ピュトンの民族と最後の調和時代
フルーラは鼻歌交じりにお気に入りのハートを象った白い石鹸を取り出すと、自身の身体を丁寧に洗った。花柄のスポンジを持った手が首筋、肩から腕に滑り、また上がって胸、腰へと落ちてゆく。彼女は必ず上から下へと順番に洗う派であった。
この石鹸が、また良く泡立つのだ。広めの浴槽があっという間に泡だらけになっていく。
風呂というものに初めて入った時は彼女もその使い勝手に戸惑ったものだが、今ではいかにも都会に住む綺麗好きな女性らしく、大の風呂好きになってしまった。何となく一日に朝晩と二度も入ってしまって、セインに呆れられたりするほどだ。
身体を洗い終えると、今度は髪に取り掛かった。軽く天然パーマの掛った腰まで長さのある桃色の髪の毛をかき上げると、ふわりと広がった。そのまま頭皮を揉むようにして洗い始める。
髪の色に関しては、アメリカに来てからも思った以上に問題にはならなかった。最もセインにはあまり人前には積極的に出ないようにと注意されてはいるけれど……人に会う機会があっても、みんな大抵勝手に髪を染めているものだと解釈してくれる。どうにも、都会では髪の色を変えるのもお金さえ払えば簡単にできることらしい。
「え、何? 泡がかかるって? ごめんごめん、これでも結構気をつけてるのよ」
フルーラは際限なく広がっていく泡の洪水をかきわけて、そこにあるものへと話しかける。日用品の棚の端っこにちょこんと乗っていたそれは、モンステラの鉢植えだった。
「お風呂場に話し相手がいたら素敵だと思ったんだけど、貴方はやっぱり陽がたっぷり当たるベランダの方が良かったかしらねえ」
フルーラはにこりと笑って、子供の手のひらのように可愛らしいモンステラの葉をとんと突いた。葉は微かに揺れて、また静止する。
「分かったってば、今元のとこに戻してあげるから、待っててね」
フルーラは植物と会話をすることができる能力を持つ。彼女は元々ピュトンの民と呼ばれる桃色の髪を持つ集団の一員だった。ピュトンとはギリシャ語で”植物”全般を表す言葉だ。そのように名づけられるだけあって、この一族は代々植物と言葉を交わすことができるのだった。
フルーラは手早く頭を洗い終えて、ざっとシャワーを被り泡を落とすと、バスタオルを腰に巻きつけて早速モンステラをベランダに移すために持ち上げた。
風呂場から出てリビングへと足を踏み出すと、セインがこちらを見て固まっている。あまりに驚いた様子で、終いには手に持っていた紙のようなものをテーブルの上に取り落とした。フルーラは小首を傾げる。
私、また何か変なことしちゃったかしら。
「フルーラ、服! 服!」
セインはあからさまに動揺しながらフルーラに向かってびしっと指を突き付けた。しかし視線はわざとらしくフルーラから逸らされて床の方に向いていた。
「服……あ、違うのセイン。モモをベランダに出してからまたゆっくりお風呂につかろうと思って……」
モモとは今手に持っているモンステラの呼び名だ。近所の雑貨屋で購入した時にフルーラが命名した。モモはシャワーの時かかった水滴を滴らせてきちんとフルーラの手の中におさまっている。
「いや後でお風呂場に戻る時でもできれば出る時は一回服を着てほしいんだけど」
「そうなの? どうして?」
「ええと、こっちではそういうマナーだし……」
「都会のマナーは色々あって難しいわね、取りあえず先にモモを置いて来るね」
「ちょ」
ちょっと待って、とセインが止めようとするのも虚しく、フルーラはそのままの格好でベランダへと向かおうとした。しかしその途中で彼女はふと何かに気がついたかのように、足を留める。フルーラが見ていたのは、さっきセインが取り落とした紙だった。黄色の封筒と共に、字がびっしり書いてある便箋が二、三枚ほどある。
「また、研究所から?」
フルーラが尋ねると、セインの表情が険しくなった。セインは手紙を恨めしげに睨めながら、フルーラの問いに頷いた。
セインは元々、人類学を専門に扱う研究者であった。彼はまだ若く経験も十分に積んでいなかったが、その分だけ研究に並々ならぬ熱意を持っていた。特に最近話題を集め始めたピュトンの民族についての研究は、単なる民族の文化の多様性に関する一データとしては終わらない……植物の言葉を解するという彼らの特異な力は、解明できれば今後の科学の発展にさえ寄与し得るものだった。セインはピュトンの民族に関する本格的な研究を行う第一人者として抜擢されたことを、心底誇りに思っていた。だから今から約二年前に行うことになった現地滞在による調査に勇んで出かけて行ったのだった。
しかし彼が二カ月ほど現地で暮らして感じたことは、ピュトンの民族は不思議な力を持つ神秘的な存在などではなく、ごく平凡な生活者に過ぎないということだった。彼らは確かに植物と会話をするが、それだけだ。セイン達研究者のように、その能力を利益のために利用しようとしたりはしないし、むしろそういうことを心の底から嫌っていた。ピュトンの民族達は、ほとんどが自分達の生活に唐突に入り込んできたセインを疎ましがった。セインは孤独を感じながら、彼らの日常を黙々と記録に納めていった。
そんな中一人だけセインを気にかけてくれた少女がいた。少女の名はフルーラだった。
セインの報告書を覗いて、興味深そうに「何?」と目で訴えかけてきたフルーラ。セインはあの時初めてピュトンの民族とコミュニケーションを取りたいと、心から願ったのだった……
セインとフルーラはまず互いに自分の言語を教え合った。ピュトンの民族の言葉はギリシャ語に近いが、少し違った。フルーラの英語の習得の早さには目を見張るものがあった。もしかしたらピュトンの民族は知能も高めの傾向があるのかもしれない。
言葉が通じるようになると、今度はお互いの文化について情報を交換した。フルーラはピュトンの民族独自の作法などについて教えてくれた。
「植物を……食べる時にはね、摘む前にこうやって手を合わせてお祈りするの、お願いしますって。それで駄目って言われたら、摘んじゃ駄目」
「それっていつまで経っても摘めなくないかな。植物だって生きていたいんじゃない?」
「ううん、植物って動物よりずっとずっと物分かりが良いのよ。時期が来たら、ちゃんと摘ませてくれるの。でも許可を取らないで摘んでしまうと、周りの植物まで一緒に萎んでしまったりするのよ……仲間が勝手にもぎ取られてしまうのは、あんまり悲し過ぎるんだわ。だからしっかりお願いしてから摘まないと」
セインは持ち込んできた様々な道具を見せてあげた。双眼鏡、各種計測器、携帯電話、ビデオカメラなどなど……フルーラは感激しながらそれらが動くのを眺めていた。
「これ、一体どうやってるの? 魔法みたい」
フルーラはビデオカメラに自分の姿が映し出されるのをさも面白そうに観察する。
「魔法じゃないよ、ちゃんと仕掛けがあるんだ、ちょっと複雑で一言で説明できるものではないけれど」
「すごいわ……」
セインは思わず肩を竦めた。現代にも文明の利器にここまで驚嘆する者が皆無ではないということは、当たり前の事実ではあるのだが実際に目にしてみると不思議な心持がした。
「アメリカまで来れば、もっと色んなものが見られるよ」
「良いなあ、見たいな……」
フルーラは残念そうに瞳を伏せてそう言った。そんなことは自分には到底無理なことだと思ったのだろう。
フルーラはとても純粋な少女だった。丁寧な花の刺繍が施された白が基調の素朴な民族衣装を纏ったこの少女は、朗らかに笑い、透き通った声で話す。艶のある桃色の髪は美しく、優しげな蒼い瞳は人を惹きつける魅力があった。
天使のような、と言っては陳腐かもしれないが、そんな表現があまりに似合う。
セインはフルーラと交流を深めるにつれ、却って報告書が思うように書けなくなっていった。彼女はもうセインにとってただの研究対象ではなくなってしまっていたのだ。
ある日セインは中間報告のために一度研究所へと帰ることになった。慌ただしく簡易報告や書類の整理などして、またすぐにピュトンの民族の村へと向かう。
あの時セインがたまたま研究所のドア越しにあの会話を立ち聞きしなかったら、今頃どうなってしまっていたのだろう。セインは身体中が凍りつくような思いで振り返るのだった。彼はその何気なく交わされるやり取りを聞いて、ぞっとするような悪寒が身体をすうっと通り抜けていく感触を味わったのを今でもまざまざと覚えている。
「ピュトンの民族だろ? あれしんどそうだな。担当の奴が目を回してたぜ」
「一人捕まえて来てラボの連中と組んで人体実験することになってるんだって? 計画書見たら結構際どいな。大丈夫なんだろうか、最近は色々うるさいし……」
「やむを得ないんだろ、あれだ、例のオーストラリアで起きてる異常現象。現地じゃ軍隊まで動き出すくらい悲惨なことになってるらしいな。こっちとしちゃ映像見ても最早ファンタジー過ぎて実感わかないんだが……放っとくと五十年後には世界中有害植物だらけになるとか、本当かよって」
「あれの解決のために政府が焦って研究後押ししてるらしいね、それでうちにも上手く成果出したら多額の援助が出るって話で……」
セインは聞きながら、唇を思い切り噛んでいた。唇の端が切れて血が一筋顎へと流れたが、拭いとることもしなかった。
思考の断片が頭の中で掬われて声になる。でもセインは理解できない。その切迫した音声をセインは意味の分からないセンテンスとして無造作に聞き流していた。
何で? 何でだ? そんな話、今まで一言も聞いていなかった……
最初っから、そういうつもりだったのか? そういう心積もりで僕はピュトンの民族の村へと送り出されたというのか……?
「セイン!」
村へと帰ってくると、フルーラはいつものように飛びきりの笑顔で出迎えてくれた。
しかしセインはちらりと一瞥すると、フルーラを無視したのだった。早速机に資料を投げ出して、初めて来た時のように黙々と研究に取り掛かった。
「セイン、どうしたの、ねえ、何かあったの?」
フルーラは大きな瞳を寂しそうに揺らめかせてセインを見つめていた。
「あっちへ行ってくれ。研究の邪魔だから」
セインは厳しい声音でフルーラに言った。フルーラの表情が、見る見るうちに悲しみに染まっていく。フルーラはセインが自分と話す気がないということが分かると、俯いて「ごめんね」と言うと、その場を去った。
フルーラとの交流を止めてからは、ほとんど何の驚きも喜びもなく日々が過ぎて行った……とうとう、セインが村から完全に引き上げる日が間近となった。セインはピュトンの一族達を集めて、事細かに説明した。ピュトンの民族に関する研究は世界の自然環境の改善に関わるかもしれない一大事業であり、それを進展させるためにピュトンの民族をどうしても一人、研究所に連れ帰る必要があると……誰か一人で良いから、協力をお願いできないかと、セインは絵や図なども交え、かつてフルーラから教えてもらったピュトンの一族の言語も簡単に用いて分かりやすく解説した。
当然一族達から返ってきた反応は困惑であった。彼らはざわざわと話し合って、時折こちらを見たが、やがて一族の長老がこちらを見て首を横に振った。当たり前の結果だった。
セインが更に説得しようと口を開きかけた時……フルーラがセインに駆け寄った。彼女は息を弾ませながらも、はっきりとこう言ったのだった。
「セイン、私行くわ、連れてって!」
これにはセインも度肝を抜かれた。一族の者達は不安げにフルーラに視線を送った。フルーラの母親が泣きそうな声で何か言うと、フルーラの側に寄って抱きしめる。フルーラもまた、母親を包むように手を広げたのだった。
「本当に君は……それで良かったのか」
一族の猛反対を何とか説得して早速荷造りを進め始めたフルーラに、セインは尋ねた。フルーラはセインが彼女を冷たくあしらうようになっても、相変わらず変わらない明るさでにっこりと微笑んでくれる。
「私、外の世界を見てみたい……この村は素敵だけど、外の世界もきっと素敵なんだろうなって、それに……」
フルーラは一旦区切ると、真剣にセインを見つめた。
「セインの側にいたい……セインの役に立ちたい……そういう気持ちがどんどん溢れ出してきて、止まらないのよ。だからお願い、私を貴方の世界に連れて行って」
フルーラは……急に態度が変わったセインのことを全く疑っていなかった。そんなことは、きっと夢にも思わないのだ。
本当に天使みたいな少女だ、とセインは改めて思った。
「僕は……」
一体何を言おうとしたのだろう……続けるべき言葉が見つからない。セインは顔を上げて、久々にフルーラの顔をきちんと真正面から見た。フルーラの目が見開かれる。
「セイン? 貴方――」
フルーラの手が、遠慮がちにセインの頬に添えられた。
「どうしたの、悲しいの? どこか痛いの……?」
フルーラの気遣いによって初めて知覚した。セインは知らず知らずのうちに涙を零していたのだった。
「ぎりぎりまで、説得はしたんだ……でも駄目だった。責任を果たせって……」
セインは震える声で言った。そして自分の中で起こっている感情の洪水にを認めざるを得なくなると、耐えきれなくなって叫んだ。
「僕は……僕はどうしたら良い!? どうしたら良かったんだ!」
一度栓を抜いてしまえば、最早堰き止めることはできなかった。セインはまるで子供のようにおいおいと泣きじゃくった。フルーラはそんなセインの背を収まるまでずっと撫でてくれていたのだった。
結局セインはフルーラと共にアメリカへと向かった。しかしセインはフルーラを研究所までは連れて行かなかった。そのまま彼女をつれて引っ越し、研究所へは辞表を出して後は知らんぷりを決め込む形で雑多な問題を強引に解決してしまったのだった。
研究所からは前の住所から転送されてきた責任を放り出した職員への追及の手紙がひっきりなしに来る。フルーラがここにいるということもいずれはばれてしまうだろう。ばれたところで研究所側も早々手荒な真似はできないだろうが、やはり心配なので近々また移転し今度はイギリスで暮らすつもりで着々と準備をしていた。
村にいるピュトンの民族達のことも気になるが、さすがにそこまではセイン一人では手に負えない。取りあえずフルーラを守ることを最優先に考えるしかなかった。
今のところは生活は何とかなってはいるものの、今後のことを考えるとやはり気は重くなった。
「こういうのも、駆け落ちって言うんだろうか……」
セインは取り落とした手紙をテーブルに載せると、ぼそりと呟いた。
「駆け落ち? って何」
フルーラが水滴が光を反射して時折きらきらして見えるモンステラを持ったまま聞いてくる。無防備にバスタオルがはだけて彼女の柔らかそうな太ももが露わになっていた。
「あー、今言ったことは忘れてくれ……て言うかまじで服着てフルーラ……頼むから……」
フルーラは何気なく手紙とセインを見比べる、そして最後にモンステラのモモを見た。
「ね、セイン、そんなに心配しなくても大丈夫よ、何とかなるわ」
フルーラはいつものようににこりと笑った。言っていることに例え何の根拠もなくても、この笑顔には癒されざるを得ない。
「何とかなると良いよね……」
セインは何の気なしに言う。彼は既に生活費のやり繰りに関心が移り始めていた。貯金で何とかなると安易に思っていたが、案外微妙に足りないかもしれないのだった。
となると引越し前にこないだ始めたアルバイトに掛け持ちしてもう一個何かやらなければまずいかもしれない……どっかに少ない時間で沢山稼げる都合の良いアルバイトとか転がってないだろうか……
「モモもそう言ってるのよ、セインは良い人だからきっと大丈夫だって」
フルーラはこのつい最近できた友達に「そうだよね?」と確認するように目線を合わせる。
良い人だと言う理由で上手く行くなら、世の中苦労はしないのだが。心の不安が悪戯に広がってきたセインは、ノートを取り出して熱心に生活費を計算し始めた。
フルーラは何を思ったのか、モンステラをテーブルの上に載せると、セインに横から抱きついた。
「!? フ、フルーラ、裸でそれはやば、服、服を……!」
フルーラの輪郭がダイレクトに伝わってくる。セインの肩にさらさらとかかるフローラの髪からは、洗い立ての石鹸の甘い香りがした。
フルーラはあちこちゆでだこのように真っ赤になって口をぱくぱくさせているセインの耳元で、こう囁いたのだった。
「セイン、大好きよ」
ここまで読んで頂きありがとうございますm(_ _)m
なろう初投稿作品です。短編の割に妙に込み入った話になってしまいました。次回からはもっとバランスを考慮したいところ。