FILE.3-2 人殺しと死神②
「では、改めて聞きますが……その貴方の持つ『不幸』――本当に買い取っていいんですね?」
「あぁ、頼むよ」
男はどこか疲れ切った顔を浮かべながら、ため息とともにイルに買い取りを依頼した。
「では……」
イルはすっと立ち上がると、おもむろに男に手を伸ばす。
それからずぶりと男の身体の中へとイルの手が入り、男が望んだ通りに『不幸』が買い取られた。
僕はその依頼主とイルの二人を、ただ見つめているだけでしかなかった。
自分が無力だとは思わない。
自分に何かができるとは思わない。
なぜなら僕は僕であって、依頼主のヤクザではない。イルという名前の死神でもない。自分は他人にはなれない。どこまでいっても、生まれてから死ぬまで僕は僕なのだから。
心が壊れた僕に、ただの人間である学生の僕に何ができるというのだろう。
◆
カランカランとカウベルの音が再び店内にこだまする。男は何も告げず、静かに去った。
後に残されたのは僕とイルの二人だけだ。僕はテーブルに置かれた、一度も口をつけられなかった湯呑みを片付けていた。
その湯呑の中で揺れる波紋をぼんやりと見つめながら、僕は思う。
なぜ依頼主の男はイルを頼ったのか。
――決まっている。それは自らの『不幸』を買い取ってもらうために。
では、その『不幸』とは一体何か?
――決まっている。それは人を殺した自らの過去だ。
だったらなぜ……。
「……なぜ、人は人を殺すのかな?」
自然と僕の口から疑問が漏れた。
「ぷっ、あははははははっ!」
僕の呟いた声が聞こえたのか、イルは大声を出してソファの上で笑い転げた。
「どうかしたの?」
湯呑みを片付け、代わりに二人分のコーヒーを淹れた僕は、イルのマグカップをテーブルに置くと「ひぃひぃ」と苦しそうに声を出すイルにそう訊ねた。
「い、いや……。なに、キミも『人間らしい』疑問を持つのだなと思うとな」
「失礼だな。僕は人間だよ」
そうだ。僕はれっきとした「人間」だ。戸籍だってちゃんとあるし、学校にも通っている人間の学生だ。ロボットでもなければ、イルのように死神と呼ばれる神様でもない。
それなのに、なぜイルは笑うのだろう?
「すまない。そういえばキミは人間だったな。忘れていたよ」
「……忘れていたの?」
「あぁ。そうだね。忘れていた」
「失礼だな」
イルはまだ引きずっているのか、時折思い出してはくすくすと声を押し殺して笑っていた。しばらくしてやっと落ち着いたのか、イルはマグカップに入っていたコーヒーを一口あおる。
「さて、ではお詫びにその疑問に答えるとしようか」
「どうも」
僕はもうイルが笑ったことについては怒っていない。いや、正確に言えば「怒る」ということが分からないからどうもないのだけれど。
「マコト。キミはこう言ったね。『なぜ人は人を殺すのか?』と」
「うん、言った」
「でも、その疑問には大きな前提が抜けていると私は思う」
「前提?」
「そうさ。その前提とは、『人は人を殺してはいけない』という道徳観念であり、倫理観だ」
「そうかな?」
僕は首をひねってそんな疑問を呟いた。なぜなら、僕は「なぜ人は人を殺すのか?」と思っただけで、「人は人を殺してはいけない」と考えたわけじゃない。
そんな断定をするのなら、そもそも疑問にも感じないと僕は思うのだけれど。
「いや、無意識のうちにそう思っているだけさ。『人は人を殺してはいけない』と考えている。けれども、そんな思いがある一方で現実には毎日のようにどこそこの誰かが殺されたなどというニュースを見聞きしている。つまり、思考と現実との間に矛盾が生じているんだな。だからそんな疑問が浮かぶのさ」
イルはそこまで言うと、コーヒーを一口含み、舌を湿らせた。
「でも、その前提だって間違ってはないでしょ? 『人は人を殺してはいけない』というのは、法律にだって書かれているよ?」
「そうだな。刑法という人を罰する法律だ。より具体的には刑法第一九九条を指す」
イルはソファから立ち、近くの書棚に近づくと一冊の分厚い本を取り出してそのページを見せてくれた。
彼女が見せてくれた本――『小六法』とタイトルが付いた分厚い書籍――には、先ほどイルが言っていた刑法第一九九条が載っている。そこにはこう書かれていた。
『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。』
「確かに載っているね」
僕はイルが見せてくれた条文をしげしげと眺めながら、そんな言葉を口にした。僕の言葉を確認するかのように、死神は解説を続ける。
「刑法に記載されている法規は、そのどれもが『法益』を侵害した行為を罰するものだ」
「法益?」
「そうさ。法益、つまりは『法律として守るべき人間の利益』のことだ。例えば、窃盗ならば所有権、殺人なら人間の生命。刑法はこれらの利益(法益)を守るためにその罰則規定を設けているのさ」
「……なるほどね。でも法律に書いてあるのなら、それは共通化されたルールでしょ?」
僕は事実を告げた。するとどうだろう。イルはくすくすと笑いを噛み殺し、ニヤリとした顔を僕に向けたのだ。
僕は「あれっ? 可笑しいことを言っているのかな?」という疑問が頭に浮かんだ。けれど、別に可笑しくもなんともない一般論だ。
なぜなら、現に「人を殺してはいけない」というルールが存在しているのだから。
「キミは六法全書に書かれた法律はすべてが共通化された、人間が守っていくべきルールだと思うのかい? その書かれた法律自体が間違っているかもしれないということは考えたことがないのかい?」
「法律自体が間違っている? そんなことってあり得るの?」
「だってそうだろう? 人間は生き物なのだから。間違いの一つや二つなんて珍しいことでもないさ。まぁ、加えて言うのなら、人間は面白いことに《命》に関してはこれ以上のない矛盾を抱えた生き物でもある、ということだな」
「矛盾を抱えた生き物?」
「そうだよ。特に人間の場合、その矛盾というのは顕著なのさ。……例えばそうだな。キミは『ライオンがシマウマを殺すのはなぜ?』と疑問に思うかい?」
「ううん、思わない」
「なぜ?」
「それは生きていくために必要だから」
イルの質問に僕は端的に答えた。確かにライオンはシマウマ(だけでなく、他の草食動物も)を殺す。けれども、それはライオンが肉食動物で他の生き物を捕食しなければ生きていけないからだ。食べるために、生きるためにライオンはシマウマを殺す。
ライオンは「ムシャクシャしていたから」とか「恨んでいたから」といった理由でシマウマを殺すことはない。
「では、『人間がブタや牛、トリを殺すのはなぜ?』と疑問に思ったことはあるかい?」
「それもないよ」
「それは一体なぜ?」
「生きるために必要だから」
そう。僕達人間はライオンと同じだ。他のモノから栄養を、生きるために必要な糧を得ている。それは時に他の命を殺すものだと分かっていても。
「では、人間だけが特別なのかい? なぜブタや牛、トリを殺すことに疑問を抱かないのに、人を殺すことにはそんなにも不可思議に思うんだい?」
「なぜって……あれっ?」
僕は答えようとしたが、できなかった。不意に「そういえばどうしてだろう?」という疑問が頭をかすめ、言葉に詰まってしまったのだ。
そういえばどうしてだろう?
そういえばなぜなんだろう?
なぜブタや牛、トリは殺すことには何の疑問を抱かないのに、人間だけに関してはこんなにも疑問に思うのだろう?
人間はライオンやシマウマ、ブタ、牛、トリと同じ生き物であり、何かを捕食しなければ生きていけない動物であるという点は変わらないというのに。
なぜだろう?
どうしてだろう?
「で、でも……人間は食べないよ? 確かにイルが言った通り、僕達人間はブタや牛、トリを殺しているよ。けれどもそれは食べるためであって、人間は人間を食べることはしない」
「では食べなければ生きていけないような状況になれば、人間は殺してもいいというのかい? まぁそれはそれで楽しくはない状況ではあるがね」
「う、う~ん……」
イルは僕を見ながらニタニタと意地悪そうに笑っていた。僕は目の前でそんな態度を取っている死神の顔を見ながらただ考えて考えて考え抜くことしかできない。
やがて死神は僕に答えを提示した。
「では、なぜ人間は自分が定めた『人は人を殺してはいけない』というルールを平気で破るのだろうか? 加えて、人間はなぜ人間を殺すのか? それは――」
――『守るため』だからだよ。
「守るため?」
僕はその意外な言葉に思わずオウム返しをしてしまった。もっと色々なことが理由として列挙されるのかと身構えていたからだ。
しかし、僕の考えに反してイルが提示した答えはとてもシンプルなものだった。
「そうさ。哀しいことに人にはそれぞれ信念であり、主義主張であり、譲れないモノを持っている。それらは今のキミには分からない《感情》という厄介なシロモノだがね。
哀しいことだが、そんなものを持ちながら他者と関わり合って生きていかなければならない制約の中では、どうしたって対立が生まれてしまうのさ。互いの主張や利益がぶつかるからな。
そうした小さな『対立』はやがては『敵対』となり、争いを生んでいく。争いの中で人間はどうするか?
決まっている。自分を、そして自分の持つ信念や主義を、自らの支えとなっているものを守ろうと動く。
では、守るためにはどうすればいいか?
話は簡単だ。相手を、敵を倒せばいい。脅威を排除し、自身の安全と安心と平穏を守ればいい。だから人は人を殺すのさ」
「守るために人を殺すの?」
「自分自身ではなくてもいい。主義主張、信念でなくてもいい。それは例えば幼い我が子でもいいし、家族でも愛する人でも、それこそ自分の精神状態の安定や矜持だっていいのさ」
「……そういうものなの?」
僕の疑問に、死神の少女、イルは肩をすくめて「さぁ、どうだろうね」と面倒くさそうに言葉を吐いた。
「本当にそうなのかは分からないよ。私はもともと死神だからね。人間ではない私に正確な答えは出せないさ。ただ私は人間を観察し、思考を巡らせた結果としてそう思っただけだ」
「それもそうだね」
僕はそう短く言葉を切った。僕の目の前にいる少女、イルは「少女」とは表現しているものの、その正体は人間ではない。
彼女は死神だ。
死神に人間のことが完璧に分かるとは思えないし、僕だって人間だけれど明確に「そうだ」と言い切る自信もない。
「ただ前にも言っただろうが、今日もどこかで人間同士が血で血を洗う愚かな戦いを繰り広げているのは確かさ。私とキミがこうして話している間にも、今この瞬間にも、世界のどこかで飢餓と貧困にあえいで命を落とす人間がいる」
「確かに」
「憎悪が憎悪を、暴力が暴力を、悲劇が悲劇を呼び起こし、連鎖する。そんな連鎖を止めるためにと人は武器を手に取り戦う。……人間だけさ。こんなにも同じ種で殺し合うのは」
「そうなのかもしれないね」
僕はイルの言葉に素直に頷いた。確かにこんなにたくさんの殺し合いを生み出すのは人間の他にはいないだろう。
昆虫だって人間以外の動物だって仲間内の、同属同士の殺し合いは滅多にしない。『共喰い』と呼ばれる現象は、それ相応の理由や環境の変化があるからこそ引き起こされるものだ。
でも、人間は違う。人間は人間を「生きるため」とは別の理由で簡単に殺してしまう。
ただ「ムシャクシャしていたから」と衝動的な理由で殺す。
それとは別に「恨んでいたから」といった怨恨が理由で殺す。
あるいは「注目を浴びるために」と子供じみた理由から殺人に走る人間もいる。
どんな理由にせよ、それは『種の保存』という生き物の生まれ持った命題に逆行することだ。
剣を取り、銃を構え、自分と同じ種を今日も明日も明後日も殺すのは人間ぐらいしかいないのかもしれない。
たとえそれが生まれ持った命題に背くことであったとしても。
守るために、という至ってシンプルな理由で人は簡単に理性のタガを外してしまう。
「『一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる』ということだね」
「……何だそれは」
「チャップリン。映画『殺人狂時代』から。……知らない?」
「ふん。悪かったな。私は映画を見ないんだ」
イルは途端に不機嫌になったのか、本にも手を付けずにソファの上にごろんと寝転がった。
……なぜそんなにも不機嫌になったのだろう。僕が何かしたのだろうか?
「だから人間は醜く愚かなんだ」
それっきりイルは目を閉じて動かなくなる。するとすぐに「すぅすぅ」と一定のリズムを刻む寝息をたて始めた。
僕は本当にイルが言ったように、本当に人間は『醜い』のか『愚か』なのかも分からない。
ただ、僕の目の前で寝息を立てるこの死神の少女には、「何かかけるものが必要だ」ということだけは分かった。
死神はカゼをひくのか、というのは僕には分からないけれど。