落下――白い塔の断末魔
風が、肌を裂いた。
白い塔の破片が雨のように落ちて、私の視界を削り取っていく。
胸の奥が、熱くて、冷たい。
撃たれた。そう理解した瞬間にはもう、血の気が遠のいていた。
上から、叫びが追いかけてくる。
「リコ――!」
あの声。
命令でも、祈りでもない。
ただ“私”を呼ぶ声。
(泣かないで)
言葉にできないまま、私は落ちていく。
落下の空白が、すべてを奪っていく。
そのとき。
さらに上で、何かが崩れた。
白い床が割れ、裂け目が一段深く広がる。
そこへ、黒い影が躊躇いなく飛び込んだ。
アベルさんだ。
落ちてくる瓦礫の間を、身体を投げ出すようにして。
自分の命を計算に入れない速度で。
「――リコ!」
次の瞬間、強い腕が私の身体を抱きしめた。
衝撃で肺の空気が抜け、視界がさらに白く滲む。
でも――温度があった。
確かに、人の温度だった。
「……ばか……っ」
言えたかどうかも分からない。
私の声は風にちぎれて、どこかへ消えた。
アベルさんは私を胸へ押し当てたまま、片腕で私の頭を庇う。
落ちてくる破片が肩を掠め、黒衣が裂ける。
それでも、離さない。
その姿を、上から見下ろす者がいた。
塔の縁で、金髪の男――カインが、微笑んでいた。
満足でも嘲笑でもない。
――「見届ける者」の笑み。
そして、その背後にマタイさんがいた。
まるで主を守る従者のように。
柱が軋み、結界が剥がれ、聖句が意味を失って次々と崩れ落ちる。
祈りを独占していた“秩序”が、音を立てて解体されていく。
「……っ、リコ……!」
アベルさんの声が震えた。
抱きかかえている私の身体が、急に重くなったのが分かったのだろう。
痛みが、遅れて身体の隅々まで到達する。
血が、胸の奥で波のように広がる。
私は、息が吸えない。
(……だめ、意識が――)
落下の中で、私は目を閉じそうになった。
その瞬間。
指輪が――青く、強く、脈を打った。
触れていない。
触れていないのに、確かに“発動した”。
青い魔石から薄い光が滲み、私とアベルさんの周囲に輪郭を描く。
それは球状の膜になって、落下の風と瓦礫を押し返した。
――防御魔法。
光が、二人を包む“殻”になった。
「……っ?」
アベルさんが息を呑む。
光の内側だけ、風が止む。瓦礫の音が遠のく。
ああ……きっとマタイさんは知っていたんだ。
この指輪が、こういう瞬間に“自動で”守ることを。
まるで、ずっと前からこの結末を待っていたみたいに。
「……よかった。ちゃんと動きましたね」
はっきりと聞こえたその声は、祈りのように優しく。
同時に、毒のように甘かった。
防御の殻が、落下の衝撃を削ぎ落とす。
それでも私の身体の内側――撃たれた痛みだけは、消えない。
アベルさんの腕が、ぎゅっと強くなる。
まるで、私が霧になって消えてしまうのを止めるみたいに。
「起きて……リコ、起きて……!」
声が掠れている。
あの人が、こんな声を出すなんて。
(……自分を責めないで……)
そう思った瞬間、私は意識の縁から滑り落ちた。
暗闇が来る。
でも、最後に聞こえたのは――
私の名前を呼ぶ、誰かの祈りだった。
◆ 意識の底――癒しの暴走
暗闇は、静かだった。
でもその静けさの奥で、何かが“広がっていく”感覚があった。
胸の傷が熱い。
血が抜けていくのに、なぜか冷たくならない。
むしろ――
(……光?)
私の中から、何かが溢れている。
息をしていないのに、身体が“息を吐く”みたいに。
癒しの力。
私はいつも、手をかざしていた。
目の前の誰かを、近くの誰かを、祈るように。
でも今のそれは、違う。
私の意志を待たずに。
私の許可を取らずに。
国全体へ――広がっていく。
見えない波が、白い塔の崩壊を抜けて、街へ走る。
道を、家を、礼拝堂を、病院を、孤児院を、軍の詰所を。
“痛みのある場所”を、勝手に見つけて。
次々に癒していく。
戦で脚を失った者の断端が、熱を取り戻す。
長く病に臥していた者の肺が、息を吸い直す。
傷を抱えて笑うしかなかった者の古傷が、静かに塞がる。
誰も理解できない。
でも確かに、“奇跡”が落ちた。
同時に、私自身の胸の穴にも、温かなものが戻ってきた。
撃たれた場所が、縫い合わされていく感覚。
内側から、痛みがほどける。
――生きてる。
意識が戻りかけた、そのとき。
落下の衝撃が、鈍く伝わった。
防御の殻が地面に当たり、壊れ、砕け、音が世界へ戻る。
瓦礫の音。叫び声。泣き声。
私は、誰かの腕の中にいた。
アベルさんだ。
土と埃にまみれた黒衣。
腕は震えているのに、私を抱く力だけが異様に強い。
「……っ、リコ……リコ……!」
私の頬に、熱いものが落ちた。
涙。
アベルさんが、泣いている。
(……こんな人だったんだ)
胸が、痛いのに温かい。
私は目を開けようとして、まぶたが重いことに気づく。
身体がうまく動かない。
でも、声だけは――出したかった。
「……あ、べ……る……さん……」
掠れた声が、やっとこぼれる。
アベルさんが、息を詰めた。
そして、私を抱いたまま、額を押し付ける。
「……ごめん……!」
短い謝罪。
その一言に、全部が詰まっていた。
撃ったこと。
命令に負けたこと。
でも最後に、私を追って落ちたこと。
私は、首を振りたかった。
違う。謝らないで。
でも動けない。
代わりに、指先だけが僅かに動いた。
アベルさんの袖を、掴んだ。
それだけで、アベルさんの呼吸が変わった。
――生きている、と確かめる呼吸。
「……よかった……」
震える声で、そう言う。
そのとき。
空が、鳴った。
白い塔が、完全に崩れ落ちる音。
結界が破れ、聖句が剥がれ、支配の象徴が瓦礫へ変わる音。
人々が見上げる。
恐怖と、呆然と、そして――初めての自由。
そこへ。
世界へ向けて、“声”が落ちた。
鐘のように。
祈りのように。
呪いのように。
◆ 世界への告げ――終わりと迎え
『聞け。――この国の“白”は嘘だった』
声は空からではない。
耳からでもない。
胸の奥へ直接、刻まれる。
瓦礫の隙間から、金色の光が滲む。
崩壊の中心――裂けた空間の縁に、カインが立っていた。
金髪の男。
神の代弁者と呼ばれ、百年幽閉されていた存在。
でも今の表情は、神でも魔でもない。
長く独りだった人間の顔だった。
『僕はカイン。神の声を語る“役”を背負わされ、奪われ、封じられた』
世界が静まる。
誰もが、言葉を失う。
『庁は祈りを独占した。救いを商品にし、奇跡を権力にした。……それは終わる』
怒りも、復讐も、混じっている。
でもそれ以上に――終わらせる、という決意。
私はアベルさんの腕の中で、その声を聞いた。
アベルさんの肩が震える。
彼の中に残っていた“命令の痕”が、音を立てて崩れていくのが分かる。
カインが、こちらを見る。
そして、アベルさんを呼んだ。
『アベル』
名を呼ばれた瞬間、空気が変わった。
兄弟の時間が、ようやく同じ速度で流れ始める。
カインは、穏やかに――でもはっきり言った。
『アベル、今度こそ自分の為に、愛する人の為に生きろ』
アベルさんの喉が鳴る。
「兄さん……」
涙が、もう一度落ちる。
カインは視線を移し、国民へ告げた。
『祈りは、選ばれるものじゃない。奪われるものでもない。――お前たちの心の中にある』
その言葉は、命令じゃない。
許可でもない。
――返却だった。
そして、カインの背後に。
ふわり、と光が咲いた。
白い光ではない。
夕日のような、温かい金の光。
そこに立つ女性がいた。
柔らかな髪。
優しい目。
セレスティア。
腕には、小さな子供。
カインに似た、でも確かに“未来”の顔。
迎えだ。
世界が息を止めた。
奇跡なんて、言葉にするな。
そう思うのに、誰かが呟いてしまう。
「……奇跡だ……」
それが合図みたいに、人々が膝をついた。
祈り始めた。
誰かに命じられたからじゃない。
救いを買うためでもない。
ただ――自分の胸の奥へ手を当てて、静かに祈った。
カインは、こちらを見て微笑んだ。
今度は、嘲笑じゃない。
赦しの笑みだ。
『リコ。君の癒しは、役目を終えた』
胸の奥が、すっと軽くなる。
溢れていた力が、潮が引くみたいに静まっていく。
――癒しが、消えていく。
怖くない。
むしろ、自然だった。
(これでいい)
アベルさんが、私の手を握った。
ぎゅっと、確かめるように。
カインが最後に、静かに言う。
『この国はもう、僕の声じゃなく――お前たちの祈りで進め』
セレスティアが微笑み、子供が小さく手を振った。
そして、光がゆっくり閉じる。
カインの輪郭が、夕暮れの中へ溶けていく。
最後に残ったのは――
鐘の音。
でもそれは、支配の鐘じゃない。
人々が自分の意思で鳴らす、始まりの音だった。




