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FILE.2-1 テストと死神①

 都心から少し離れた街――それが僕の住む骨壺ヶ原(こつつぼがはら)市だ。

この街はもともと人口五千人にも満たない小さな田舎町だった。田園風景が遠くまで広がり、手つかずの雑木林がそこかしこに生い茂る長閑な町だった。

しかし、近年の土地再開発事業によっていくつもの新興住宅ができたこの街は、昔では考えられないほどの多くの人々が常に行き交う場所になった。畦道だった道路は硬くて綺麗で無骨なアスファルトで舗装され、繁華街には昔の雑木林に取って代わるように角ばって近代的な超高層ビルが筍のようにいくつも建っている。

 そんな街の中心に位置する骨壺ヶ原駅には、様々な路線からの乗り換えで絶えず人の波が途切れることがない。そして、人々が集まるところには自然と多くの店や娯楽施設が立ち並ぶ。事実、駅の付近で商いを行っている店は、夜遅くまで――ひいては朝方までその明かりが消えることがない。陽が沈み夜ともなれば、その暗く黒い空を七色に輝くネオンサインが塗り潰す。

 まさに「不夜城」という使い古された表現がそのまま当て嵌まる。

 ――死人でさえも朝が来るのを忘れて享楽に耽る街。

 それがこの骨壺ヶ原市だ。

 色鮮やかな光が踊り、人々がにぎわう繁華街の裏路地。そこにひっそりと構える小さな店がある。おそらく注意深く見なければそれを店として認識するのも難しいだろう。それほどまでに隠れた店。

 いや、それを店として定義するのもどうかと僕は思う。

 なぜならそこには店名がなく、ただ小さな看板が出ているだけなのだから。


「あなたの『不幸』買い取ります」


 そんな冗談なのか、ふざけているのか分からない看板の向こう――扉を開けた店の中にいるのは、死神と呼ばれる神様のイルとただの人間の学生で、けれど心が壊れた僕の二人だ。

 そんなネオンサインが目にしみる休日の夜。この日も、誰に知らせるわけもなく静かにその店は開店していた。



 チクタクと大きな柱時計が時を刻む。その静かな音色を聞きながら、僕はカリカリと手に持っていたシャープペンシルを走らせていた。今机の上にあるのは筆記用具とノート、それに数学の教科書だ。つまるところ、僕は一人静かに問題を解いている最中だ。もっと端的に表現するなら、勉強している最中だ。

 店の外、木製扉の前にぶら下げた札はいつも通り『OPEN』になっている。僕がやったのだからわざわざ確認するまでもない。

 窓の外を伺えば、今日も忙しなく数多くの人々が右へ左へと流れていく。

 そんな世情から切り抜かれたかのように、この店の中は緩やかで静かな時間が流れていた。

「マコト、コーヒーを頼むよ」

 マグカップの中にあった飲み物が切れたのか、僕が座る机の先――店の中心にある黒革張りのソファ――で本を読んでいたイルが当たり前のように、ごく自然にそんな注文を僕に出す。

「分かった」

 普通なら集中している最中に横からそんな言葉を掛けられるとイライラして「自分でやったらどうだ?」と愚痴の一つでも溢すのかもしれない。実際僕はやっと解答の糸口が見えた問題に取り掛かっていたのだけれど、イルの注文に僕は文句も言わずにただ席を立つ。

行きがけにイルの目の前にあるテーブルの上に寂しそうに置かれた空のマグカップを回収し、店の奥にあるキッチンでコーヒーを淹れる。今まではイルが一人でやっていたこれも、いつの間にか僕の仕事になっていた。

「………………」

 僕がキッチンで作業している時も、イルはこちらを見ることはない。ただ、いつものようにソファに座って本を読んでいるだけだった。

 まぁ僕にとっては、ここでの仕事が一つや二つ増えたところで、どうということではない。なぜなら、僕とイルとの間で交わした契約は「僕がイルの助手になること」であって、具体的な仕事内容を羅列した条項を取り交わしたわけじゃないのだから。

 これがイルの助手である僕の仕事であるのなら、僕はただそれをただ淡々とこなすだけだ。

他人から「不満だろう?」と問われれば、

僕は「別にどうにも思わない」と答える。

なぜなら僕には「不満に思う」ということが、一体全体どういうことなのかさっぱり分からないのだから。

分からないということは、それはすなわち「不満がない」ことと一緒なんじゃないだろうか。

「そうそう、コーヒーはいつもより濃いめで頼むよ」

「了解」

 イルの追加注文もそこそこに、僕はキッチンの収納棚からコーヒー豆が入った袋を掴み取った。こんなことを数回でもやれば、キッチンのどこに何が置かれているのかも自然と頭に入る。

イルはコーヒーに妙なこだわりでもあるのか、「インスタントのコーヒーは嫌だ!」と言われ、僕はサイフォン式の淹れ方をイルから教わり実践している。

「……キミは文句を言わないな。普通は散々ぶつぶつ文句を言うものだと思うが」

 手元の本に目を走らせるイルは、素直に僕をそう評価する。イルのその声には、侮蔑の色も嘲笑の色もない。ただあるがままに、見たままに僕をそう評価しているのだ。

「そうなの?」

「他の人なら『自分でやったらどうだ?』とか『面倒だ』などと言うだろう? キミにはそれがない。腹を立てて怒るということもしない」

「怒る、ということが分からないからね」

 僕のそんな返答に、イルは「キミはそういう存在だったな」と笑いを含んだ顔を僕に向ける。時折漏れるくすくすという笑い声は、他の人なら不快感を大いに刺激するものだろう。

けれど、僕にはそういったことは分からないから、イルの挑発するような行為はあまり意味のあることではない。

たぶん彼女本人も分かっているとは思うけれど。

「怒ることというのは余計なエネルギーを消耗する。無駄にエネルギーを使うなら、他のことに使った方がましさ。そう言った意味では、マコトの行動は効率的だとも言える」

「……《怒る》ってそんなにエネルギーを使うんだ」

 僕はまた一つ学んだような気がした。他人から見れば、僕のそのずれた発言に肩を落としてため息をつくかもしれない。「コイツ、一体何を言っているんだ?」と本気で心配する人も中にはいるのだろう。

 けれども、僕は別段自分のことを可笑しいとも馬鹿馬鹿しいとも思わない。

だって僕には《怒る》ということがどういうことなのか分からないのだ。今まで自分でも分からなかったことが分かるというのは、有意義なことだろう。

僕からすれば、意義のあることを笑うことの方がよっぽど変なことじゃないか、とも思う。

まぁ、こんな僕だから『心が壊れている』と言われるのだけれど。

 後ろから響くイルの声を聞きながら、僕は買ってきておいたコーヒー豆の袋からスプーンで適量の豆をすくい取る。それを専用の機材に入れ、ガリガリと手で石臼を回すように豆を挽く。

 最近分かったことだけれど、この時に少し荒く挽いた方がイルの好みに合っているらしい。

 挽いたコーヒー豆の粉を、フィルターをあてた漏斗に入れ、水を入れた丸いフラスコの上にセットする。

 僕はイルから教わった通り、目の前にあるヒーター式サイフォンのスイッチを入れ、後は水が沸騰するのを待つだけだ。

しばらくすると、フラスコ内でボコボコと沸騰したお湯が上昇し、漏斗の中に入っていく。それを見計らって、僕はへらでさっとほぐす。ほぐすのは十秒程度。それ以上の時間をかけると苦みが出過ぎてコーヒーの味が損なわれる。逆に少なすぎてもダメ。今度はコーヒーのコクがなくなり、飲みごたえのない味になってしまう。

……というのは、すべてイルの受け売りなのだけれど。

スイッチを切ると、漏斗に溜まっていたコーヒーがフラスコに降下して濾過される。濾過が終わると、僕は漏斗を外してフラスコ内に出来たコーヒーをマグカップへと静かに移した。

最初はイルにつきっきりで教わりながらやっていたこの一連の作業も、今では一人でなんとかこなせるようになっていた。作業は一人でできても、今度はイルの好みの味に淹れるという難関が待ち受けている。

事実、この前も――

「マコト、コーヒーの味が薄い。淹れ直してくれ」

「わかった」

 とこんなやりとりがあったばっかりだ。相手の要望に応え、いかに満足させられるか。

 これは僕にとって相当に難しい難問でもある。

付け加えるのなら、僕は家で飲むインスタントコーヒーのものより、このサイフォンで淹れたコーヒーの方がおいしいと感じることが多々起きている。こういった僕の身に起きた変化はイルの影響なのだろうか?

などとそんなことをふと考えながら、僕は黒々とした注文通りの濃いめのコーヒーで満たされたマグカップを二つ手に取った。



「それはそうと、さきほどからキミは机にかじりついているように見えるが、一体何をしているんだ?」

 僕がキッチンから戻り、マグカップを手渡す。コーヒーを口に含んだイルは、手に持った本に目を落としたまま僕にそんな質問をした。

「何って……もちろん勉強だよ。学生の本分でしょ?」

「意外だな。私からすれば、学生の本分とは遊ぶことではないのか? 時間はそれこそ腐るほどにあるのだから」

「いや、学生だってそれなりに忙しいものだと思うよ?」

「そうなのかい? ……まぁ、私には分からないことだし、キミにはそもそも『友達』と呼べるほどの友人はいなさそうに見えるけどな」

「……馬鹿にしているの?」

「いや全然。勉強するのはいいことさ」

 ――一体、この死神は僕をけなしているんだろうか? それとも褒めているのだろうか?

 イルとのそんなやり取りを終えた僕は、机に戻り再び教科書と向き合った。指揮棒を振るようにシャープペンシルを動かし、端的に問題に答えていく。それは教科書に載っている問題をノートに書き写し、その下に答えを導き出す過程式を埋めていく。

 ただその繰り返しだ。

 問題が提起され、過程式を埋め、解答を導き出す。

 問いと答え。教科書が問いを出し、僕がそれに答える。答えが合っていればそこで終わり。間違っていれば、間違えた原因を突き止めて同じ間違いをしないようにするだけ。

 他の人から見れば、ひどく単調で退屈でつまらないものだろう。けれども、僕にとってみればパズルのピースを当てはめていく作業にも似たようなものだ。

 なぜなら、僕には「つまらない」とか「退屈だ」という感情が分からないから。

「それに、もうすぐ試験だからね」

 僕はイルにそうあっさりと告げた。ちなみに、「試験」というのは事実だ。僕の通う学校では、もうそろそろテストが始まる時期になっている。まだ当日の試験内容もその時間割も伝えられてはいない。けれども、やっておいて損はないと僕は思う。

 備えあれば憂いなし、というものだ。

 まぁ、僕は試験に対して「憂い」を覚えたことは今まで一度もないけれど。加えて、「憂い」というものが一体どういう感情なのかも分からない。

「そうか、試験か。だからキミはそうやって知識を詰め込んでいるのか」

「まぁね。でも、僕は普段からそうだよ」

「それはまたなぜだい?」

 イルは本を読みつつ訊ねた。僕はこんな会話をしながら本を読めるのか、と素直に感心しつつも「暇だから」と端的に付け足した。

「ふむ。……なるほど。確かに時間を有意義に使う、という点ではそれは賢い選択だな」

 イルはそんなことを呟きながら一人納得したようだった。彼女に限らず、たぶん他の大多数もそんなふうに評価する人はいるのかもしれない。

けれども僕は「本当に賢い選択をした」などという思いはさらさらなかった。

 なぜなら、僕は「暇だから勉強しよう」と思っただけで、「それが本当に賢い選択をした」という考えのもとにとった行為ではないのだから。

 結果的にそうなってしまっただけの話でしかない。もし、他に優先するべきものがあるのなら、僕は何のためらいもなくそちらを選ぶだろう。

 すると、イルは読みかけの本を閉じ、僕の方を振り向いた。

「ただ――知識だけがすべて、というわけではないがな」

「それって一体どういうこと?」

「私は試験という『その人が持つ知識量を問う』ことにはなんの疑問も抱かない。むしろどの程度まで教えたことを理解したのかということを測ることについては十二分にやる価値はあるだろうとさえ思っているよ」

「じゃあなぜそんなことを言うの?」

 僕が指摘するなり、ソファ越しにこちらを見ていたイルの顔がニヤニヤとした顔に変わる。

 そんな彼女の表情を見ていると、まるでなぞなぞを出されている気分になる。

「それはだね、マコト。この世の人間は一つ重要なことを見落としているからさ」

「重要なことを見落としている?」

「あぁ」

「それって何?」

「それは――知恵だよ」

「知恵?」

 死神は笑ったまま、僕そう答えを提示する。なぞなぞなのに、先に答えを言われてしまった。これじゃあ意味がないな、と僕はそんなどうでもいいことを思う。

「そういえば、誰かが言っていたな。『秀でたる知性を有するだけでは十分ではない。大切なのは、それをうまく活用することである』と」

「ルネ・デカルト」

「おや、知っているのかい?」

「まぁそれなりにね。『近代哲学の父』とも称されるフランスの哲学者にして数学者。『我思う、ゆえに我あり』という名言を残したことでも有名だね。数学者としては、解析幾何学の基礎を築いたことでも知られている」

「驚いたな……。やけに詳しいじゃないか」

「別に、暇だからね。読んだことがあるだけだよ」

 意外そうに目を見開いたイルを目の端で捉えながら、僕の手が自然と置いてあったカップを掴み取った。中に入っているのは、イルが飲んでいるものと同じブラックコーヒーだ。

 それを僕は口に含む。淹れてしばらく経ったからか、すでにぬるくなったコーヒーの苦みが僕の思考を覚醒させてくれる。

 ような気がした。

 気がしただけで、実際にどうかは分からない。



「喩えれば、知識と知恵は車輪のようなものだよ」

「車輪?」

「そうさ。人間が車軸で、その両端に『知識』という車輪と『知恵』という車輪が付いているようなものだね」

 僕の返事に、イルはそんな喩えを引き出しつつコーヒーをあおった。こくん、と小さく上下する彼女の喉仏をぼんやりと見ていた僕に、黒く苦い液体を嚥下し終えたイルはさらに言葉を紡いでいく。

「車輪は二つあってはじめて前へと進める。一つではその場をくるくると回るだけだし、どちらか一方が大きいとバランスが悪くなって真っ直ぐ前へ進まない。ぐにゃぐにゃと不安定な軌道を描くだけさ」

「まぁ、確かにそうだね」

 なるほど、とそう思いつつ僕はイルの言うような車輪を頭の中に思い描いた。左右両側に同じ大きさの車輪とその中心を貫く真っ直ぐな車軸。

 片方がなければ、その軌跡は円を描く。逆に左右両方が揃っていても、片方が大きければふらふらと不安定になって真っ直ぐ進むことはできないだろう。

「でも、なぜ知恵が必要なの?」

「それは生きるために、さ」

「生きるため?」

 僕は首をかしげた。知識は分かるような気がする。何事も知っていなければ動くことはできないし、計算ができなければ買い物だって出来ない。

 買い物ができないのなら、今晩の料理の献立を組み立てて足りない材料を買うということすらできないだろう。

 それは別にニュートリノは光より速いということや、落下する物体は重力加速度の影響を受けて徐々にそのスピードを上げていくという実生活では何の役にも立たない知識を言っているわけじゃない。

 イルの言う「知識」とは、人が生きていく上で必要最小限の知識をも含んだものだ。

「人間は一人では生きていけない」

 イルは歌うように言葉を紡ぐ。まるで言葉が楽しげなダンスでも踊っているかのように空気とまじりあっては消えていった。

「人間だけじゃない。この地に、この星に棲む生き物はみな誰かと何かと関わり合いながら生きている。いや、『生きなければならない』と言った方が適切か」

「それは義務なの?」

「義務であり、制約であり、強制されたことさ。これはどうにもならない自然のシステムだよ」

「神様でも?」

「神様でも、さ」

 イルは静かに頷いた。神様でさえどうすることもできないのなら、僕が一人で頑張って抵抗したとしても、それは結局無駄なことなのだろう。

「『他人と関わり合いながら生きていかなければならない』――この制約の下で自分が生きていくためにはどうすればいいと思う?」

「どうって言われても……。それは他者とうまくやっていくしかないでしょ?」

 それはそうだ。そんな制約があって、かつ誰もが従わなければならないのなら、そのルールに乗って進むしか方法がない。

 ルールを外れた者にやってくるのは「死」という結果しかないのだから。

「では、その『うまくやる』というのは、そこに書かれているようにハッキリとした〝答え〟があるのかい?」

 イルは笑って僕が机に広げていた教科書を指さした。僕は机の上に広げられていたまま放置されていた教科書を見やる。

 教科書に載っているのは、知識であり答えだ。問題が提起され、その問題に対する答えと解き方、解説が載っているだけだ。

 当たり前と言われれば当たり前。

 当然と言われれば誰もが頷く。

 なぜなら、それはそういうモノなのだから。

 けれども、そこにはイルが言ったことは載っていない。目次を見ても、索引や中身を見ても一言も触れられていないだろう。

 いや、明確な解答があるのかどうかさえ疑問だ。

「他者とうまく関わり合う――言うのは簡単だが、それは答えがない。いや、ハッキリ言ってしまえば答えなどあるわけがないんだ。『他者との関係』と一口に言ってもその中身は種々様々。パターンで分類もできなければ、体系化させることすらできないものだよ」

「じゃあどうすればいいの?」

 僕は、白紙の紙を渡されて「問題とその解き方と答えを書いてください」と言われているような気分だった。

 すでに問題があって、それだけに答えるのとはわけが違う。

 白紙という「ゼロから問題を作り」、自分で「作った問題に答える」ことの方がよっぽど難しい。なぜなら、その問題に間違いが含まれているのかも、設問として成立しているのかも分からないのだから。

 客観的な検証ができないものに、明確な答えを見出せるわけがない。

「だから知恵が必要なのさ。知恵というのは想像(イマジネーション)であり創造(クリエーション)でもある。それは人間の内側にため込まれた力を発揮するプロセスだ。どんな想像をし、どんな創造をするかは各人の自由なのさ。知識はそのベースであり、素材であり、発想の種でしかない」

「知識は『材料』で、知恵は『調理法』みたいなものなの?」

「簡単に言えばね」

 イルは「上手い喩えだ」と肩を軽くゆすらせて笑っていた。

「でも、材料はたくさんあった方がいろいろな料理ができるよ?」

「確かに。……だがそれも、『こういった料理を作るため』という目的があってこそのものだ。目的があるから手段がある。それを考えると、今の人間はその逆を進んでいる気がするよ」

「逆?」

「材料を集めること――それ自体が目的になってしまっているのさ。知識という『材料集め』に躍起になってしまい、その先にある『集めたら何をするのか』ということがすっぽりと抜けているんだよ。言うなれば、『手段が目的化している』ということだな」

「どうなのかな? 僕にはよく分からないよ」

「別に分からなくていいさ」

 僕は難しい顔をしながら、イルの言葉を理解しようと頭を働かせた。けれど、考えれば考えるほどに答えは出ない。底なし沼の中にどっぷりと沈んでしまったかのように、やがては頭の片隅でちくりと痛みが走るようだ。

 来客を告げるカウベルが鳴ったのは、僕がそんなふうに頭を抱えて悩んでいる時だった。

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