第一章 死と契約
冷たい銃声で人生が終わった――はずだった。
死の向こうで待っていたのは、名も告げない“主神”と、ひとつの契約。
手違いで浄化も転生もできない魂に、与えられた最後の選択肢はただ一つ。
「“純粋悪”を殺せ。邪神になる前に。失敗すれば、この世界も、他の世界も終わる」
同意した瞬間、光に溶けて――目を覚ます。
天蓋付きのベッド。貴族の屋敷。
鏡に映るのは、病弱な令嬢――学校に通う年頃の少女だった。
胸の奥には、底の見えない魔力。
だが、理屈で生きてきた諜報員の頭は“魔法”を想像できない。
試しに火を思い描いた結果、手のひらで空気が爆ぜ、花瓶が砕けた。
監視が来る。鎖が締まる。自由が消える。
そしてどこかで、“悪の芽”が静かに育っている。
これは、少女の器に宿ったFSBエージェントが、
世界の終わりを“芽のうちに”摘み取る物語だ。
銃声は、驚くほど乾いていた。
耳の奥で金属が弾けるような音がして、その次の瞬間、視界がわずかに傾いた。床が近い。いや、近いというより――身体の方が落ちていく。
(……当たった。胸か?)
痛みは遅れてやってきた。熱い鉄の塊が体内に押し込まれ、そこから一気に冷えていく感覚。指先が思うように動かない。呼吸が浅くなる。肺が膨らまない。
訓練で何度も繰り返した“手順”が、勝手に脳内で走り出す。
出血の位置。圧迫。気道確保。意識レベルの確認。救援要請――。
だが声が出ない。無線も遠い。視界の端で、同僚の口が動いているのだけが見えた。音は届かない。
(……終わりか)
そう思った瞬間、時間が妙に伸びた。
床に落ちたはずの自分が、床の冷たさを感じない。痛みも、熱も、呼吸の苦しさも、まるでスイッチを切られたように消えた。代わりに、静寂がやってくる。
暗闇ではない。むしろ白い。視界のすべてが、柔らかい霧のような光で満たされている。
そこに、“何か”が立っていた。
人の形に近い。だが輪郭が曖昧で、顔がはっきりしない。性別も年齢も、目を凝らすほどわからなくなる。存在そのものが、概念としてそこにある。
声が、直接頭の中に落ちてきた。
『……すまない。手違いがあった』
(手違い?)
自分は死んだ。少なくとも、それは確信できる。体の感覚がないことが証拠だ。ここがどこかは分からないが、尋問室でも医務室でもない。現実味が薄すぎる。
『本来、お前の魂は“浄化”を経て次の輪へ送られるはずだった。しかし――経路が破損している。戻せない』
(戻せない、だと……)
反射的に状況整理を始める。相手の言葉が本当なら、選択肢は限られる。自分が主導権を握れる要素はあるか。情報を引き出せ。条件を聞け。
「……お前は誰だ」
声が出た。口が動いた感覚はないのに、言葉が成立している。ここでは思考がそのまま発声になるらしい。
『上位存在、と言えば納得するか。お前たちの言葉では“神”だ。最高位の管理者――いわゆる“主神”に近い』
神。主神。
頭の中で警報が鳴る。宗教、超常、オカルト。普段なら切り捨てる領域だ。だが今、否定しても意味がない。ここにいる事実が、すでに通常の物理法則の外側だ。
「俺はどうなる」
『通常なら浄化、記憶の希薄化、転生。その流れが断たれた。お前の魂はこのままでは“停滞”し、いずれ摩耗して消える』
(消える。完全な死か)
『だから提案がある。別の世界へ転生させよう。記憶は保持。器も用意できる。……ただし条件がある』
条件、出た。
「聞く」
神――それはわずかに間を置いた。ためらいというより、こちらが理解できる形に言い換えているような間。
『新しい世界に、“純粋な悪”の芽がある。まだ幼い。だが放置すれば、いずれ神格へ到達する。そうなれば一つの世界では止まらない。複数の世界が破壊される』
「それを殺せ、と」
『そうだ。“芽”のうちに摘め。お前が成し遂げれば、お前の魂は安定し、その世界で生き直せる。失敗すれば――悪は“邪神”となり、連鎖的に世界を侵食する』
世界の侵食。連鎖。
スケールが大きすぎて実感が湧かない。だが交渉材料としては明確だ。“失敗=破滅”。つまりこちらに逃げ道はない。成功するしかない。
「俺に、なぜそれを任せる」
『偶然だ。だが、偶然にしては適任でもある。お前は任務を遂行するために自分を捨てられる。疑い、検証し、感情に溺れない。……それに、時間がない』
合理的な説明に寄せてきた。こちらの思考を読んでいるか、性格を把握している。監視されている感覚は不快だが、今は利用する。
「器は」
『貴族の娘だ。名門だが、身体が弱く、魔力の病を抱えていた。……その魂はすでに薄く、まもなく消える運命だった』
(……魂の上書きか)
倫理だのなんだのを言う状況じゃない。ただ一つ、確認する。
「俺の記憶と人格は維持される。代わりに、任務を果たす。そういう契約でいいな」
『契約は成立する。ただし――』
神の輪郭が、少しだけ強くなる。
『お前は“無制限の魔力”を持つ。しかし制御は別だ。魔法は想像と感覚で形作られる。理屈だけでは動かない。お前の合理性は、武器であり、枷にもなる』
枷。制御の難しさ。
それはむしろ助かる。無敵すぎる設定は現場では事故を起こす。制御不能の火力は味方も焼く。制限は必要だ。
「……理解した。やる」
即答だった。
迷っている暇はない。生きることが目的ではない。任務が目的だ。自分はそういう人間だと、痛いほど知っている。
『よろしい』
光が一気に強くなる。全身が、いや魂が、熱に包まれる。
『最後に一つ。新しい世界では、お前は“少女”として目覚める。社会的にも身体的にも不利が多い。だがそれも任務の一部だ』
「問題ない」
不利なら、対策を取るだけだ。
光が弾けた。
――そして。
冷たい布団の感触が背中に戻った。
肺が空気を吸い込む。心臓が打つ。指が動く。痛みはない。あるのは、細い腕の重さと、やけに軽い身体。
目を開くと、天蓋付きのベッドの内側だった。豪奢な刺繍。古い木の匂い。ここが病室か寝室かは分からないが、少なくとも軍施設ではない。
(……小さい)
手を顔の前に上げて、硬直した。
指が細い。爪が小さい。手の甲に浮く血管すら繊細だ。腕も、肩も、骨格が違う。視界の高さも低い。
(本当に、少女の身体か)
寝返りを打とうとして、身体が思った以上に重く、そして弱いことに気づく。筋力がない。呼吸も浅い。まるで長く寝たきりだった患者のようだ。
その瞬間――胸の奥に、別の情報が流れ込んできた。
名前。家名。屋敷。使用人。病。魔力の暴走。寝台の生活。家族の距離感。
(……記憶だ。器の)
全部は入ってこない。断片的だ。だが十分だ。ここは貴族の屋敷。自分の“役”は、病弱な令嬢。
そして――胸の奥で、何かがうねっている。
熱ではない。電気でもない。
力。圧。膨張。
無限、と言われた魔力が、そこにある。海のように広い。だが同時に、どう扱えばいいか全く分からない。
(想像で形作る……?)
試しに、手のひらに“火”を思い描いてみる。
銃火器のフラッシュ、燃焼、酸素、温度、化学反応――そんな知識が先に出てきて、肝心の“火のイメージ”がまとまらない。
結果。
手のひらの上で、ぼん、と空気が爆ぜた。
小さな衝撃波が起き、枕元の花瓶が倒れ、床に落ちて割れた。
ガシャン、と現実的な音。
「……」
静寂。
次の瞬間、廊下から足音が駆けてきた。
「お嬢様っ!? 大丈夫ですか、お嬢様!」
扉が勢いよく開く。メイド服の若い女性が飛び込んできて、割れた花瓶と、自分の手のひらを見て、顔色を変えた。
(……まずい。いきなり事故を起こした)
ここでは、魔法の事故は“病”として扱われていたはずだ。周囲は自分を過保護にし、監視し、自由を奪う可能性が高い。
――なら、最初の任務は決まった。
この身体で生き延びるための基盤を作る。
監視を外す。情報を集める。訓練環境を確保する。
そして、“純粋悪”の芽を探す。
少女の喉から出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「……大丈夫。少し、手が滑っただけだ」
メイドは固まった。
――その反応で分かる。
この令嬢は、今までこんな口調では話さなかった。
(……まずは“演技”からか)
諜報の基本だ。身分は武器にもなるし、鎖にもなる。
自分は、少女の身体で、もう一度任務に戻った。




