、その子と父母がめぐり合うようにすることくらいはできる、と言われたので、わたしは迷わずお願いをした。
こんなところだろうか。冷静さを無理やり装いつつ、お話を全て聴いてから、席を二人で立った。
こうして、名前の無い店でのお食事は、終わった。
厨房の方々へのお礼を済ませて、速やかに衣装部屋に向かう。気丈でいるには、速やかさは助けになる。
でも、部屋に入る前に、早羅さんと離れたくなくて、泣きそうになり、つくづくと考える。
冷静でも取り乱しても、ばば様が発現したら、全てを忘れてしまうのだ。
そして、早羅さんと引き離される。
わたしは、早羅さんに恋をしている。
この感情。早羅さんのそばにいたい。早羅さんがそばにいてほしい。早羅さんに笑ってほしい。早羅さんに笑いかけたい。早羅さんの前で、美しくありたい。陽の眩しさに瞼を薄める早羅さんの長いまつげの美しさにほれぼれしていたい。早羅さんと手をつなぎたい。早羅さんを抱きしめたい。早羅さんに抱きしめられたい。本当の夫婦みたいに溶けあいたい。
こういう感情の全てが、実は恋ではなくても。
ただ、卵から孵る雛が親を学習する刷りこみのようなものでも。
それでもいい。わたしは、早羅さんを想っていたい。
だからこそ、わたしは雛たちに嫉妬する。
だって、彼らは、卵の中身で、身体を与えられて、殻を割って外に出て、親を慕うことができて、その親を忘れないのだから。
一方のわたしは、そう。卵の殻に過ぎないのだ。
花華さんを思い出す。彼女はわたしを、さなぎだと言っていた。
さなぎ。
それは捨てられる外殻。
それがわたしだ。
……黒い宝石の海が、殻の中身であり、羽化するべき蝶なのだ。
このとても大きなものが、全てを与え、そして、全てを取り去っていく。わたしは、抗うことが出来ない。
着替えを終えたわたしは、やはりコートに着替えた早羅さんと合流し、店を後にした。
狂濡奇さんは、わたしたちを、蛍の闇の先まで見送ってくれて、そのついでに、
「これ、噛月君の恨み」
と言って、早羅さんの手首を軽くつかんで、手ぬぐいを振り回すみたいに、彼の身体を、通路の壁にたたき付けた。
内臓に響くような痛い音と共に、壁は砕けて、中の梁が、闇に浮き上がった。
早羅さんは、壁に身体を擦り付けるみたいに、通路の床に崩れ落ち。
狂濡奇さんは、そんな彼に優雅に美しくしゃがみこんで、また彼の手首を無造作につかんで、
「これ、勝手に死んだ噛月君への鬱憤。友達でしょ、代わりに受けて」
と言って、彼の体ごと、テニスプレーヤーみたいに鮮やかに振りかぶって、床にたたきつけた。
やはり痛い音が低く響き、床を成す石材は砕けて、下の金属の骨組みが格子状の闇に露出した。
わたしは彼女の唐突の凶行に、色々真っ白に、つまり呆気にとられながらも、気がつけば、彼女の腕をつかんでいた。
「やめ、て。ください」
「はい」
闇の中でも、メイド服の彼女がにっこりと、微笑んだのが分かる。
彼女は、掴んだ腕を起点に、逆にわたしを抱き寄せて、
こう続けた。
「早羅君はね。馬鹿なの。だから、ちょっと大目に見てあげて、ね」
それがどういう意味か、今でも分からない。
でも。えっと。つまりその。
狂濡奇さんが、素敵な人であることは、改めて分かった。
早羅さんは、彼女の二撃でぼろぼろになり、わたしに肩を担がれながら、地上階まで上がったのだが。
つまり、そういうふうに寄り添えるように、あの吸血鬼さんは、計らってくれたのだ。
……一歩一歩の階段を踏みしめながら、首にかかる彼の腕の重みが、温かくて。
こんな絶望的な宣告を受けた後なのに、早羅さんは、宣告をしてきた人なのに。
もう、条件反射的に、嬉しさが胸に溢れて。
でも、同じくらい。
こういう全てを忘れて、彼と離されるということに、胸の虚ろが痛みになって。
地上階のホコリに咳き込んで、鼻水とくしゃみが止まらなくなって。涙目になって、それで、糸がやっと切れてくれて。
早羅さんに、抱きついて、彼の首を抱きながら、泣いた。
子供みたいに、みっともない声をあげて、泣きながら。
羽を交わすみたいに、わたしの背を撫でてくれる、彼の手の柔らかさに、頬を熱くして、その上を液体となった感情が、いくつもの筋となり流れるのを感じながら。
ずっと、永遠に、彼にしがみついていたい、と思ったりした。