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10/15

彼が本気で戦う時は、本当に守りたい物があるときです。

「その日は、暦の上では、十五夜だった。


 文明社会ではお団子を食べる夜で、日本の至る所の人々が、月を見上げながら物思いにふけったり、中秋の風情に幸福を感じていたはずだったから、雲ひとつない完全な月の予感をこんなに恨めしく思っていたのは、僕くらいだったろう。


 僕は陽が完全に沈む前に、保育所の遊具場のそばの桜の樹のたもとに来て、節の太い根の筋の隙間に尻をつけて、膝をゆるく抱きながら、噛月を待った。


 背を預ける桜の後ろには、塀が、細胞の内と外を隔てる膜のように、施設を囲うために伸びていて、膜の外では、東山の(すそ)である、林が紅葉に色めきだっていた。


それらは薪をくべられた炉の中の炎のようにも見えたし、山脈の向こうを進行しながら夕の陽に焼かれる、とてつもなく大きな山椒魚(さんしょううお)のような、雲の腹のように見えた。


 彼らは沈黙していた。そよぎに囁くことすらなかった。つまり、雲を呼ぶ風はなかった。空は皮肉なほどに高く澄み切った青から、夕の陽を淡く受けて群青に、群青から紺に、最終的に濃紺になっていって。


そのグラデーションな変化と共に、世界は色彩を失っていき、塀の内側の施設の不恰好に高い屋上部分の輪郭が黒く際立って、その向こうにそびえる東山の(いただき)も、やはり黒く夜空を()いていた。


 僕は、その変化に、世界が、世界ごと、海の底に沈んでいくような錯覚を覚えた。それは、世界にとどまらず、世界が内に包む記憶ごと、つまり僕と噛月と狂濡奇の友情の日々ごと、水の底に沈めて光を届かなくさせられるような、そんな希望という希望を絶つ、静かだけれど避け得ない変化だった。


 その感覚が嫌で、早く噛月が来て欲しいと思った。


 僕には、この期に及んでもなお、期待があったんだ。


つまり、彼との戦いを、勝つとか負けるとかではない状況になんとかもっていって、彼に僕を(ほふ)ることを諦めてもらう、という期待がね。それはもちろん分の悪すぎる賭けではあったけれど、価値はあったし、だからこそ僕は全力を尽くすつもりだった。



 何事にかけてもやる気というものが無い僕が、本気で全力で彼と戦って、勝敗を全力で有耶無耶(うやむや)にしようと思った。それが僕の希望だった。とても、か細い、糸のようなものだったけれどね。


 糸にすがる僕を冷ややかに笑うように、東山の頂に君臨する月は、その存在を増し始めた。その臨在は夜空の濃紺を必要としていたけれど、その紺の濃さが完全に至る前に、施設から噛月が歩いてきた。


 ほのかに白い何かが、暗澹(あんたん)に染まった保育所に浮かんだと思った。宵の明星が地上に灯ったような錯覚を僕は受けて、すぐにそれが、彼だと分かった。


 彼は、闇の海底と化した敷地を、堂々と揺るぐことなく真っ直ぐに突っ切って歩いてきて、僕の前に立った。


 着衣は水泳用の黒のブリーフくらいで、靴も履いてなかった。

 当たり前だよね。狼になったら、裸足の方が速いのだから。服も、筋肉の膨張で、どうせ弾けて消える。彼がそのいでたちで来たのは、とても合理的な選択だし、だからこそ、合理を尽くすという、覚悟を感じた。


手加減も容赦もない全力で、堂々と僕を噛み裂くという気合が、彼の全身にみなぎっているのが分かったけれど、僕がしたことはというと、相変わらず桜の根元に尻を埋めたまま、ゆるく膝を抱いたままで、彼を見上げたくらいだった。


『やあ』

 と僕は、できるだけ何でもない風に、言った。

 噛月は挨拶を返す代わりに、僕を含む桜と塀周辺を見回して、言った。

『施設じゃないんだね。君は座敷童だから、施設の方が戦いやすいと思ったのに』

 その穏やかだけれど力強い声は、いつもの噛月のものだった。


 僕が見上げる彼の(すね)は僕の太ももくらいあって、彼の太ももは僕の胴体よりも太かった。

溶岩の塊でも埋め込んだみたいな凹凸が集まった腹も、もちろんその上の厚い扉のような胸板にも、無駄な肉は一切なくて、滑らかな肌に太い血の筋が無数に走る彼の肉体には、威厳というか神聖さすら感じた。


宵に深まりつつある闇をまといながら、うっすらと光を(たた)える肉体を仰いでいると、巨大な月桂樹でも礼拝しているような気分になった。


『僕には僕の戦い方があるのさ』

 と言いながら僕はゆっくり立ち上がり、後ろ手で尻をはたいて、土を落とすふりをする。


その一挙手一投足に、獲物を見定めるような視線を注いでいた噛月の虹彩は。宵の闇の中で。完全な月の下で。


 金色に変わった。


 血色の良かったその頬も、爽やかに切りそろえられた黒髪も、その下の太く穏やかな眉も、、整った高い鼻の輪郭も、微笑みを浮かべつつも強い意志がみなぎる口元すらもそのままで、まず、彼の瞳の虹彩だけが、地平から上がった月のような血の鮮やかさをはらんだ、金色に変わった。


 その瞳には、とても忘れ去られたどこかから、誰かが目覚めていくような、そんな輝きがあって。

彼の瞳孔が収縮していくにつれて、その輝きは増し、光を(たた)えていた彼の全身は闇に沈んだ。


 そう、それはとても大きな闇、そのものだった。肉体ではなく闇があって、その向こうに金色(こんじき)があって、僕を見定めて。


 そして、それは現われた。

 猿太郎さんよりも長い銀灰色の毛が、噛月の3倍以上に膨らんだ図体の全てを覆っていた。

僕は象の絵を思い出した。

象を二足歩行にして、腹や顎を覆う脂肪を全部筋肉に()えて、代わりに雪男みたいな長い毛で覆ったらこんな感じになるんじゃないかなという、いでたちだったけれど、金色の瞳は、そのままで、むしろその宿す狂気の渦は、臨界に限りなく近づいているのが分かった。


『さぁわああるぁああ』

 血の臭さを含んだ蒸気が僕の額にかかって、それが狼の吐いた息だと分かった。

 不謹慎というか、やっぱりというか、その息は、下品ですまないけれど、男の肉体に溺れる女が漏らす、官能の吐息のような響きを、はらんでいた。


 返事をする代わりに、眉をひそめた。

不快だったからだ。

本当にいい迷惑の全てが、この狼のせいだからだ。狼はそんな僕などおかまいなしに、そのせり出した犬みたいな鼻を、僕の頬に接近させながら、こう訊いてきた。


『まっていたずぅえええええ。てめぇもだろおおおぉぉぉぉ? 』

 僕は答える代わりに、それの無防備な鼻に、胡椒を瓶ごとぶちまけた。

 尻のポケットに入れておいて、立ち上がる時に蓋を外したんだ。


 狼はのけぞった。

 僕は斜め後方に飛び退(すさ)った。

 僕のいた空間を、狼のかぎ爪が弧を描いて、桜の樹の梢をかすめて、それはかすめただけなのに、3分の1が、一瞬で円く(えぐ)れた。


 塀を背面高飛びみたいに越えながら、視界に入る桜の惨状に心を痛めつつ、やっぱり、と思った。


狼は、やっぱり、噛月とは正反対なんだ。つまり、噛月は、礼儀正しく、慎み深く、慎重で、頭がいい。狼は逆で、凶暴で、自制がきかなく、向こう見ずで、行き当たりばったりで、馬鹿だ。これは僕が思っていた通りだ。


基本的に、物語で怪物を倒すのは、人の知恵だ。知恵ある怪物に人は勝てないけれど、この狼には知恵がない。


 ……なんとかなるかな、と思ってすぐ、僕はまた、やっぱり、と思った。


 狼は、塀を粉々に砕いて追ってきった。


 僕が(あらかじめ思い描いていたのは、塀を乗り越えてくることだった。乗り越えるには、飛びあがる、手をかける、着地する、の3動作が付いてくるものだけれど、狼は、砕くという1動作で塀を突破してしまった。


 やっぱり、噛月は、狼になってもなお、僕の予想を超えるんだなあ、としみじみ思った。


 まあ、それが塀を粉砕したのは、くしゃみが一頻(ひとしき)り終わった後だったから、僕はというと、すでに東山に逃げ込んでいたんだけどね。


 もちろん、噛月の予告のとおり、狼は追ってくる。僕はひたすら逃げる。


 さっきも話したけど、僕は座敷童だから、累積滞在時間が24時間を越えた場所では、何がどうなってるのか、自分の身体以上に、把握できる。


山の斜面に脈づく樹の根が、どう梢につたい枝を拡げ、紅葉の枝を別の樹と交わすのか。交わされた紅葉の枝は、どうその軌跡をしなげて梢に一旦収束して、次の樹と交わっていくのか。その環のような連なりを、僕は、手に取るように、というより、手や足の一部のように分かっていた。


ちょうど、木材その他の素材の塊に過ぎないヴァイオリンを、音楽家が指先の延長のように感じるみたいにね。


 僕は紅葉の作る月光の影を、ひたすら駆ける。木々の隙間や梢の上、最短距離を飛ぶように進む。


いや、違うな。梢が、枝が、月光に紅くすける葉むらが、後方に飛び去っていくんだ。月光は方向をおのずから開き、僕は合わせるように、枝に手をかけ、身をくねり、のけぞり、脚に力を込めて解放する。


そこには無駄も迷いもない。

ずっと親しんできた山だからね。その夜の僕は最速だった。


 一方、僕を追う狼は、最短だった。


彼は最速の僕よりも、速さ自体は慣れない山の斜面ということもあって、遅かったけれど、一直線なんだ。


つまり、塀を粉砕したみたいに、立ちふさがる木々の全てを粉砕して、僕を追っていた。


 それにとっては、樹も、岩も細かな凹凸も関係ない。僕が仕掛けておいた罠、蜂の群れも、踏み入ると(せき)が外れる濁流も、脇をえぐるはずの丸太の先も、全く関係ない。


山を逆に上がる土石流のような勢いで、山という世界を構成する全てを粉々にしながら、怒涛となって僕を追ってくる。


 僕は、それが罠を踏む度に、噛月なら踏まないのに、やっぱり狼は噛月より弱いな、と思ったけど。


噛月と狼の差というのは、アフリカ象とインド象の差みたいなもので、蟻にとっては、どちらも致命的なんだよね。


 狼は、どの罠にも漏れなく引っかかる。けれど、ほんのわずかしか、止まらない。それは僕の予想とは違った。もう少しくらいは止まってくれるとふんでいたんだけどさ。


 さすがは噛月だ、と思いながら、僕は紅葉の影を、枝枝の隙間を飛び続けた。


止まりはしない。けれど、予定が違ってきた。


狼と僕の距離は開いている。けれど、開き方が足りない。このままでは最後の罠に至る前に、追いつかれる。それは将棋みたいなものだ。それでも僕は、逃げるしかない。


 山が崩れるような音が後ろから(とどろ)いて、背中の皮膚の産毛が小刻みに震えるのを感じながら、僕はひたすら最速の維持に努めていた。



 そして、月光のせいで影絵のようになった視界の端にね。

 猿太郎さんを見つけたんだ。

 

 そこは丁度、山頂に向かう登りと、谷の上をなぞるくだりの分岐だった。


 僕の脳の内側で、全ての地形と、迫り来る狼、降り止まない銀の月光、猿太郎さんの存在が、目まぐるしくごちゃまぜになった。

それから、猿太郎さんに怒りを覚えた。


狼の突進、山を(えぐ)りながら駆け上がるその轟音、暴虐とも言える狂暴に、山の動物たちは全て、鳥も鼠も猪も狐も、みんな逃げ去ったはずなのに、友達である彼だけが、この分かれ目に、間抜けな顔でここにいる。


間抜けだとは知っていたけれど、ここまでだとは。


 でもその怒りは、八つ当たりだったんだ。それは、狼に追い詰められつつある焦り、とかじゃなくて。蟲壷の中での共食いを(さげす)んできた僕自身の、偽善に。


 ……僕の中に、一つの案が産まれていた。


その案が産まれる、というのは、僕が、村人であるという証拠だ。


でも、この案を本当にするくらいなら、狼に裂かれた方がましだと思った。


これは最悪の最悪だ、とも。でも、その時。噛月と並んで歩く、狂濡奇の後姿がね。浮かんだんだ。


 黄昏に輝いていて、二人の愛とか幸福とかを、饒舌に語っていた。

豊饒と言ってもいい。


噛月は、噛月だからこそ、狂濡奇の隣が似合っていた。その噛月は、狼に負けて、僕を殺した悔いを糧にするような、弱虫では駄目なんだ。


この夜にかかっているのは、満月に沈められた、世界が内に包む記憶だ。つまり僕と噛月と狂濡奇の日々なんだ。


 こんな風に、物事ってのは最悪の最悪に進むようになっている。

 

 僕は、首下にかけたロザリオ以外の服を、全て脱いで、ズボンと下着を丸めて遠くに放ってから、猿太郎さんの所に行って、上着を彼の首に巻きつけて、ちょっとやそこらでは外れないように、しっかりとマフラーみたいに縛った。


 彼はお座りの姿勢で、不思議なものでも見るように、その深い瞳で、僕を見上げていた。


 僕は、ごめんよ、と言ってから、右手のひらを大きく張って、僕自身のみぞおちを力いっぱい叩いた。その衝撃は肉を超えて内臓、この場合は胃だね、に届いて、中が破れるのが、痛みと共に分かった。痛みの波と共に、血液が食道を逆流する。口の中に血が溢れて、喉とか気道を塞いでくる。


 それが十分な量になるのを待ってから、猿太郎さんの顔に、その全てを吐きかけた。


彼の顔は血みどろになって、白っぽかったその毛の一本一本が、ワインでコーティングされたみたいに、月光になまめかしくきらめいた。


 猿太郎さんは、どんぐりのような目を大きく開いた。


驚いたんだろう。僕は彼の瞳を見据えて、睨んだ。

こめかみには血管が浮いていたと思う。目を見開いて、歯をむき出しにしていたからね。視線には殺気を込めていた。殺気というのは分かりづらいね。


『お前を喰ってやるぞ』

 という語りかけを、視線に込めたと言ったほうがいいかな。


 猿太郎さんの瞳には、困惑が、続いて混乱が、最後に恐怖が浮かんだ。恐怖は彼の全てを浸したんだろう。彼は谷をなぞる下りに向かって逃げ出した。


 僕が幸運だったのは、彼は狼の轟音に向かって逃げるほど、間抜けではなかったということだ。

それに、逃げるなら谷の方だと分かっていた。僕らはよくそこで遊んだからね。つまり地形的にも慣れている。


 僕は彼を見届けるように、分岐の坂の木々の空間を、彼と平行に駆け上がり始めた。


僕と猿太郎さんの高低は、みるみる開いていく。それは運命の距離とも言えたかもしれない。


 うん。そうだよ。彼を、おとりにしたんだ。

身代わりかな。


猿太郎さんには、僕の匂いがついた上着と、血がついている。

血は狼を惹きつける。


苛麟を()いた手を、その血みどろを、噛月が舐めていたのが、その現われだ。


僕はズボンも遠くに捨てて、猿太郎さんと並行している。つまり、狼には選択肢が3つある。


ズボンに行くか、鮮烈な血の匂いに行くか、一番匂いの薄い僕を追うか。


 まあ、噛月なら、罠だと思うだろうし、立ち止まるだろうけれど。狼だからね。因果の狼は、馬鹿だ。


 それは、谷をなぞる下りの勾配(こうばい)の奥で、猿太郎さんの胴体を右手で捕まえて、大口を開けて、彼の頭部ごと噛み千切った。


 僕はその瞬間を、彼らのはるか上空、空中からつくづくと見守っていた。


 見渡す限り紅葉が暗く燃え広がる、夜の山林を覆う大気が、月光にすかされながら、僕の四肢を駆け抜けていった。


 登りの道から、狼が彼を捕らえた瞬間に夜空に、跳んでいたんだ。


 僕の肉体が登りの崖から描いた放物線は、丁度、狼の頭の毛並みに照準されていたし、僕は体質的に影がないから、月光も影で僕の存在を狼に伝えるということをしなかった。


何より、狼は、猿太郎さんの頭部を噛み砕きながら、僕の血の味に酔っていたんだ。


 僕は、咀嚼を楽しむ狼に、上から激突するほんの前の刹那に、宙返りをして、それのこめかみを、思いっきり蹴り飛ばした。


 狼は体勢をぐらつかせたけれど、倒れはしなく、むしろ、よろめきながらも、猿太郎さんの遺体を握った右手ごと、僕に拳を打ち下ろしてきた。


 不完全な姿勢だった。


噛月ならそんな体勢はとらない。


僕は狼の拳を避けながら、その股をくぐり後方に回った。


それの拳は、谷をなぞる道つまりそれの足場を(えぐ)り、足場は崩れ、それの重心はさらに不安定になった。


僕はありったけの力で、それの尻を、後ろから蹴った。


 結果、狼は谷底に突き落とされた。


そしてその谷底には、話したのを覚えているかな?


僕が猿太郎さんを突き落としたことがある、特殊なツタというか(いばら)があるんだ。


この茨のトゲはね、毛をからめ取り、粘着して離れない。暴れれば暴れるほど、深く深く食い込む。食い込むトゲに引っ張られて、茨本体も巻きつくものだから、さらにどうしようもない事になる。


蝉が蜘蛛の巣にかかるようなものだね。

蝉は蜘蛛の糸よりもはるかに強いのに、絡めとられて、自由を奪われ、体力が尽きて、食べられる。


 狼は蝉に似ていた。

激しく動き振りほどこうとするその動きが。けれどもちろん、ほどけるわけがない。

なんせ、茨は茨で、他の同種と絡み合っている。つまり、谷の茨全体で、狼を絡め取っている構図なわけだ。


 僕は、若干の脱力と共に、それの情けない有様と、それが右手に握った肉塊を眺めてから、それの胸元に向かって跳躍した。


 着地は難なく済んだ。


狼の胸元は、ペルシャの絨毯(じゅうたん)みたいにフカフカしていたよ。


彼の四肢は、アメリカの映画に出てくる拘束服とか、蛹か繭みたいに茨で巻かれていてね。せり出た口元も、哀れったらしく、やっぱりグルグル巻きで。金色の目だけが血走りながら、僕に殺意を叫んでいた。


『気分はどうだい』

 僕は彼の胸板の上にしゃがみ込みながら、訊いた。返事は無い。当たり前だ。口は開けるわけない。代わりに茨が、狼の顔面に食い込んだ。


僕は構わず続けた。



『僕は最悪だよ。君が右手に握っている肉は、僕の友達だった』

 狼の瞳が、残酷にきらめいたので、僕はため息をついた。

『もう、止めないか?

 今なら僕は君を殺せる。けど僕は殺したくない』

 首にかけておいたロザリオを、それにかざした。

銀の十字架は月光を受けて、淡くきらめいた。妖精でも集っているみたいだった。


僕は言葉を続けた。


『君が殺した僕の友達は、僕みたいなもんだ。

 それで満足してくれないか?君は十分に僕を打ちのめした。

 君が満足するなら、僕はいくらでも負けを認める。施設に帰ったら、僕が命乞いをして、惨めで哀れだったから、興をそがれたとか、適当に言えばいいし、僕も口裏を合わせる。

 だから、もう許してくれないかな?こんなのはもう、たくさんなんだ』

 かろうじて話ができる程度に、それの口元の茨を緩めた。

『わっかったあぁぁぁぁぁぁぁぜえ。さわらはああぁぁぁぁ、さすがはおれのだちだなあ』

 狼の口からでた言葉に、意味は無かった。僕が耳を澄ましていたのは、その響きだった。


その中に少しでも、噛月が混ざっていれば、つまり、恥じとか、誇りとか、友情とか、そういうものが混ざっていれば、僕はそれの茨を解いただろう。


 けれど、実際に返ってきた響きは、狡猾を隠し切れない媚びと軽蔑だった。

それが開いた口元の奥から、白い毛と砕かれた頭蓋に混じって、眼球がのぞいたのも、僕を打ちのめした。


その眼球は猿太郎さんのもので、つい先ほどまでは、深い色をして僕をのぞいていた瞳だったからだ。


 僕はため息をもう一度ついて、目を伏せて、無言でロザリオを握り直した。


『はああああぁぁぁぁぁぁぁl!?

 おれをやるのかぁぁぁぁぁ?あそびやがったなああああああ!!

 このへたれがああぁぁぁぁ。おれをはめれるくせによぉぉぉぉ!

 にげまわりやがってええええ。ずうううううっとごまかしこきやがってえええええ。

 しってるかぁぁあ。おおかみのおれじゃねえ。にんげんのかみつきはなあ。……さわら、おまえのことが、ずっときらいだったんだぜ』

 狼は(ささや)くように言って、僕の心臓は震えた。


 いや、保育所の皆からの軽蔑は慣れっこだったんだけどね、噛月には。噛月だけには、軽蔑されたくなかったんだ。


僕らには、強いとか弱いとか、そんなものを超えた友情があると、信じていたから。未来を夢見る子供みたいにね。


 僕は、茨で狼の口先をグルグルに巻いて、喋れなくした。声を聞きたくなかったからだ。吐き出す息の生暖かさも、奥歯からのぞく猿太郎さんの無残も、全て不快だった。


 とても憂鬱な心で、再びロザリオを握り締めた。

 その時。よりによってその時にね。


 上空の月光。夜の果てしない濃紺。銀の星屑の王。月が、薄らいだんだ。


 噛月が、身体は狼だけど、顔面から毛がばらばらと抜け落ちて、せり出すような顔面の腫れも、突き出た牙も奥に引っ込んで、噛月が。

 現われた。


『早羅、僕は』

 声も、瞳も涙ぐんでいた。僕は彼にうなずいた。


 刹那、雲は晴れて、彼は狼に戻った。


 僕はすぐさまそれの口を茨で塞いで、頭を抑えて、銀の十字架の長い部分をね。



 狼の頭部、耳の穴に挿しいれて、中を掻き回したんだ。


 そう、ずっと前に、土佐犬にしたみたいに。


 僕はもう、狼の罵声を聴きたくなかった。本当に、聴きたくなかったんだ。

 

 

 ……山から戻ると、破壊された塀のそばに狂濡奇が立っていたので、彼女に、赤に染まったロザリオを差し出した。

『噛月をこれで、屠った。彼は山で人の姿で寝ている。もう目覚めることはないけれど、埋葬される前に、逢いたいなら逢いに行けばいいよ』

 彼女はロザリオを受け取って、裸の僕の横を通り過ぎて、山に歩き出した。


 その後姿がね。月光のせいか、とても寂しくて、僕は声をかけてしまったんだ。


『ね、狂濡奇さん』

『何?』

『僕を、殺さないのかい?僕は噛月を殺した』

『あなたの言葉に嘘を感じないもの。噛月君にも』


 彼女は僕を振り返らないで、そんなやりとりを僕として、東山の闇に消えていった」

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