第二章 屋敷という檻
花瓶の破片は、思ったよりも早く片づけられた。
――片づける、というより「なかったことにする」速度だ。
床を拭く布の動き、拾い集める手の順序、目線の配り方。メイドは慌てているようで、慌てていない。焦りの中に“慣れ”がある。つまり、この屋敷ではこういう事故が珍しくない。
「お嬢様、本当にお怪我は……?」
割れた陶片に近づかない距離。手袋越しでさえ触れない慎重さ。
恐怖というより、“恐れ方を知っている”人間の態度だった。
(魔法事故を、ここでは病気の発作みたいに扱ってる)
「平気。……手が滑っただけ」
声が高い。口の動かし方も違う。
だが今はそれより、状況把握が先だ。
メイドの名はリーナ。断片的な記憶が教えてくれる。
この屋敷で、自分――いや、この身体の“お嬢様”の世話係。
リーナは一度深呼吸して、ぎこちなく笑った。
「……よかったです。では、医師をお呼びしますね。念のために」
(医師=監視の強化、だな)
「呼ばなくていい」
「でも――」
ここで強く押し返すのは悪手だ。相手は“善意”を盾にできる。
自分はわざと視線を落とし、弱く咳をしてみせた。
「……少し怖かっただけ。落ち着けば大丈夫」
リーナはほっとしたように頷いた。
「わかりました。では温かいお茶を。すぐに」
リーナが出ていき、扉が静かに閉まる。
カチリ。
外から鍵がかかった音。
(……やっぱり檻だ)
病弱な令嬢。魔力の病を抱えた少女。
屋敷は“安全”のために、こちらの自由を奪ってきたのだろう。
まずは情報。
机の引き出しを開ける。指が細くて扱いづらいが、慣れればいい。
中に、薄い革の手帳が一冊。家名の紋章。
ページをめくると、この世界の文字が自然に読めた。
内容は日記というより、体調記録に近い。
「頭痛。胸が熱い。夜、息が苦しい」
「薬が増えた。苦い」
「母は泣いた。父は忙しい」
「外に出たい。けど駄目だと言われた」
短い文から、孤独が滲む。
(この子は、長く“弱いまま”でいるよう仕向けられてた)
そのとき、扉の外で足音がした。二人分。
リーナの軽い足音と、重い靴音。
医師が来る。
案の定、白衣の中年男が入り、続いて護衛が一人。
護衛の目は、部屋ではなくこちらの“手元”をよく見ている。
(対魔法の監視だ)
医師は柔らかく笑った。
「お嬢様。驚かれましたかな。念のため、診ておきましょう」
脈、瞳孔、呼吸。質問。
頭痛は? めまいは? 胸の痛みは? 魔力の奔流は?
自分は必要なだけ“弱く”答える。
過剰に元気を装うと、別の拘束が始まる。
だが、こちらにも目的がある。檻の中で動くための“許可”だ。
「先生」
医師が顔を上げる。
「……最近、少しだけ体が軽い気がします。歩く練習をしたい。中庭で、短い時間だけ」
医師は迷った。
その迷いは、“お嬢様を危険に晒すな”と“改善の兆しを潰すな”の間だ。
自分は小さく付け加える。
「勝手にはしません。先生の言う通りにします」
従順。管理しやすい。
そう思わせれば、許可は出る。
医師はゆっくり頷いた。
「……よろしい。中庭で五分。必ず護衛をつける。疲れたら即座に中止ですぞ」
「はい」
(取れた)
屋敷の外へは出られない。だが中庭なら、空と風と、人の流れがある。
情報が増える。
夕方。許可された短い散歩。
厚手の上着を着せられ、中庭に出る。
石畳、枯れた花壇、噴水。遠くから街のざわめきがかすかに聞こえた。
(世界は生きてる。ここは隔離されてるだけだ)
護衛が一定距離でついてくる。
右の男は周囲警戒型。左の男は手元監視型。役割が分かれている。
歩きながら、自分は呼吸を整えた。
この身体は弱い。だが弱い身体ほど、鍛え直せば伸びる。
そして問題は魔法だ。
主神が言っていた。
――魔法は想像と感覚で形作られる。理屈だけでは動かない。
(なら、想像を“手順化”する)
火は化学反応の知識が先に走ってしまう。
だから“火”じゃない。結果が単純なもの。
(光。点灯。スイッチ)
暗い部屋のランプが、カチッと点く。
その“結果だけ”を脳に固定する。
掌を開く。
――ぽっ、と小さな光が生まれた。
爆ぜない。壊れない。
ただの弱い光。
護衛が身構える。だが何も起きない。
リーナが息を呑んだ。
「お嬢様……?」
自分はすぐ光を消して、軽く首を振る。
「……偶然。気にしないで」
内心は静かに笑う。
(制御できる。少しずつなら)
屋敷に戻る。鍵は相変わらず外からかかる。
だが中庭に出られる時間ができた。十分だ。
その夜、机の引き出しを整理していると、封蝋された小さな封筒を見つけた。
家紋つき。誰かへの報告書らしい。
封を切るのは危険だ。だが、情報は必要だ。
刃物で封蝋の端を薄く削り、紙を傷めないように開く。読み終えたら戻せる。
中身は短い文。
「令嬢の症状は近頃、想定より不安定。外部との接触は厳禁。薬は必ず継続させること。――旦那様には“療養のため”と伝達済み」
薬。必ず継続。
そして“外部との接触は厳禁”。
(治療じゃない。管理だ)
日記にあった苦い薬。
あれが病を治す薬なら、なぜ“必ず継続”が命令になる?
治す気がない。弱らせるために飲ませている。
背筋が冷えた。
その直後、廊下から足音が来た。
リーナではない。軽いが、堂々としている。家の中で権限がある歩き方。
鍵が外れる音。
(……誰だ)
扉が開く。
入ってきたのは、若い女性だった。
整った髪、上質な衣装、薄い香水。笑顔は綺麗だが、目が笑っていない。
断片の記憶が、名前と立場を押し込んでくる。
――父の二番目の妻。継母。
彼女はベッド脇まで来て、優しく言った。
「まあ。起きていたのね。よかったわ」
そして、こちらの顔色を一瞬で測るように視線を走らせ、柔らかく続けた。
「今日はずいぶん顔色がいい。……薬が効いているのかしら?」
(薬を、こいつが管理してる)
継母は微笑んだまま、ほんの少し声を落とした。
「ねえ、いい子。明日もちゃんと飲むのよ」
その一言が、優しさじゃないと分かる。
命令だ。確認だ。脅しの前段だ。
自分は少女の顔で、静かに頷いた。
……はい」
継母は満足げに微笑み、扉を閉めた。
鍵の音が、もう一度カチリと鳴る。
暗い部屋で、自分は掌を見つめた。
(敵がいる。この家の中に)
主神が言った“純粋悪”は遠い城にいる。
だが、その手はここまで伸びている。
そして明日――また“薬”が来る。
つづく




