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神様はサイコロを振らない。だから、謝る必要なんか無いし、謝って欲しくない。

 

 ……僕はほとほと嫌になってね。

 次の日から、保育所の部屋を引き払った。

何が嫌かって、友人を失くしたこと

。周りの視線の変化。

軽蔑のほうが快適と思えるほどの、嫉妬とへつらい。

実は噛月を嫌いだったんだ、と言ってきた奴も何人もいてさ。僕は本当に嫌気がさしてね。


かと言って、山には帰れない。狼に荒らさせたのは、僕だ。猿太郎さんを殺させたのも。


 だから僕は、噛月との最後の思い出の場所である、桜の樹の下で暮らす事にした。


 生活の開始にあたり、蜂の巣も持ってきて、食料は確保した。毛布や布団も。防水防寒仕様のテントも。噛月を倒した僕を屠って名を上げようという馬鹿の対策も万全にした。


 落とし穴をたくさん掘ってね。穴の中に、ミミズの巣や、肥溜めや、単純に水や、あとは、馬鹿とかあほとか間抜けとか書いた張り紙が降ってくるという罠も仕掛けた。


 いや、あまり呆れないでほしい。


馬鹿馬鹿しいことに命を賭けれる人ってのは、そういないんだ。無価値というのかな。戦意をそぐには、馬鹿ばかしさが一番なんだよ。



 こうして完成した僕の基地でね。僕は保育所の卒業まで、全力で怠けることにした。

惰眠にひたりまくって、大したスキルも身につけずに、卒業したら、何かの任務でさっさと命を落とそう、と思った。


 完全にやさぐれていたんだな。



 そうやって、2年過ぎて、16歳になった春。


 滅道(めど)さんっていう、村の助役さんがね、保育所に来たんだ。彼と会わなかったら、僕は、防人には選ばれなかっただろうな

 

……滅道(めど)さんと会うまでの2年間、記憶というものに値する経験はほとんどなかった。


 狂濡奇とは、それまでも別に明るくハイタッチとかする間柄ではなかったけれど、もう、物凄くぎこちなくなってしまってね。


僕が保育所の部屋を出たくなった原因(もと)には、それもあるかもなあ。


 落とし穴を幾つも掘って、桜の下という安住の地を自分で作ったはずなのに、怠惰な眠りをむさぼる生活は、正直そこまで楽しいものではなかった。


昼夜問わずに眠りこけていたんだけど、たまに起きるといつも、猿太郎さんの無垢な瞳、困惑と恐怖の瞳、狼に噛まれる時の絶望の瞳とか、彼だけではなくて噛月の涙で潤んだ涼やかな瞳もね、


そういういくつもの瞳と悪い夢みたいな状況が、無限に脳内を反復するんだ。それは鳴りやまない鐘のように。でも、どうしようもできない。


 だからふて寝をする。

悪い夢は見ない。夢は無意識の鏡というけれど、無意識の僕は、大層な鋼鉄らしい。


夢の中では、良い日々しか再生されない。

悲劇は起きない。

でも幸せな、本当に何でもない日々の夢から目覚める度に、とても悲しくなる。


だから、やっぱりまた寝てしまう。

けれど、寝すぎてるせいか、上手く眠れない時もある。


 そういう場合は、ひたすら考えるんだ。


何故、噛月を殺したのか?殺さなければならなかったのか?もちろん、保育所では日常のことだ。でも、僕にとっては違う。僕は、他の子たちとは違う価値観を持った子供だった。

それを貫いてきたはずだ。

では何故?


……と、延々と考え続けて、結論が出るまでに2年かかった。

楽しい思索ではなかったけど、結論が出る事には出た。

 

 村人は、とても弱い。

 

 これが僕の結論だ。

 

噛月は、人としての強さ、光とか善性だけで人格を構成したみたいな男だった。

でもそれは、それも、彼の病理だったんだろう。

彼は、過剰なほどの光と、同じくらいどうしようもない闇を、抱えた人間だったという事だ。


ジキルとハイドと言えば分かりやすいかな?


彼という人間は、精神が分裂していたんだ。

つまり狼も人も、どちらも噛月だった。


僕がこれを認めるために、2年という時間がかかったけどね。


一旦その視点にたどり着くと、あらゆる疑問が解けてくる。


僕が友情を感じ、遠まわしに憧れてきた彼は、元から病気だったんだ。

僕は彼の躁鬱の躁だけ見て憧れていたのかもしれない。

でも彼は僕を強いと思っていた。


勘も人の域を超えた男だったから、こういう運命も薄々感じていただろう。

けれど、彼は、銀のロザリオを僕に託した。

防人になるという目的のために、全てを犠牲にする覚悟があるなら、危険を回避する覚悟も必要だったろう。


徹底的に僕から逃げる覚悟。


狼の声が届かないくらい、僕から離れれば良かったんだ。

友達付き合いなんかね、するべきじゃなかった。

いくらでも理由をつけてさ、それは出来たはずなんだ。


または、予告などせず、もちろん銀など託さずに襲う非情。

満月まで黙っていれば良かったんだ。


どちらかの行動が必要だったけれど、光に溢れた噛月は、どちらも選べずに、結局僕に屠られた。


 それは彼の弱さだ。とても心理的な弱さであり、病理だ。

過剰な善は、過剰な選択しかできないんだ。


そういう意味で、彼は弱かった。そして、これが重要なんだけど。


村人ってのは、多かれ少なかれ、因果を抱えて、歪んでいる。

そしてその歪みは、文明社会では駆逐される。

駆除と言ってもいい。


とても弱い種が、遺伝子の流れが集まった集団が、村なんだ。

そこで一つの疑問が解けた。何故、保育所は蟲壺なのか。


 ある程度の淘汰を経た個体しか、文明社会を生き残れないからだ。


 生まれた子供の全員を生かすには、一人一人の病理が深刻過ぎる。だからこそ振るい分けをして、より生存に適した個をつなげていく。

それが村という存在の意志だと、僕は解釈した。


 

 僕はこの解釈を、滅道さんに話した事がある。


悲観的過ぎるとらえ方だとは自分でも分かっていたから、嫌な顔をされるかな、と、話しながら思ったんだけど、助役さんは静かに聴いてくれた。



『それで、早羅君はどうしたいのかな?この呪われた血の集団を全部絶やして、すっきりさせたいかい?』

 僕の解釈にいちいち(うなず)いてから、助役さんは、逆に僕にこう訊いてきた。

 僕は、しばらく考え込んでから、首を横に振った。

『いいえ。できる事なら、守りたいです。淘汰される子も。淘汰をくぐり抜けた子も。か弱い種たちを、僕は守りたいです』

 こんな、恥ずかしい言葉がさ、よどみなく流れるように口から出てきたものだから、言ってしまってから、僕の頬は熱くなった。

でも、それは本音だったんだ。

僕は噛月を守りたかった。狂濡奇の隣りの彼を。僕が彼らとの世界を大切に思うのと同じように、他の子たちも、彼らの世界を大切に思っているんだ。

そういう全てを、因果と言う呪いの病理に苦しみながらも、それでも生き続ける彼らを、種を、僕は守りたいと思った。


 滅道さんの(しわ)だらけの口角が上がって、もっとしわしわになった。あの人は100歳を越えていたからね。彼は僕の頭を軽く撫でて、こう言ったんだ。


『そう。守りたいという気持ちが、大切なんだよ。防人にはね。

 名や(ほまれ)のために、防人を目指すのは素晴らしいことだけれど、その時点で失格している。……君は誰よりも、防人の資格がある。2%など、大した話ではないのだよ』

 やっと。

 紗愛ちゃん。

 君に言えた。


 僕はずっと、この2%について君に話したかったんだ。

 これは、僕の負い目だから、さ」

 早羅さんのくっきりとした二重の瞳は、うっすらと濡れた。

 しばらくの沈黙の後に、彼の独白は再開する。

 

 

「2%という言葉を僕に告げたのは、滅道さんだった。


 その時僕は、彼に名前を告げたんだ。早羅です、ってね。

 滅道さんは、

『そうか。君が、2%の子か』

 と言った。


 この、2%、を耳にする前の日、狂濡奇が僕を訪ねてきた。


 白に紅が混じった桜が、雪が吹き付けるように渦を巻く中、施設から姿を表して、静かに歩いてきた彼女は、やっぱり包帯ぐるぐる巻きでね。


相変わらず物憂(ものう)げだけれど、因果のせいで(しわ)が少し減った瞳で、僕を見下ろして、

『久しぶり』

 と言った。


 本当に久しぶりだった。


ほぼ2年前に僕が施設を出てから、僕を桜に訪ねてくる子はいなかった。

襲ってくる子はいたけどね、全員落とし穴に叩き落して追い返した。

そういうわけで、彼女とも、もちろん、音信不通だったわけだ。けれど、さすがは狂濡奇だ。


大概の子は()まる(あな)の上を、易々と歩いてくる。

質量が無いみたいだった。それはそれで凄い。


身体操作を極めないと辿り着けない域に、彼女は到達していた。


 魔眼を使わなくても、僕なんか瞬殺だろうなあ、と思った。あと、噛月の仇を討ちにきたのかな、とも。


『久しぶりだね』

 桜の根元に尻を埋めて、2年前に狼が空けた(うろ)に首を、背をその下の幹に預けながら、こう返事をした。


山林の春からは、冬の張りつめた大気は完全には去らないけれど、陽ざしには暑い季節の予感がある。


『明日は滅道さんが来るから、みんな部屋から出ないように、だって。聞いた? 』

『いや、聞いていない』

『そうよね。早羅君、保育士さんたちから嫌われてるから』

 特に彼らに何かをしたわけではないけれど、おそらくは全力で怠惰な子供だったからだろう、彼らの好意を感じたことはなかった。

むしろ、感じる感じない以前の問題でね、噛月のために何かを取り寄せるといった用事以外で、保育士たちと関わることはなかった。

けれど、そう言われたら、それもそうかな、と思った。


『そういう生き方だからね。僕は嫌われ者として生きて、嫌われながら死んでいく』

 否定を求める甘えではなくて、本音だった。


それで良かったんだ。


友人として好かれたかった噛月を、僕は殺してしまった。


狂濡奇にとっても、僕は(かたき)だ。

友人だった時は、2年という時間の向こうに薄れてしまった。


 卑屈に映ったんだろうな。彼女は軽くため息をついて

『噛月君が悲しむと思うの。……あなたが下らない死に方をしたら』

 と言って背を向けて、さっさと施設に戻ってしまった。


 僕はというと、あっけに取られていてね。

気が付けば、目のあたりがとても熱くなっていて、頬を熱が伝って、桜が吹雪く視界が、陽の光に滲んだ。


涙を熱く感じる頬は、いやに力が入っていて、口の端を左右に引っ張ってさ、とても醜い笑いの顔を作っていた。

誰かに見られたら、その誰かを間違いなく屠りたいと思うほどの痴態だったと思う。

でも、その顔を作るしかなかった。


ずっと塞がっていた胸のどこかの栓が開いて、感情が濁流みたいになって、こみ上げて、声帯の向こうに泣きわめこうとするのを、止めるためには、醜い笑顔を作って、歯を猿みたいに食いしばって、(こら)えるしかなかった。


 ようは、僕は泣いたんだけどね。

声を我慢してたから、変な顔をしちゃったってだけでさ。で、なぜ泣いたかというと、ちゃんと伝わってほしいんだけど。


 僕は噛月を殺した。

そして、2年という時間をかけて、その出来事の整理をした。

つまり、彼のそもそもの人格、光を否定することで、物事を受け入れた。

言い方を変えるなら、物理的に殺した彼を、記憶の中でも殺したわけだ。

彼は分裂型の狂人だったし、それは現実の把握としては正しい。けれど、それはそれで、物凄い寂しいことだけどね、でも。

でも、さ。

狂濡奇の記憶の中には、光としての彼がちゃんと残っていた。

男女の関係として彼と関わってきた彼女は、僕よりももっと多くの闇を、彼に見ていただろう。


けれど、闇に際立つ光の病理も含めて、彼女は彼を受け入れていた。だから僕を訪れた。


 ……滅道さんは、古代の中近東世界の王族の末裔でね。

あの人を覚悟なく見た人間は、もれなく脳の血管が石のように固くなって、頭蓋の中で血が破裂して死ぬんだ。


僕も、ほっとけば死んでいただろう。


噛月の仇だからね、彼女にとってはそっちの方が良いはずなのに、彼女は僕に教えにきた。

それが、噛月の意志だと思ったからだ。

彼の光は、彼女の中に残っていた。


 だから泣いたんだ。

嬉しいとか、幸せとかじゃない。贖罪でもない。ただ、泣いた。泣き続けて、それからやっぱり、眠った。夢は見なかった。

 

 

……起きると陽はすっかり落ちていて、月が、星々を銀色にまき散らしながら、中空をかなり進んでいたから、日付が変わっていることに気が付いた。

なんか、とても晴れやかというより、胸のつかえがとれて、吸い込む空気を軽く感じた。


 伸びをしようと思って、大きく両手を、星空に触れるみたいに伸ばしてたら、ふと。7歩向こうの落とし穴に、誰かがはまっていることに気づいたんだ。


周囲はそこまででもないけれど、深い穴でさ。中の土も(もろ)くしてあるものだから、中々砂地獄っぽい、秀作だ。

()まると腰まで埋まる。しかも、出ようと暴れると、振動で、桜の枝にセットしている玉が上から割れて、馬鹿とか間抜けとか書かれた紙吹雪が降ってくるという優れものだ。

いや、だからあまり呆れないで欲しい。馬鹿馬鹿しさってのは、戦意を削ぐには一番かなっているんだ。


 この時間の侵入は珍しいな、もしかして滅道さんかな、と思って、穴のヘリから覗いた。


 月の光の届かない暗い穴の奥底に、更に漆黒の布の塊が股下まで埋まっていた。

腰から上、上半身の高さは、深い穴の中ほどまで届いていたから、とても大きな体だと分かった。

 で、すぐにその塊が滅道さんだとわかったんだ。

視神経を伝って、全てを石に化すような、とても異質な何かが、くるのが分かったから。

冷気ではない、熱風でもない、強いていうなら、風化を伴う角質化かな? 細胞から水分が失われる強烈な感覚が波のようにしぶいてきた。


 これは気合を入れないと死ぬな、と思って奥歯を強く噛んだ。


瞬間、上から玉が割れる音がして、月夜の枝えだの隙間から、紙吹雪が降ってきた。


 はっきり言おう。


 この紙吹雪の馬鹿馬鹿しさは絶妙でね、気を抜かれかけて、つまり死にかけた。

けど、罠を仕掛けた本人がいきなり死ぬのも失礼な話だ。あと、上から見ているだけなのも。


『滅道さんですか』

 僕は、石化の闇に呼び掛けた。

『ああ、うん。穴に嵌まってね、恥ずかしい姿だが、わたしが滅道だ』

 声が穴の中でこだまして、合わせるように、闇の一部が動いて、それが黒染めのフードとその奥の包帯だと分かった。

滅道さんは、いつも鼻から上の目の部分を、包帯でぐるぐる巻きにしているんだ。

彼の本当の因果は石化ではなくて、直死の魔眼だからね。

『この穴は僕が掘ったものです。すいません』

 こう呼びかけながら、上体を伏して、助役さんに肩と腕を伸ばした。

『気にしなくていいよ。ありがとう』

 滅道さんは僕の手をつかんだ。どっしりとした、まるで大地みたいな手のひらで、僕は噛月を思い出した。


 ……助役さんは、里に来るときにちょっと道に迷って、北山の向こうから山脈をショートカットしてしまい、保育所の塀が見えたので、やっと着いたと嬉しく思い、サッカーのボレーシュート的な跳躍をして塀を越えて、子供たちを起こさないようにと静かにした着地の瞬間、僕の落とし穴にはまったらしい。


 穴に落ちる瞬間も音を立てない、不測の犠牲者を出さないための真夜中の訪問、この二つだけでも、滅道さんが物凄い人格者だと分かった。


何より、そもそもこんな所に落とし穴を掘って寝ていた僕を、責めない。

僕は、申し訳なさと、ありがたさを感じて、彼を施設の入り口まで案内することにした。

あ、それに、穴はまだまだあったからね。さすがに、2回も落ちてもらうわけにはいかない。


 (あな)の地帯を先導して抜けてから、滅道さんに背を向けてもらって、黒染めの厚布にまとわりついている紙きれたちをほろった。


『すまないね』

 滅道さんの声は、とても穏やかに夜の敷地の大気に吸い込まれて、僕はやっぱり気合がうすれそうになって、石化しかけたけど、こらえた。死んだら失礼だからね。

『いえ。当然の事ですし、威厳の問題です』

 大真面目にこう言ったんだけどね、助役さんは笑った。それから、とても楽しそうに訊いてくれた。

『君の名前は? 』

早羅(さわら)です。先祖は座敷童です』

 助役さんは、とても納得したように、または、とても不思議そうに、包帯の向こうから僕に観察の気を向けて、うなずきながら、

『そうか。君が、2%の子か』

 と言った。

 意味が分からないまま、滅道さんを見上げると、こう付け足してくれた。

 『君は98%、防人に相応しい子なんだよ。ばば様から託宣が出ている。つまり、2%足りない子なわけだ。だから、通称では君は、2%の子と呼ばれている』


青天の霹靂(へきれき)という言葉が浮かんだ。


 夜だったから、紺の濃い空だったけどね。月は下弦で、無限の星の海に浮かぶ遊覧の船みたいだった。


 助役さんの言葉は、言語としては理解できたはずだったけど、それが彼の口から出てきたものという実感は、全くなかった。


現実感というのかな。98%も、防人に相応しいというセンテンスも、欠けている2%も、全てが、バラバラに、まとまりなく僕の耳の奥を(うず)いた。


 ……呆気(あっけ)に取られて点だった僕の両目が元に戻るのを、滅道さんは辛抱強く、待ってくれていた。


 下弦の月の淡い光は、彼の漆黒のフードに染みこんでいて、その一本一本の繊維に影と立体を与えていた。

包帯に覆われた目元は、フードの形作る影に光無く沈んでいた。港に降ろされた碇みたいな大きな鼻とその下の口元が、無数の皺と共に月明りにせり出していた。


 僕は、滅道さんの因果に飲み込まれないように、奥歯を噛みながらも、胸に迫る物を感じていたんだ。


それは、喜びでも誇りでもなかった。


 噛月の笑顔に、彼を殺す前にいつも当たり前のように感じていた、あの安心感が、こみ上げてきたんだ。


そんな感覚は、とうの昔に消え去ったはずだった。


けれど、その時、完全に(ぬぐ)い去られてしまったはずの、噛月の光が。僕の胸に甦ったのを、感じたんだ。


『わたしは、君を防人にしようと思う』

 滅道さんは、しわしわの口元をさらにしわしわにすぼめるようにして、そう言った。


助役さんの言葉の響きには、迷いも躊躇い、思いつきの軽さもなかった。代わりに確信に根ざす重さ、(おごそ)かさがあった。


 僕はというと、彼がどう思っているなんてどうでもよくて、ただただ、もう二度と感じる事はないと思っていた、旧友に由来する光を、胸に感じる確かな実在を、失いたくないとだけ思っていた。


 だから、助役さんの言葉は、今度はすんなりと僕に届いて、当然のように僕の感傷と溶け合った。


結果、僕は、思ったんだ。

 彼が目指して叶わなかった夢を、彼の代わりにしよう。98%ならほぼできるはずだ。2%の欠けくらいなら、この想いで超えることができる。いや、超えてみせる、ってね。


 ……若かったんだね。僕は16の子供に過ぎなかった。自分が殺した友の感傷で引き受けるには、重すぎる役目なのに。


けれどこの時、完全に、ドン・キホーテになっていたからさ。

滅道さんを見上げて、承諾の意思を示そうとしたら、声が響いたんだ。


『助役様!  』

 てね。


 声の方向を見ると、歳のいった保育士さんが、僕らから少し離れた闇に、仁王立ちしていた。


彼は、主に保健室の担当で、熊みたいに大きいけれど、にこやかな人という印象が僕の中にあった。


でも僕は基本、まあ君も分かっている通り、自然治癒だからね。保健室には通わない。

だから関わりも薄かったのだけれど、月光の暗がりでも、鬼気が滲んでいるのが分かった。

とても怒っている。


『やあ、卑歩(ひぽ)君』

『立ち聞きをしました。正気ですか?2%の子を防人にするなんて……! 』

『わたしは本気だよ。ばば様の託宣を承った上で、判断するのが助役の務めだからね』

『完全に近い子、境間君はどうなさるのですか? 』

『彼には私の後を継がせる。助役として、時間をかける』

『……確かに、完全に近い彼なら、助役も完全でしょう。ですが、助役以前の、本末転倒です!!蜂や蟻ですら、女王を正しく継いでいくというのに……! 』

 こんな会話だったと思う。

正直あまり覚えていない。


僕が希望しているのは、98%の特殊任務に就く、それだけだったから、誰が反対しようが、どうでも良かった。

『なら、卑歩君はこの子を倒せるかな?  』

滅道さんは、どっしりとそう言った。


同じくらい重厚な手のひらで、僕の肩甲骨の辺りを撫でながらね。

卑歩さんは息を呑み、助役さんは言葉を継いだ。

『弱者は強者の定めに従う。この子の防人就任が反対なら、力で従えなさい』

『保育士が子供に危害を加えるのは禁じられています』

『特例を出そう。何、大丈夫だよ。この子のためにね、これからたくさん出すはめになる。つまり、どうということはない』

 保育士さんは、もう一度息を呑んで、今度は僕を真っ直ぐに見た。皺の深い瞳が険しかった。


 僕はというと、正直、あまりというか全く怖がっていなかった。

保育士さんを見つめ返す僕の瞳には、何のにごりも無かったと思う。

むしろいささかの潤みすら帯びていたはずだ。


それは、噛月の感傷に由来する。


 まあ、累計滞在時間が、当たり前だけど、24時間を越えていた場所だからね。

そこは僕の戦場だったし、そりゃ、卑歩さんは僕より大きくて強かったけれど、噛月より弱いし、何より噛月よりも縁が薄い。

殺し殺されるにもそこまでの抵抗がない。

むしろ、防人になるための試練としては丁度いいとすら思っていた。


身体は軽く、肌冷えのする夜の大気は肺に心地良かった。

意識がとてもクリアになってね。

戦闘の要素(きー)は滅道さんの因果だとか、計算していたのが伝わったからかな。


 保育士さんは、僕をしばらく睨んだ後で、助役さんに向き直って、こう言ったんだ。

『私はこの子に勝てません。無駄に死ぬほど無責任でもありません。この子がなりたいと言うのなら、強者の定めに従います』

 (おごそ)かな声だった。


 ……僕は、その夜から半年間。特例というか、特殊任務の形でね、保育所を出て、滅道さんと一緒に暮らして、防人の訓練を積んだ。


 でも、積めば積むほど、自信が萎えてね。野菜から水分が抜けるみたいにさ。

皮膚の下にみなぎっていたものが、喪われて、変わりに、ひりつくような焦りが、毛細血管を満たしていくのが分かるんだ。そしてそれは胃に集まる。


 けど、それでも頑張っていたんだけどね。訓練中に助役さんから聞かされた話しに、僕の胃はさらにやられた。


境間君は、防人に99.98%相応(ふさわ)しかった。

 そういう託宣が、ばば様から出ていたんだ。


 助役さんは、僕がこの事実に敏感になっているのが、それとなく分かったんだろうな。2%なんか関係ないって言ってくれたけれど、2は、0・02の100倍だ。


 ……特殊任務の相応しさってのはさ。成功確率なんだよ。


 ばば様という方は神秘的な存在で、人格というよりも因果に近い。血脈の呪いに由来する祝福が、ばば様の託宣なんだ。


だから、あの方が、98%と示したら、本当に98%なのさ。

つまり、防人という特殊任務を10000回繰り返したら、僕は200回失敗する。

対して境間君は、たった2回しか失敗しない。


そもそも、2%は大きすぎるんだ。

考えてもごらん。50回に1回誤作動を起こすロケットなんて、ただのガラクタだろう?


僕は、始めから、ガラクタと変わらなかった。

そういうのを、君が生まれる前、折に触れては、嫌というほど感じた。

なのに、旧友との感傷にすがり続けて、結局僕は防人になってしまった。


 そして、何か事ある度に必ず、僕は2%を思い出して、紗愛ちゃん、君に申し訳なく思ってきた。


 これまで。

本当に、本当、に。

 ……すまない」

 早羅さんは頭を下げ、彼の、とてもとても長い独白は、終った。

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