白い塔へ
翌朝。
空は薄曇りで、太陽の輪郭だけが白く滲んでいた。
教会の扉を閉めた瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
昨日からずっと、あの“青い気配”が消えない。
指輪は沈黙しているのに、こちらの鼓動だけが落ち着かない。
アベルさんは黒衣の襟元を整え、私の左手に視線を落とした。
「指輪は……外せませんね」
「カインさんと繋がる媒介なら、外さない方がいいですよね」
私が小さく言うと、アベルさんは眉を寄せた。
心配している顔だ。――それでも、逃げ道を作ろうとする顔でもある。
「反応で庁に気づかれる可能性があります。……それだけは覚悟しておいてください」
静かな声が、やけに現実味を伴って胸に落ちた。
聖務庁。
あの白い塔の“仕組み”からは、きっと逃げられない。
けれど私は逃げない。
(カインさんも、アベルさんも……どんな気持ちで過ごしてきたんだろう)
(終わらない人生。終わらない捕らわれの中で)
私が呼ばれたことで、それが終わるのなら。
終わらせられるのなら。
白い塔が視界に現れたとき、私は無意識に息を止めていた。
陽光を跳ね返す壁面。神の紋章。清廉の皮を被った圧力。
「……やっぱり白すぎ」
呟いた私に、アベルさんが小さく笑った。
「ええ。思い切り落書きしたくなりますね」
軽口の中に、言葉にできない“沢山”が詰まっている気がして。
私は小さく頷いた。
今日は正面玄関は使えない。
昨夜の共鳴が報告されていれば、監視は強化されているはずだ。
「裏手から入ります」
「……そんな入口、あるんですか?」
「ええ。庁は“正しさ”のために、隠し通路を作るのが得意なんです」
正しさのため。
――きっとそれは、“黒の執行人”のためでもある。
アベルさんが角を曲がり、塔の陰へ入る。
石壁の裏に、目立たない扉。古い鍵穴と、結界の刻印。
彼は懐から小さな刻印板を取り出した。
庁の一部の神父だけが持つ通行証。
彼が“飼い犬”として生かされてきた証でもある。
刻印が淡く光り、扉が音もなく開いた。
(……なんだか、複雑だ)
中へ入った瞬間、空気が変わる。
白い回廊。白い光。白い静寂。
足音さえ吸い込まれ、こちらの存在を否定するみたいだった。
「目を合わせない。歩調を乱さない。――何を言われても、反応しないでください」
目的を悟られないように。
あくまで自然体で。
私たちは無言で進む。
曲がるたび、聖句の額縁。扉。扉。扉。
階段を上がり、また下りる。
庁は、わざと迷わせる構造になっている。
“ここが正しい場所だ”と刷り込むために。
そのとき――背後で、小さな金属音がした。
カチリ。
次の瞬間、私の首筋に冷たいものが触れた。
「動くな」
低く、硬い声。
私は凍りつく。
アベルさんが振り返るより先に、白衣の神父たちが現れた。
五人。
その中央に、白銀の鎧を纏う巨躯。
金の瞳。
圧だけで空気が折れる。
――異端審問局長、グラディウス・ヴァン・アーデン。
「アベル・クレイン。
そして異界の娘――ニイナ・リコ」
名を呼ばれただけで、裁きが決まるみたいに感じる。
アベルさんは肩を落とし、いつもの飄々とした笑みを貼り付けた。
「局長。いかがなさいました?」
「ニイナ・リコは庁へ出禁にしたはずだ。ここで何をしている」
「――それと昨夜、聖域内の結界が揺れた。封印鍵が共鳴した」
局長の視線が、私の左手へ落ちる。
指輪がじわりと熱を帯びた気がして、私は息を止めた。
「……なるほど。共鳴は本当のようだな」
「ならばこの娘は監視下に置く」
「待って下さい。彼女は私の監督下にあります。それに一般人です」
アベルさんの声が低くなる。
局長は鼻で笑った。
「その一般人を連れて、コソコソと何をするつもりだった?」
「“庁の秩序”に害を成すなら排除する。それが異端審問だ」
背筋が冷えた。
排除。
その言葉は、殺すより静かで、殺すより確実だ。
局長が命じる。
「異界の娘を拘束。幽閉を決定する。封印区画へ搬送しろ」
「幽閉……!?」
声が出た瞬間、神父の手が私の腕を強く掴んだ。
痛い。息が詰まる。
アベルさんが一歩前へ出る。
「止めるか?」
局長の金の瞳が、冷たく光った。
「止めれば、お前も拘束だ」
「――“双子の鎖”が切れる可能性がある」
その言い方が、最悪だった。
アベルさんは今も鎖だ。
庁に繋がれたまま、兄を封じる“道具”。
でも――
アベルさんは笑った。
笑って、言った。
「……僕は縛られるより、縛る方が好きなので。お断りします」
次の瞬間。
黒衣が翻った。
銃が抜かれるより早く、足元に聖句の光が走る。
結界陣。
“祈り”の形をした暴力。
「――目を閉じて!」
言われるより早く、白い光が弾けた。
視界が焼ける。音が割れる。悲鳴が聞こえた。
私は反射で身を縮めた。
その瞬間、腕を引かれる。
「こっち!」
アベルさんの声。
走る。走る。走る。
白い回廊を駆け抜ける。息が切れる。胸が痛い。
でも止まれない。
けれど――角を曲がった先で、待ち伏せしていた白衣がいた。
「そこまでだ」
冷たい声。
同時に、何かが私の足に絡みつく。
――銀の縄。
魔捕縛銃の拘束魔法。
昨日もらった“あれ”と同じ。
「っ……!」
足が縛られ、転ぶ。床が冷たい。息が詰まる。
「リコさん!」
アベルさんが戻ろうとする。
だが背後から別の神父が彼に銃を向けた。
「動くな。お前も拘束だ、アベル・クレイン」
アベルさんの肩が、わずかに震えた。
怒りじゃない。――焦りだ。
(私のせいだ)
言いかけた瞬間、口が塞がれた。
白い布が乱暴に押し当てられ、息が奪われる。
視界が歪む。
遠ざかる白。
最後に見えたのは、アベルさんの目だった。
あんな顔、初めて見た。
誰かを失う直前の顔。
(ごめん……!)
謝るより先に、意識が暗闇へ沈んだ。
◆ 白い牢――幽閉
目を覚ますと、世界が白かった。
天井も壁も床も、全部白。窓がない。時間がわからない。
息をするだけで、ここが牢だと分かる。
手首には拘束具。
魔法を封じる刻印が、肌に食い込むように冷たい。
「……ここ……」
声が震えた。
叫んでも、誰にも届かない気がした。
(幽閉……って、こういうこと?)
カインが閉じ込められている“不老不死の空間”が脳裏をよぎる。
死ねない暗闇。終わらない孤独。
私は唇を噛んだ。
(私も……そうなるのかな?)
そのとき、牢の扉が音もなく開いた。
黒衣の神父――ではない。
柔らかな香の匂いと、温度だけが違う。
「おや。起きましたか」
琥珀の瞳。狐の笑み。
「……マタイ、さん……?」
異端審問局副局長。
怖いはずの人。気を許すなと言われた人。
なのに今、この瞬間だけは――
(助かった……?)
そう思ってしまった自分が怖い。
マタイさんは私の拘束具を一瞥し、ふっと笑った。
「ひどい扱いですね。……あなたは女性なのに」
「私を……幽閉するんですか?」
「ええ。局長はそう決めました」
「あなたを封印区画へ運べば、世界は守られる――と」
世界。守る。正しさ。
その言葉が全部、薄っぺらな嘘に聞こえた。
マタイさんはゆっくり近づき、私の耳元へ囁く。
「でも、私は違う考えです」
「……違う?」
「壊れてしまえばいいと思っているんです」
「こんな偽りの白い世界など」
笑顔のまま言うのが、恐ろしかった。
狂気の告白を、紅茶の感想みたいに言う。
「あなたをここで腐らせるのは、本意ではない」
「……どうして……」
助ける理由なんてない。
私は異端扱いで、危険物で、厄介者だ。
それなのにマタイさんは、鍵を外す手つきで言った。
「私は興味があるんですよ。“扉が開いた先”に」
拘束具が外れる。
冷たさが消え、手首に血が戻る感覚がした。
「立てますか?」
私は震える足で立ち上がる。
「アベルさんは……?」
問いかけた瞬間、マタイさんの瞳がほんの少し細まった。
笑みが“別の形”になる。
「生きていますよ。局長はまだ“飼い犬”を殺しません」
「殺すより便利ですから。……洗い直しているだけです」
「洗い直す……?」
胸が痛んだ。
「行きましょう。二人を助けたいのでしょう?」
マタイさんが扉を開ける。
白い廊下へ出た瞬間、空気がさらに冷たくなる。
「行きます。助けます!」
答えは決まっていた。
マタイさんは微笑んだまま、言う。
「まずは異端審問の奥の奥――“封印区画”です」
指輪が、脈打つ。
とくん。
とくん。
心臓と同じリズムで。
そこが“目的の場所”だと告げるみたいに。
「……カインのいる場所」
「ええ。あなたが開けるべき扉です」
白い回廊の先へ歩き出す。
神の紋章。結界。聖句。
すれ違う神父たちが、誰もこちらを見ない。
見ないふりをしている。
見えないふりをしている。
それがこの国の秩序だ。
やがて、空気が変わった。
壁に刻まれた結界が厚くなる。音が吸われる。光が沈む。
ここから先は、白い世界の底――。
扉の前で、マタイさんが立ち止まる。
「ここです」
重い扉。封印の刻印。
そして――鍵穴。
私の左手の指輪が、青く光った。
とくん。
心臓が、扉に呼ばれている。
「――カインさん。今、助けます!」
私は息を吸う。
怖い。
でも、逃げない。
この先にいるのは、私を呼んだ声。
永遠の闇。
そして――アベルさんの時間を止めた原因。
私は指輪に触れないまま、扉へ手を伸ばした。
青い光が満ちる。
世界が、息を止めた。




