表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/17

FILE.1-2 恋人と死神②

「私は人間の『不幸』を買い取っている」

 イルと名乗った死神は、程よく冷めたブラックコーヒーを口に含むとその湿らせた舌で滑るように喋り始めた。

「そういえば外の看板に書いてあったね」

 僕がそう指摘すると、イルは「そうだ」と首を縦に振る。

「正確に言えば『人間が持つ《不幸》という負の感情を買い取る』ということだけれどね」

「負の感情?」

「そうだ。怒り、憎しみ、妬み、悲しみ……。種々様々さ。私はそれらを買い取っている」

「そうなんだ」

 イルが挙げたそれらは、どれもが人の感情を指すものだ。けれども、僕にはそれが一体どういうものなのかが分からない。

 余談だけど、ここで僕の「特性」について触れておきたい。僕が使っている《分からない》ということと《知らない》ということとは違う。

 僕は「感情」という言葉はもちろん知っているし、それがどんな定義を持っているのか、どんな意味を持っているのかも理解している。

 けれども、それは所詮辞書を引けば載っているようなものであって、生身で体験したとか直に触れたことじゃない。

 ただ単に「知っている」ことと、「理解している」ということとの間には大きな壁があるのだ。

 閑話休題。

 そんな僕だから、イルの言葉に「素直に頷く」ということしか選択肢がない。自分で選べるものがそれしかないのなら、僕はそれを実行するまでだ。

「不幸を買い取られたらどうなるの?」

「別にどうもしないさ。ただ……買い取られた不幸に関する《記憶》と《憂い》が消滅するだけだ」

「記憶も?」

「あぁ。なぜなら不幸とは記憶に基づいて生成される想いだからね」

「……そうなんだ」

 イルは面倒だと言わんばかりに言葉を返すだけだった。僕はそれを聞くしかない。

 別段イルの態度と言い方に不快感を覚えることはなかったし、そもそも僕も助手になったのだから仕事に関する知識はインプットしておく必要があるだろう。

 とは言っても、「不快」ということがどういうことなのか、僕には全然分からないけれど。

「依頼主は老若男女問わずココを訪れる。まぁキミの仕事はその依頼主と私を繋ぐことだな」

「橋渡し、ということ?」

「まぁそうだね」

「でも、実際にどうやるのか分からないよ」

 もっともな僕の指摘に、イルはわずかに口元を歪めた。

「なぁに、心配はいらないさ。ただキミは訪れた人にお茶を出して、私のそばで私と依頼主のやりとりを見ているだけでいい」

「そうなの?」

 一体全体、イルの言う『助手』という仕事内容がどんなことなのか僕にはさっぱり分からない。お茶を出して見ているだけ……。それは本当に仕事と呼べるものなんだろうか? 

そんな僕の想いを見透かすかのように、イルはニヤニヤと意地悪な顔を僕に向けた。

「口で説明しても分かるわけないな。それは実際に経験してみることが必要、か」

「経験?」

 聞き返したのもつかの間、すぐにカランカランとカウベルの音が店内にこだました。

「ほら、早速の〝お客様〟だ。マコト、キミの出番というワケだな」

 イルはニタニタとした意地の悪い笑みを浮かべたまま、僕に仕事を押し付けた。



「本当に私の『不幸』を買い取ってくれるんですか?」

 やってきて早々、そんな言葉を呟いたのは若々しい女性だった。黒のスカートに白のブラウスがよく似合う。服もさることながら、その所作もどこかキリッとしたものを感じる。それはどこからどう見ても仕事一筋のキャリアウーマン、と呼ばれる類の女性だった。

 ただ、その固いイメージを持つだろう彼女は、どこか暗く沈んでいる様子ではある。

 僕はその原因を探ろうとして、すぐに答えに行き着いた。

 なぜならココは自分の持つ不幸を売りに来る場所なのだ。誰にも言えないような不幸を抱えている人が、晴れやかな顔をして笑顔を浮かべてこの場所を訪れるはずはない。

 そういった意味では、依頼主の彼女の様子は当然と言えば当然だとも言えた。

「あぁそうだね。表の看板にも書いてあっただろう?」

 僕は「どうぞ」とやってきた女性の目の前にお茶を出した。言われるまでもなくイルが僕に課した仕事の一つ目だ。

「それはそうですが……」

 女性は疑り深い目で目の前の白髪ロングの少女――イルのことをじろじろと見つめる。

 しかし、イルもこういった客には手慣れたものなのか、特にそんな視線には不快感を覚えることもなくただコーヒーをするるだけだ。

 そしてお茶を出し終わった僕は、ただイルの横に座って二人を見て、依頼の話を聞く。

「まぁ、確かに。世間一般から見れば怪しい商売だろうさ。でも、貴方はそのことを承知でここにいる。違うかい?」

「いえ、別に……。私はそういった意味では……」

 イルの返答がそのままズバリの図星だったのか、女性は二の句をつげなかった。

「さて、と。前置きはさっさと終わりにして本題へと入ろうか。今回、貴方が私に売ってくれる『不幸』とは一体何だい?」

「それは――私の恋人のことです」

 僕は一瞬、「恋人が不幸?」と考えてしまった。普通ならそれは不幸とはかけ離れた、むしろ幸せと言ってもいいぐらいのものなのではないだろうか。

 そばで考え込む僕を差し置き、イルはその女性の言葉に耳を傾ける。

「ふむ。恋人が貴方の不幸ですか」

「はい」

「それは一体なぜ?」

「彼はもう目覚めることがないからです。より正確に言えば、今も病院のベッドで眠っています。彼は半年前に事故に巻き込まれ、そのまま目覚めていません」

 そんな言葉をきっかけに、依頼人の女性は訥々と話し始めた。

 この依頼主と付き合っていた男性は、出版社に勤めていた編集者で数年前に開かれた同窓会が二人の出会ったきっかけらしい。

「これが付き合っている彼の写真です」

 そう言って依頼主がテーブルに置いた一枚の写真には、照れくさそうに笑顔を浮かべる一人の男性の姿があった。

 見るからに優しそうで温かさが伺える男性だった。

 それから彼女が語り始めた思い出の数々は、とても「不幸」とは思えないものばかりだった。

 彼と出会った時のこと。初めてデートをした時のこと。彼からプロポーズされた時の嬉しさ。初めてケンカをした時の怒りと哀しさ。仲直りした時の安堵感……。

「事故の日は、ちょうど私のウエディングドレスを見に行く予定だったんです」

 語るうちに当時の想いが蘇ったのか、女性はすすり泣き始めた。

「待ち合わせの場所で事故のことを聞かされた時のことは、今でも鮮明に覚えています。その時はただ漠然と『あぁ、会場に連絡しなくちゃ』って思いました。……今思うとおかしいですよね? でも、その時はそんな場違いなことを思うほどに動揺していたんだと思います」

「それで、貴方は彼のいる病院へと向かった、と」

 イルの言葉に女性は静かに頷いた。

「はい。それで、私も最初は献身的に彼のことを見ていました。けれど、数週間、数か月と経つにつれて私の方も疲れてしまったのか、今では彼のことが重荷にしか感じられなくなってしまいました。私の疲れが見えていたのでしょうか。彼の御家族の方からも、『あなたにはまだまだ将来があるのだから……』とキッパリと彼のことを忘れてくれと言われました」

「けれど、そんな簡単に忘れることなんてできない、と?」

「えぇ。……それだけ幸せで貴重な時間でしたから」

「でも、それを貴方は私に『買い取ってくれ』と申し出ている」

「仕方無いですよ。……私も色々と限界ですから」

 そう言って女性は自嘲気味に肩をゆすらせて笑った。

 この女性はそんな哀しい気持ちを必死で押し殺して、その分を仕事に注ぎこんだのかもしれない。ただ、やはり精神的に限界だったのだろう。僕の目の前にいる女性からは、目に見えて生気が抜けていっているように見える。

 きっと誰もが「どうしたの? 何があったの?」と心配に思い、彼女を気にかけるかもしれない。

 ――僕には全然分からないことだけれど。

「……なるほど」

 話を聞いていたイルは深くそう呟くと、しっかりと目の前の女性を見つめた。


「その貴方の持つ『不幸』――本当に買い取っていいんですね?」


 そのイルの言葉に、目端に涙をうっすらと浮かべながら依頼主は静かに首を縦に振った。

「取引成立ですね」

 イルはそう言うなり、店の奥に行くと棚の中から一つの茶封筒を取り出した。その茶封筒を女性の目の前に差し出す。

「貴方の持つ不幸、確かに私が買い取ります。その価値はこれぐらいが妥当かと」

「……?」

 不思議そうな顔をしてその茶封筒を受け取った女性は、静かにその封筒の口を開いた。

「……えっ! こ、こんなに……?」

「はい」

 驚き、その目をぱちくりとさせる女性は、イルと茶封筒を交互に見る。そばにいた僕はその具体的な金額までは分からない。

 ただ、普通の人ならその金額に驚くぐらいのものがその封筒の中にあるのだろう。

「では――代価に貴方の不幸を頂きます」

 イルは静かにその右手を女性の額へと当てた。

 瞬間――ずぶり、と音を立ててイルの手が女性の身体の中へと沈みこむ。

「えっ? い、今……!」

「静かに」

 騒ぐ女性にイルは忠告する。イルはすっと目を閉じ、全神経を、全感覚を集中させて目当てのものを探し出す。

「――よし、掴んだ!」

 くわっと目を見開いたイルは、一気にその手を引き抜いた。

 僕は、その瞬間イルの手の先に黒い綿飴のようなふわふわとしたものが見えたような気がした。はっきりと見えたワケじゃないし、それが「不幸」の正体なのかどうかは僕には分かるはずもない。

 ただ、同時に女性は力尽きたようにソファに倒れ込んだのは見えた。

 倒れた彼女を、イルはどことなく哀しげな目で見つめているように僕は思えてならなかった。イルは何も言わずにその手に握り締めていたものを事前に用意していた空き瓶へと移し代える。こぼれないようにコルクの栓でギュッギュッと瓶の口を塞ぎ、鍵の付いた棚の中へと静かにしまい込んだ。

 流れるように行われる目の前の作業工程を、僕はただ眺めることしかできなかった。



「マコト、君の仕事の内容は分かったかい?」

「まぁ……。だいたいはね」

 僕達は二人揃ってコーヒーをすすっていた。もうこの場にはあの女性はいない。ソファに倒れ込んだ女性が再び目を覚ますと、「あ、あれ……? 私、どうしてこんなところにいるんだろう?」と呟いて早々に出て行ってしまった。

 後片付けを終え、僕とイルの二人だけになった店内には再び静寂が幕を下ろす。

「でもさ、『不幸』と書いてある割には……どちらかと言えば『悩み』と言った方が似合っているとは思うけど」

 僕は先ほどまで取りかかっていた依頼の内容を思い返しながら、ふと口に出した。

「そうかもしれないな」

 瞬間、目の前の少女はばらばらと爆弾をぶち撒けた。上空から放たれた爆弾がそこかしこで爆発していく。

「『そうかもしれないな』……って。怒らないの?」

「怒る? どうして」

「だって……それを認めるなら、『看板に偽りあり』でしょ?」

 そうだ。僕が言ったことが本当なのだとしたら、『不幸を買い取る』と書かれたあの看板は嘘ということになる。この営業妨害甚だしい発言に、死神の少女は毛筋ほどにも顔色を変えることはなかった。

「不幸と悩みは同じものさ。それは視点が異なるだけで、どちらも結局同じなんだよ」

「視点が異なる? どういうこと?」

「他人には単に『悩み』として受け止められるようなことでも、当の本人から見れば『不幸』と見えてしまうということさ。よく言うだろう? 『私も貴方と同じ苦しみを味わっている』と。けれども、それはどう考えたってそれは不可能だ。そうだろう? 論理的に考えて、自分と相手とは個体として違っているのは当然だとしても、その思考プロセスや経験、価値観だってまるっきり同じ、ということはあり得ないんだ。人間は一人として同じ存在はいない」

「それがたとえ双子でも?」

「双子でも、だよ。それは単に外見上の姿形が『似ている』というだけであって、全く同じというワケじゃない。遺伝的には同じ個体でも、環境や習慣によって差異は生まれてしまう」

「なるほど……」

「結局、他人は他人で自分は自分ということなのさ。完全に相手と同じ思いにはなれないんだ。だから相手が抱えているものだって、他人から見れば小さなものでも本人から見ればとてつもなく大きなものなのさ。確かに、今回の依頼も他人から見れば小さな『悩み』かもしれない。けれども実際に数カ月、いや数年も付き合っていた経験を持つ彼女にとってみれは『不幸』だとも呼べる代物だったのさ」

 そこまで言い切ったイルは、マグカップを手に取り、ぐびりとコーヒーをあおった。小さく上下する彼女の喉をぼんやりと見つめながら、僕は「そういうものなのか……」と同じようにコーヒーを飲み込んだ。

 僕にはイルが買い取ったものが果たして『不幸』と呼ぶものなのか、それとも取るに足らない小さな『悩み』なのか。

 そのどちらも判断することはできない。

 なぜなら。

 僕には『不幸だ』と感じる心も、

 逆に『悩み』と断定できる心も、

 そのどちらも壊れているのだから――。



「まぁ、今回は初めてだから仕方ない部分があるだろうが、早く慣れてもらうことにこしたことはない」

「頑張るよ」

 僕はそっけなくそんな言葉を返す。こればっかりは頑張る、としか言えないから。

「ところで、彼女にはいくら渡したの?」

「何だ? 気になるのか?」

「まぁね」

 僕は渡された彼女の驚いた顔を思い出しながら、そう答えた。僕は金額以前に、彼女がなぜ驚いたということが分からない。だから知りたい。

「四十万」

 イルはコーヒーを口に運びながら、端的に金額を僕に告げてくれた。

「それって驚くことなの?」

「さぁな? 私には分からん。ただ、あのぐらいが妥当だと判断したからそうしたまでだ」

「そうなんだ」

 僕はイルの告げる四十万、という金額が一体どれほどの価値なのかが判然としなかった。彼女はその金額に驚いたが、他の人ならどうだろう? 

 多いと驚くのだろうか?

 それとも少ないと怒るのだろうか?

 ……まぁ、どちらにしても僕には分からないことではあるけれど。

「それよりも、私は可哀想でならないよ」

「可哀想? なぜ? 彼女はもう不幸を持ってないんでしょ? 不幸を持っていないのは幸せなことなんじゃないのかな?」

 僕は不思議そうにイルを見た。

 なぜイルはそんなことを言うのだろう?

 やって来た彼女はもう「幸せ」になったんじゃないのだろうか? もう前のように『不幸』は持っていないのだから。不幸を取り除けば、その人は幸せになれるんじゃないのだろうか?人の心のプラスとマイナス。そのマイナスの部分をイルが買い取った。残るのはプラスという名の、その人の『幸せ』と呼ぶ部分なんじゃないのだろうか?

 そう、これはとても単純な計算式だ。それも単純過ぎてあくびが出るほどに。

「マコトの言うように、私は不幸を買い取っている。それはいわば人の持つマイナスの感情を消滅させることだ。キミは言ったね。『不幸を持っていないのは幸せなことだ』と」

「そうだね」

「その答えは『イエス』でもあり、『ノー』でもある」

「『イエス』でもあり、『ノー』でもある……? それはどういうこと?」

 問い返した僕に、イルは口の端を少しばかり上に吊りあげる。

「幸福と不幸は等価値だからさ」

「幸福と不幸が等価値……?」

「そうさ。それは何が幸福で、何が不幸なのか……それを決めるのは、結局他人ではないのさ。物事を幸せだと捉えるのも不幸だと捉えるのも、すべては自分自身なのだから」

 イルが言った言葉が分からず、僕は軽く頭を抑えてしまう。そんな僕の様子をくすくすと笑いながら、彼女は舌を滑らせた。

「では、視点を変えようか。さきほど私が『可哀想だ』と言ったのは、彼女のことではないよ。私が『可哀想だ』と言いたいのは、その彼女の恋人――正確には恋人『だった』青年のことだ」

「どうして?」

 僕はますますワケが分からなくなった。なぜイルは彼女のことを飛び越して、その『不幸』の原因であるはずの男性のことを思っているのだろうか。

「恋人だった彼の視点から見てみよう。もし、今病院のベッドで眠っている彼が目を覚ましたら……。彼はどんな思いを抱くのだろうね? 最愛の彼女からは、『もう貴方はいらない』と告げられてしまっているにも等しいのに」

「でも、家族がいるんじゃないかな? 家族が彼のことを思っていてくれているのなら、それはそれで幸せなことなんじゃないかと僕は思うけど」

 そんな僕の指摘にイルはふるふると首を横に振った。

「人間はワガママで自分勝手な生き物だよ。人間というのは自分の存在意義を、存在価値を誰かに認めてもらいたくてしょうがないんだ。それこそピィピィと鳴いて餌を求める雛鳥のようにね。そしてこれが人間の面白いところだが――その認めてもらうのは自分の血族以外に求める傾向が強いんだ。それも、大人であればあるほどにね」

「そうなの?」

「幼い頃ならそれは自分の両親に向くよ。なぜなら、自分が知っている世界は自分とその周りにしかないからね。手っ取り早いのは両親なのさ」

「ふーん」

 僕はイルの解説をただ聞くだけしかない。なぜなら僕には分からないから。

「話を戻そう。もし彼が目覚めたら、真っ先に彼女のところに行くだろう。けれども彼女はもう彼を見捨てた。最愛の人に見捨てられ、戦力外通告とでも言える残酷な仕打ちを受けた彼を『可哀想だ』と評価しても筋違いではないだろう?」

「……それは残酷なのかな?」

「あぁ。それはこの世で最も残酷なものだよ」

「なぜそう言い切れるの?」

 不思議そうにイルを見やる僕に、ただ目の前の死神はふふっと笑みをこぼすだけだ。

「この世で最も辛いもの。それは――」

 死神は歌うように、詩を詠むように言葉を紡ぐ。


「人から忘れ去られることだよ」


 イルはニタニタと意地の悪い顔をしたまま、ただ僕のことを見つめていた。

 気づけば、雨がまた降り出していた。

 これが僕と死神との出会いと、僕が最初に行った仕事だった。確かにこの死神が言った通り、僕には分からなかったことが、なんとなくだけれど分かった一日だった。



 その日から一週間後、新聞の書評欄にはあの依頼主が見せた男性の姿と一冊の本が掲載されていた。

 僕はいつも読み飛ばしてしまうその書評欄に書かれたコメントに目を引かれた。

『早くも増刷決定! 今一番泣ける恋愛ストーリー!』

「……」

 だからどうした、というわけじゃない。

 ただ単純に、そして素直に僕の脳裏にはイルの言葉が渦巻いていた。


『この世で最も辛いもの。それは――人から忘れ去られることだよ』


 人は忘れる生き物だ。それがいい・悪いを差し置いても、人間の生物学的メカニズムによって初めからそう設計されているのだから敢えて指摘する余地はない。

 けれども、「忘れた」ということは言い換えれば「思い出す」こともできるということだ。

 錆ついた引き出しに油を差せば再び開くように、忘れたことはふとしたきっかけで思い出されることは誰しも経験することだ。

「マコト、コーヒーを淹れてくれないか?」

 黒革張りの高級そうなソファに座った死神の少女からそんな間延びした声が聞こえてくる。

「分かった」

 僕は広げていた新聞を丁寧に畳んで机の上に置いた。

 でも、イルがしたことは「忘れる」とは根本的に異なる行為だ。彼女は依頼主の思い出を、あたかも紙に書いた鉛筆の跡を消しゴムで消すかのように上から削り取った。

 依頼主の抱えていた《不幸》と共に。

 それが残酷な行為なのか、はたまた当人たちにとって有益な行為なのかは分からない。

 ただ――

「新聞に気になることでも載っていたのかい?」

「いや、特別何も。ただ、この本がベストセラーで『今一番泣ける本』なんだってさ」

「そうか。……キミは興味あるのかい?」

「どうだろうね。だって僕は『泣く』ということが分からないんだもの。分からない僕が読んでも内容を理解することはできないよ」

「まっ、それもそうだな」

 イルはそれっきり声をかけることもなく、ただ目の前の活字の海に飛び込んでいった。

 僕は再び机の上に置いた新聞――先ほどまで見ていた記事に掲載された写真をちらりと見やった。


 そこには憑き物が落ちたかのようなどこかすっきりとした顔をした青年が写っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ