白の迷宮と、狐の手
◆ 聖務庁へのお使い
――聖務庁へのお使い。
私にとって、それは「試練」だった。
「……いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
いつになく晴れやかな笑顔で送り出してくるアベルさん。
その笑顔が、やけに腹立たしい。
(絶対わざとだ、この人)
私は肩を落とし、重い足取りで庁へ向かった。
聖務庁。
朝の光を浴びる白い塔は、何度見ても圧倒される。
壁面が淡くきらめき、まるで聖水を固めて作ったみたいだった。
(……やっぱり、場違いな場所だよなぁ)
両手に抱えた書類が、やけに重い。
けれどそれ以上に――心が重たかった。
◆ 白の回廊
庁の中は、どこまでも白かった。
壁も床も天井も、光を吸っては返すような白。
足音さえ静寂に溶け、音が消える。
受付で書状を渡すと、淡々と印を押され、事務的に告げられた。
「アベル神父の所属部署、第七課――特務執行課は、七階奥の突き当たりになります」
「七階……奥?」
思わず顔を上げたが、見渡してもエレベーターらしきものは見当たらない。
階段? どこ? 案内板も――ない。
受付の神父はすでに別の対応を始め、声をかける隙すらなかった。
私は書類を抱えたまま、仕方なく歩き出す。
長い回廊。どこを見ても同じ白。
天井の光が反射し、方角の感覚が狂っていく。
(……方向音痴の天敵だ、ここ)
曲がるたびに飾られている聖句の額縁が変わるだけ。
今が何階なのかさえ、もう分からない。
(アベルさん……地図くらい用意してくれてもいいのに)
歩く。曲がる。歩く。曲がる。
そして、迷う。
「お腹、空いた……」
小声で零した、その瞬間。
背後から、声がかかった。
「おや? 迷子ですか?」
「! そうなんです! 第七課ってどっち――」
振り返った瞬間、息が止まった。
黒髪。琥珀の瞳。
異端審問局副局長――マタイ・クロイス。
(……うわ、最悪のタイミング)
「第七課ですか? アベル神父のお使いで?」
「い、いえっ! なんでもないです! さようなら!」
反射で踵を返し、逃げようとした――けれど遅かった。
手首を軽く掴まれる。触れられただけなのに、体が止まる。
「そちら、逆方向ですよ?」
「あ、あー……あああ……」
「迷子なんですね?」
マタイさんが、にっこり笑った。
それだけなのに、背中が冷たくなる。
私は小さく頷くしかなかった。
「この庁は広くて分かりづらいですから。ご案内しましょう」
「い、いえそんな、異端審問の副局長さんに案内なんて!」
「お気になさらず。ちょうど通り道ですから」
有無を言わさず手を取られ、そのまま歩き出される。
すれ違う神父たちが、一様に道を開けていく。
(ひぃぃ……地図でいいんです。地図ください……!)
心の中で叫びながら、私は引かれるまま歩き――
気づけば、第七課の前に着いていた。
◆ 第七課特務執行課
「マタイ副局長っ!? どのようなご用件で――」
受付役らしい神父が慌てて姿勢を正す。
当然だ。異端審問の副局長が、いきなり他部署へ現れたのだから。
マタイさんは柔らかく微笑み、言った。
「用があるのは私ではなく、こちらの方ですよ」
「は、はいっ! アベル神父のお使いで来ました!」
書類を差し出しながら、私は元気よく名乗る。
こういう時は、とにかく“普通”でいるのが正解な気がした。
神父たちの視線が一斉にこちらへ向く。
「……異界の娘?」
「リコです! 書類をお届けに参りました!
これからお世話になることもあると思います。よろしくお願いします!」
深々と頭を下げると、神父は少し苦笑しながら書類を受け取った。
(ここがアベルさんの部署か……)
“特務執行課”。
名前からして物騒だけど、一体何をしてるんだろう。
今度アベルさんに聞いてみよう。
(よし、ミッションコンプリート!)
心の中でガッツポーズし、私は踵を返して部屋を出た――その瞬間。
「おや。もう帰るのですか?」
振り向けば、いた。マタイさん。
「え?」
「一人では帰れないでしょう? お送りしましょう」
「ええええええ!」
再び腕を取られ、今度は帰路へ。
通るたびに、すれ違う神父たちの二度見が突き刺さる。
(もうやめてぇ……!)
そう思っているうちに――なぜか別の扉の前に立っていた。
「あれ……?」
◆ 異端審問局副局長室
――どうしてこうなった。
気づけば、異端審問局副局長室の前に立っていた。
扉が静かに開き、マタイさんが淡々と言う。
「……どうぞ」
断れるわけがない。
私は半分魂を置いてきたみたいな足取りで、中へ入った。
「わぁ……」
入った瞬間、空気が変わった。
庁舎の他の場所とは、まるで違う。
香の匂いに花と紅茶の甘い気配。
整然と並ぶ書類とティーカップ。
白い空間の中で、ここだけが“色”を持っていた。
「どうぞお掛けください。お茶を淹れますね」
「い、いえ! そんな、お構いなく!」
「気にしなくていいですよ。私はあなたの上司ではありませんから」
マタイさんは笑いながら、カップを二つ並べる。
紅茶が注がれ、琥珀色の液体が静かに湯気を立てた。
「庁の空気は息苦しいでしょう? ここは少し色を入れてあるんです」
そう言って、私の向かいに座る。
「――それに、あなたとは一度、ゆっくり話してみたかった」
その声は柔らかい。
けれど、底が見えない。
「話……ですか?」
「ええ。あなたのいた世界のことを、少し」
「……どうしてそれを?」
「別世界の存在に興味を持つのは自然でしょう」
マタイさんは何でもないように言う。
「あなたの“癒し”の力の理由が、そこにあるかもしれません」
「私の世界には魔法も特別な力もありません。私はただの普通の人です」
マタイさんは紅茶を一口飲み、瞳を細めた。
「存在しなかった力が、この世界で宿る……ですか」
「……自分でも分からないんです」
「そのうち分かるかもしれませんね。焦る必要はありませんよ」
優しい声。
なのに、そこに安心してはいけないと本能が警告してくる。
「けれど、力をむやみに使うのはお勧めしません」
「アベルさんにも同じことを言われました」
「でしょうね」
マタイさんが、微笑みを深くする。
「彼は――あなたを案外、気に入っていますから」
「そう……かな? でもすごく親切にしてもらってます」
「信頼しているんですね。もしくは――インプリンティング」
「インプリンティング?」
「ひよこが最初に見たものを親と思う現象です」
さらっと、とんでもないことを言う。
「もし最初に出会ったのが私だったら、その信頼は私に向いていたかもしれませんね」
どきりとした。
確かに。
最初に出会ったのがアベルさんだったから、私はここにいる。
もし別の人だったら――私は、どうなっていたんだろう。
「以前の審問で、乗り物の事故でこちらに来たと話されてましたね」
マタイさんは、より柔らかく言葉を重ねる。
「その時のことを、詳しくお聞きしても?」
「あ、はい……」
私は少しずつ語った。
墜落の閃光。悲鳴。白く染まる視界。
目覚めた時の、見知らぬ天井。
懐かしさと寂しさが胸に込み上げ、思わず目頭が熱くなる。
「心細かったでしょうね」
マタイさんの手が、そっと私の頭に触れた。
驚いて見上げる。
そこにあった表情は、驚くほど優しくて――息が止まりそうになった。
「困った時は、いつでも相談してください」
彼の声が、耳の奥で甘く溶ける。
「立場というのは、人を守るためにも使えるものですから」
……守る。
その言葉は温かいはずなのに、なぜか“囲う”みたいにも聞こえた。
マタイさんは優雅に立ち上がる。
「そろそろ送りましょう。遅くなるとアベル神父が心配しますから」
差し出された手を取る。
最初より、ほんの少しだけ警戒心が薄れている自分に気づいて、私は慌てて心の中で首を振った。
(ダメ。気を許しちゃダメ)
◆ 教会への帰り道
庁を出ると、風が冷たかった。
白い塔の影が長く伸び、石畳を横切る。
「さぁ、帰ろ」
来る前は足取りが重かったはずなのに――今はそこまで嫌じゃない。
そんな自分が、少し怖い。
アベルさんには「異端審問には気を許すな」と言われた。
でもマタイさんは、思っていたほど怖い人ではない気がする。
頼れる人が増えた。
そんな錯覚が、胸のどこかを温める。
「今日はシチューにしようかな」
教会の灯りが見えた瞬間、胸の奥がほっと温かくなった。
――まるで“帰ってきた”みたいな気分だった。
◆ 異端審問局副局長室
その頃。
「マタイ副局長。グラディウス局長が遠征から戻られました。留守中の報告をお求めです」
「……ああ、戻られたんですね」
マタイ・クロイスは椅子から立ち上がり、小さく息を吐いた。
「――あの筋肉馬鹿が」
微笑みが、薄く歪む。
「さて。あの筋肉は、異界の娘を快くは思わないでしょうねぇ」
唇の端が、ゆるやかに上がる。
琥珀の瞳が細く光り、甘く静かな笑みを浮かべたまま、マタイは部屋を後にした。
まるで、次の盤面を楽しみにする策士のように。




