封印区画――扉の向こう
青い光が満ちる。
世界が、息を止めた。
重い扉の刻印が――ひとつ、またひとつと解けていく。
聖句の線は焼け落ちるように剥がれ、結界の膜は薄くなり、最後には“音”だけが残った。
――カチリ。
鍵穴の奥で、何かが噛み合う音。
私の鼓動が、その音へ吸い寄せられていく。
扉が、ゆっくり開いた。
白い回廊の底。
その先にあったのは、白ではなかった。
闇。
闇の中に、さらに深い闇が沈んでいる。
冷たさはないのに、呼吸が凍る。
そこは“空間”というより――“時間の抜け殻”だった。
「……ここが……」
口にした声は、闇に吸われて消えた。
隣で、マタイさんが愉快そうに息を吐く。
「封印区画の奥の部屋。
異端審問が“最も見たくないもの”を隠すために作った場所です」
言い方が軽い。
けれどその言葉の端が、ぞくりと骨を撫でた。
「行けますか、リコさん」
私は頷いた。
怖い。でも、ここで引き返したら――ここまでの全部が、無意味になる。
闇へ足を踏み入れた瞬間、床の感覚が消えた。
落ちるのに、落ちない。
進んでいるのに、距離が縮まらない。
――“止まった場所”。
夢で聞いた言葉が、現実の形で私を呑み込む。
指輪が、熱を持った。
触れていないのに。
青い魔石が、内側から息をしているみたいに脈を打つ。
とくん。
とくん。
そのリズムが、私の心臓と――もうひとつの心臓を重ねてくる。
闇の中心に、何かがあった。
人影。
金色の髪。
柔らかな微笑み。
肖像画で見た“美しい神父”の顔。
けれど、そこにあるのは絵の優しさじゃない。
目が――深い。
人間の深さじゃない。
「……カイン、さん……?」
呼んだ瞬間、闇が揺れた。
まるで私の声だけが、この空間に“時間”を流し込んだみたいに。
男――カインは、ゆっくり目を細める。
「……やっと。来てくれたね」
声が甘い。
優しい。
でも、触れたら血が出る刃の優しさだ。
「異界の娘。――リコ」
名前を呼ばれた瞬間、指輪が青く光った。
私は息を飲む。
この人の言葉は、耳ではなく身体の奥へ直接届く。
「……本当に、あなたが」
「呼んだよ」
あっさり言う。
迷いの欠片もない。
「君の世界で、君は死ぬ運命だった。だから、こちらへ引っ張った。
――君が必要だったから」
必要。
その言葉が“人として”じゃなく、“鍵として”の意味だとしても
――私は、すぐに怒れなかった。
この人は、長い時間をこんなふうに“扱われる側”で過ごしてきたのだ。
怒りは、どこかで同情に溶けてしまう。
私が言葉を探す前に、背後でマタイさんが静かに声を掛けた。
「長い間、お疲れさまでした。あなたは、もう自由になるべきだ」
カインが視線を動かす。
マタイさんを見て、笑った。
「……君は……そうか。彼女の“血”の……」
その言い方が妙に生々しくて、私は小さく息を呑む。
「ええ」
マタイさんは微笑んだ。いつも通り穏やかな顔で。
「祖母はいつも嘆いていました。この偽りの白い世界を壊すことが――彼女の願いでした」
二人の間には、私の知らない縁がある。
マタイさんの言葉の端に、初めて“人間の温度”が見えた気がした。
その瞬間。
闇の床が、私の足を掴んだ。
ずるり、と。
足首が沈む。吸い込まれる。
「っ……!」
よろけた私に、カインが手を伸ばした。
「大丈夫。闇には飲み込ませない。君は、僕のの鍵なんだから」
背筋が凍った。
同情と嫌悪が、同時に胸を締める。
――私は、人じゃないの?
その迷いを断ち切るように、マタイさんが低く言う。
「リコ。時間がありません。カインの解放を」
私は戸惑いながら、問いを投げた。
「……カインさん。あなたを解放したら、何が起きるんですか」
カインは笑った。
「世界が、目を覚ます」
闇の奥で、何かが軋んだ。
“止まった時間”が、ひび割れる音。
「僕の声が――この国に、もう一度届く。今度こそ正確に」
マタイさんが私の肩越しに囁く。
「リコさん。手を――重ねて」
私はカインの手に、そっと手を重ねた。
指輪が共鳴し、手のひらから光が広がっていく。
青が、闇を押し退ける。
闇が、まるで潮が引くように退いていく。
そして。
カインに絡みついていた“鎖”が、音を立てて弾けた。
――ガシャリ。
金属の破断音が、闇の底に響き渡る。
「……解放」
私が言い切った瞬間、闇の天井――いや、“天井に見えていたもの”が割れた。
裂け目から、白い光が落ちてくる。
白い塔のシステムが、封印の奥を覗き込んでくる。
禁忌の箱を、こじ開けられたみたいに。
カインは、ゆっくり腕を広げた。
「――聞け」
その一言で、空気が震えた。
いや、空気じゃない。
この国の“秩序”そのものが、震えた。
白い回廊の向こうで、同時にひび割れる音がする。
聖句が。結界が。祈りの規律が。
◆ 世界への発信――鐘が鳴る
次の瞬間。
教会の鐘の音が、遠くで鳴った。
――いや、教会だけじゃない。
町の鐘。
塔の鐘。
名もない礼拝堂の小さな鐘。
全部が同時に、狂ったように鳴り始めた。
白い回廊の先で、神父たちの悲鳴が上がる。
すれ違っても見ないふりをしていた男たちが、足を止めた。
誰もが、同じ方向を見た。
空。
白い空に、亀裂が走る。
雲の向こうから、金色の光が滲んだ。
――声が落ちた。
人の喉から出る声じゃない。
でも、人の心にだけ届く声。
『この国の“白”は、嘘だ』
耳ではなく、胸の奥が震えた。
祈りの形をして。呪いの形で流れ込む。
『僕はカイン。――神の代弁者だ。百年前、庁の奥に幽閉された』
言葉が、世界に刻まれていく。
塔の紋章が焼け、聖句が剥がれ、結界が“意味”を失って崩れていく。
『庁は、神の名で人を殺した』
セレスティア。
聖女。
殺された命。
美しい殉教として飾られた死。
その真実が、白い壁の裏側から滲み出してくる。
世界が、ざわめいた。
崩れる音がする。
塔の上層からガラスが割れる音。
柱が鳴く音。
祈りの規律が軋む音。
「……庁が、崩れてる……」
私が呟いたとき、マタイさんは笑った。
「崩壊ですよ。この建物は“彼の魂”を糧に保たれていました。解放された今、朽ちるのは必然です」
カインが、私を見た。
「ねえ、リコ。君はこれを望んだ?」
望んだ。望んでいない。
答えは、まだ言葉にならない。
でも、ひとつだけは言える。
「……私は、アベルさんが幸せならそれでいい。カインさんの苦しみが彼の苦しみなら、それを終わらせたいだけ」
答えた瞬間、カインの微笑みが濃くなる。
「いい子だ」
その言葉が背中を撫でた。
同時に、鎖みたいに絡みつく。
――そして。
封印区画の入口側、白い回廊の遠くで。
“足音”がひとつ、こちらへ向かってきた。
規律正しい。迷いがない。
祈りを歩かせたような足音。
私は息を止める。
裂けた光の中に、その影が現れた。
黒衣。
銃。
ロザリオ。
見慣れた姿――なのに、目が違う。
アベルさんだった。




