洗脳アベルとの対峙〜銃声
裂けた光の中に、黒衣が立っていた。
銃。ロザリオ。見慣れた姿。
――けれど、目が違う。
硝子玉みたいに冷たく、揺れがない。迷いがない。
そこにいるのは“アベルさん”ではなく、庁の飼い犬――“黒の執行人”だった。
「……アベルさん?」
呼んだ瞬間、指輪がひくりと脈打った。
嫌な鼓動が、胸の奥を跳ねる。
アベルさんがこちらへ一歩。
足音が、いつもより重い。
死神が歩いてくるみたいな足取りで。
銃口が、まっすぐ私に向く。
「ニイナ・リコ。拘束対象」
声まで違う。
柔らかさが抜け落ち、金属みたいな響きになっている。
「……やだ、待って。アベルさん、私――」
「抵抗は無意味。封印鍵の保持者。危険度、最高」
言葉が刺さった。
“私”じゃない。“鍵”として見られている。
背後で、マタイさんがくすりと笑う。
「……見事ですね、局長の“洗い直し”。ここまで綺麗に人が消えるとは」
その軽さが、今は恐ろしい。
怖いのに、私はアベルさんから目を逸らせない。
「アベルさん。お願い、正気に戻って……!」
一歩踏み出した瞬間、床が軋んだ。
白い塔の骨格が、確かに崩れ始めている。
けれどアベルさんは、崩壊の音にすら反応しない。
命令が、耳より先に魂を塞いでいる。
「黙れ」
銃口が僅かに動き、祈りの光が銃身を走った。
次の瞬間、白い回廊に細い線が一本、引かれる。
――撃った。
熱が頬を掠めた。遅れて壁が爆ぜる。
私は反射で身を引いた。
背中が闇の裂け目の縁に触れ、冷たい怖さが背骨をなぞる。
カインが、低く笑った。
「……弟は、相変わらず優秀な犬だね」
「笑ってる場合じゃ……!」
言い返す声が震える。怒りじゃない。焦りだ。
あの人は――今のアベルさんは、私を撃てる。
胸の中が、いやに静かだった。
怖いのに、頭のどこかが冷たく“手順”を組み立ててしまう。
(撃たれる前に――止めないと)
私は懐に指を入れた。
捕縛銃。マタイさんから渡された“護身”の道具。
(使いたくない。使いたくない、けど)
引き金に指をかける。
「……アベルさん。ごめんなさい」
狙いは足元。殺すためじゃない。縛るため。
――パンッ。
銀の縄が走り、白い床に絡みついた。
けれど。
アベルさんは止まらない。
足元へ聖句の光が走り、銀の縄が――燃えるように霧散した。
「……え」
呆然とする私の目の前で、アベルさんは“結界”を踏み越えた。
私の拘束を、祈りで上書きした。
(そんな……)
アベルさんの声が落ちる。
「無駄だ。お前の行動はすべて記録され、裁かれる」
その“裁く”という単語で、胃の奥が冷えた。
「……私を裁くのは、あなたじゃない!」
叫んだ私に、アベルさんがほんの一瞬だけ目を細めた。
――反応がある。
そこに“誰か”がいる。
だから私は、息を吸い直した。
「アベルさん! 私、あなたと約束したでしょ。逃げないって。あなたが私の正義だって――!」
眉が僅かに動いた。
確かに、“揺れ”がある。
けれど、その揺れを塗り潰すように、ロザリオが強く光った。
祈りじゃない。命令の刻印だ。
声がまた冷たく戻る。
「不要な感情。排除」
銃口が上がる。次弾の予備動作。
私は反射で横に飛んだ。
撃ち抜かれた柱が砕け、白い粉塵が舞う。
裂け目が広がり、“天井に見える白”がさらに割れた。
外の光が落ちてくる。
金色ではなく、濁った白。
「……塔が、もう持ちそうにないですね」
マタイさんが楽しそうに言う。
「……黙って!」
私の声に、マタイさんの笑みが少し濃くなった。
「あなたが怒る顔も、興味深い」
その瞬間、アベルさんが私とマタイさんの間に割って入った。
銃口が、マタイさんへ向く。
「異端審問副局長。封印区画侵入。拘束対象」
マタイさんは肩をすくめた。
「おや。私までですか。まあ……そうでしょうね」
笑っているのに、一歩も引かない。
むしろ、わざと“場”を煽っている。
(この人……)
歯を食いしばる。
今は責めている場合じゃない。
私はアベルさんへ向き直った。
「アベルさん! 私を見て! あなたは――」
言いかけた瞬間、胸が痛む。
夕暮れの礼拝堂。抱きしめられた背中。
確かに交わされた温度。
(あれは嘘じゃない)
だから――目を逸らすな。
私は一歩、踏み出した。
撃たれるかもしれない。それでも近づく。
「アベルさん。あなたは“鎖”じゃない。道具じゃない。
あなたは……あなた自身で――」
「停止」
言葉が落ちると同時に、床の刻印が光った。
白い線が伸び、私の足首を絡め取る。
「っ……!」
捕縛じゃない。結界で“固定”された。
動けない。息だけが速くなる。
銃口が、私へ戻る。
「拘束。搬送。封印区画へ」
――私を、カインのところへ?
違う。
今この人の命令は、庁の命令だ。
庁は、私を“鍵”として封じたい。カインを、再び閉じたい。
喉から声が漏れる。
「……駄目っ!」
アベルさんが引き金に指をかける。
その瞬間、カインが、アベルさんを見据える。
「……アベル!」
名が落ちたとき、空気が震えた。
いや、空気じゃない。
“止まっていた時間”そのものが、叩かれた。
アベルさんの動きが、ほんの僅かに止まる。
揺れが――大きくなる。
胸が熱くなる。今なら届く。今なら――。
「アベルさん! カインさんと一緒に終わらせよう!」
声が擦れるほど叫ぶ。
泣きそうなほど。
けれど。
ロザリオが、強く光った。
命令が勝つ。
「……異界の娘。――粛清」
引き金が引かれる。
パンッ――乾いた音。白い光。
胸の奥が、叩かれた。
「――っ」
痛みが遅れて爆ぜる。熱い。冷たい。
息が、肺から抜けた。
固定が解けたのか、身体がよろける。
視界が白く滲み、床が遠ざかる。
(……撃たれた)
理解するより先に、身体が後ろへ傾いた。
――裂け目。
崩れた床の向こう。外の光と、落下の空白。
「……あ」
声が出ない。落ちる。
その瞬間。
カインが怒鳴った。
「アベル! 目を覚ませ! 大事な者を見誤るな!」
祈りじゃない。命令でもない。
血の通った、兄の声。
アベルさんの瞳が揺れた。
冷たい硝子玉みたいだった目に、色が戻る。
――“人間の心”が滲む。
「……リ、コ……?」
声が震える。呼び方が戻る。
名前に温度が戻る。
(良かった)
私は裂け目の向こうへ落ちていく。
アベルさんの顔が崩れた。
あの人が、あんな顔をするんだと初めて知った。
叫びが遅れて落ちる。
「リコ――!」
その声が聞こえたとき、笑いそうになった。
泣きそうにもなった。
(私が死んでも、泣かないで)
身体が動かない。
白い塔の破片が、私の横を落ちていく。
風が痛い。視界が流れる。
上で、カインが微笑んだ。
満足でも嘲笑でもない。
どこか――赦すような笑みだった。




