『優しさを運ぶ未来のバス』
誰かを助けたいと思っても、「余計なお世話かもしれない」「断られたら恥ずかしい」と、声をかけられないことがあります。
もし未来の技術が、人間に代わって親切にするのではなく、心の中にある優しさを行動へ移すための小さなきっかけを与えてくれたなら――。
そんな未来の公共交通を思い描いて書いた、温かな近未来短編です。
優しさを運ぶ未来のバス
雲一つない秋晴れの土曜日。ひんやりと澄んだ空気に誘われて、休日のマサトは久々に少し遠くの街まで出かけようと、近所のバス停へ向かっていた。
スマートフォンを取り出し、行きたいカフェの場所をマップで検索して「目的地設定」をタップする。画面には、その場所へ向かう専用のバーコードが表示された。
バス停に到着すると、柱に取り付けられた読み取り機にスマホをピッとかざす。
その瞬間、停留所の小さなモニターが優しく光った。
『乗車予約を受け付けました。あと三分で到着します』
バスの側にも「次の停留所に乗客あり」というデータが届いているはずだ。乗る人も降りる人もいない無駄な停車をせず、必要な場所にだけスムーズに停まる。効率的な運行システムのおかげで、待ち時間も驚くほど短い。
やがて、静かなモーター音とともに一台のバスが滑らかに近づいてきた。運転席には監視役のスタッフが一人座っているだけで、ハンドルは車体が自動で正確に操作している。安全管理スタッフが運転だけに神経をすり減らすことなく、車内全体の安全や乗客の様子を静かに見守ることができる環境が整っていた。
バスはマサトの前でぴったりと扉を開けた。
「おはようございます」
スタッフに軽く会釈をし、乗車口の読み取り機にスマホをかざして車内へ入る。この瞬間に降車予定の停留所まで登録されるため、降車ボタンを押す必要も、小銭を用意する必要もない。
昔の自分なら、混雑した車内で降車ボタンを押し遅れたらどうしようとか、両替で後ろの人を待たせたら申し訳ないとか、そんな小さなことにまで気をもんでいた。マサトはもともと、人の表情や空気に敏感すぎるきらいがあった。困っている人を見かけると胸が締め付けられるのに、「余計なお世話だったらどうしよう」「断られたら恥ずかしい」と迷っているうちにチャンスを逃し、後から一人で落ち込むような性格だったのだ。
しかし、このシステムが導入されてから、移動に伴うあらゆる「心の摩擦」が消え去っていた。
空いていた窓際の席に腰掛け、座席の手元にある読み取り機にスマホをかざす。画面に『着席完了』と表示され、彼が今どの席に座っているかが匿名の情報としてシステムに登録された。
バスが次の大きな交差点に向かって静かに走り出したとき、座席の小さなスピーカーから、マサトだけに聞こえる控えめな音声が流れた。
『次の停留所で、着席に配慮が必要なお客様がご乗車されます。お席の譲り合いにご協力をお願いいたします』
誰か一人を名指しして責め立てるようなアナウンスではない。体調が悪い人や、外見では分からない疲労を抱えている人に無理をさせることもない。「今、動ける人」にだけ、そっと選択肢が渡される。
マサトは自分のスマホ画面を開き、「席を解除」と「席を譲ります」のボタンをすばやくタップした。立ち上がってドアの近くへ移動すると、バスが停留所で静かに止まった。
乗り込んできたのは、首から小さなカードを下げたおばあちゃんだった。
おばあちゃんが胸元のカードを乗車口の読み取り機にピッとかざすと、車内に優しい音声が響く。
『〇〇総合病院行きです。ご乗車ありがとうございます。手すりにお掴まりください』
「あらあら、案内してくれて助かるわぁ」
おばあちゃんが嬉しそうにつぶやきながら車内を見渡すと、マサトがそっと笑顔で手招きをした。
「おばあちゃん、こちらの席へどうぞ」
「まあ、ありがとうねえ」
おばあちゃんがマサトの譲った席に腰掛け、胸のカードを座席の読み取り機にかざすと、マサトのスマホが軽く震えた。
『席の譲り合いポイント:100ポイントが付与されました』
(よし、これで帰りのバス代は実質無料だな)
マサトは画面を見て、口元を緩めた。
最初の頃は、この「ポイント」という目に見えるご褒美が目当てだったかもしれない。けれど、何度も同じ路線を利用するうちに、マサトの心境は少しずつ変化していた。システムが助けを必要とする人の存在を教えてくれ、「席を譲る」というボタンを用意してくれたおかげで、かつて彼を躊躇させていた「声をかける恐怖」は完全に消え去っていたのだ。
「おばあちゃん、今日は通院の日ですか?」
立ち上がったまま、マサトは自然な調子でおばあちゃんに話しかけた。顔に見覚えがあったからだ。
「そうなのよ。でもね、このバスに乗ると『病院行きですよ』って教えてくれるから、間違える心配がなくて安心でねぇ。……そういえばお兄さん、この前教えてもらったカフェへ行ってきたわよ。ケーキがとっても美味しかったわ」
「本当ですか!喜んでもらえてよかったです」
名前も知らないけれど、毎日の移動の中で顔を合わせる人々。システムという無機質な仲介者が間に入ることで、かえって車内には昔の町内のような、温かい人間関係が芽生えていた。
(こんな簡単なことで、誰かがこんなに喜んでくれるんだな)
おばあちゃんと話しているうちに、マサトは、先ほど付与された百ポイントのことをすっかり忘れていた。システムが人間の代わりに優しくしてくれるのではない。人間の中に最初からあった「誰かを助けたい」という優しさを、行動へと移すための背中を押してくれているだけなのだ。
やがて、バスの案内アナウンスがおばあちゃんの目的地を知らせた。
『まもなく〇〇総合病院前です。お忘れ物のないようお降りください』
「お兄さん、本当にありがとうね。行っておいで」
「はい、お気をつけて!」
おばあちゃんは焦る様子もなくゆっくりと立ち上がり、手に持ったカードで自動決済を済ませてバスを降りていった。
そしてバスは、マサトが設定した目的地のカフェ前へと近づいていく。
降車ボタンを押さなくても、バスはスムーズに減速し、マサトのためだけにドアを開けてくれた。スマホをポケットに入れたまま外へ出ると、『ご乗車ありがとうございました。運賃はポイントから引き落とされました』と小さな通知が届く。
澄んだ秋風が、マサトの頬を撫でた。
彼は軽やかな足取りで目的地のカフェへと向かい、重厚な木製のドアに手をかけた。
扉を開け、中へ入ろうとしたその瞬間――後ろから足音が近づいてくるのに気づいた。振り返ると、両手に大きな買い物袋を持った女性が歩いてくるところだった。
マサトは立ち止まり、開けたドアを手でしっかりと押さえたまま、笑顔で女性に道を譲った。
「どうぞ」
「あ、すみません!ありがとうございます」
女性は嬉しそうに会釈をして店内へ入っていった。マサトもまた、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、その後に続いた。
スマートフォンも、ポイントも、ここでは関係ない。
バスの中で身についた小さな習慣と優しさは、バスを降りたあとも、ずっと彼の心の中に残り続けていた。
おしまい




