罰の名を呼ぶ
◆教会の夕暮れ
夕暮れの光が、礼拝堂を斜めに切っていた。
ステンドグラスはいつもの赤や金ではなく、どこか冷たい青を含んで見える。
――まるで、夕日の色さえ薄くなってしまったみたいに。
私は長椅子に座ったまま、左手の指輪を押さえていた。
熱はない。鼓動も、もう落ち着いている。
それでも――皮膚の奥に、まだ“闇の気配”が残っている気がした。
夢だったはずなのに、夢じゃない。
耳の奥に、カインの声が残り続けている。
『……君ならアベルを救えるよ』
祈りみたいで。
呪いみたいだった。
隣に立つアベルさんは、私の話を最後まで聞き終えると、ひとつだけ深く息を吐いた。いつもの柔らかな微笑みは、もうない。代わりに、表情そのものが“仕事”になっている。
胸元のロザリオを指でなぞり、薄い唇を結ぶ。
その仕草は落ち着いているのに、空気だけが妙に張り詰めていく。
「リコさん。今夜は、ひとつ約束してください」
「……約束?」
「一人で祈らない。指輪にも触らない」
淡々とした口調。命令ではないのに、逆らえない圧があった。
そして彼は、ほんの少し言いよどむように間を置いてから――言った。
「……それと、今夜からは一緒に寝ます」
「えっ」
思わず声が裏返った。
変な意味じゃない。心配してくれてるだけ。頭では分かっている。
分かっているのに――
(この人、見た目どう見ても二十代後半のイケメン神父なんですよ!?)
私の中で、理性と羞恥心と危機管理意識が同時に暴れた。
眠れる気がまるでしない。
けれど、ここで拒めば話が進まない予感しかしない。
「……わかりました」
小さく頷くと、アベルさんはわずかに目を細め、ようやく頷き返した。
「ありがとうございます」
私の心の格闘が顔に出ていたのか、彼は苦笑いを浮かべる。
「安心してください。何もしません。……寝かせるだけです」
「その言い方が逆に怖いんですけど」
慌てて咳払いをして、私は話題を切り替えた。
「あの……カインさんが言ってました。アベルさんも、罪を背負ってるって」
アベルさんの睫毛が、わずかに揺れる。
「その……不老不死、とか……本当なんですか?」
彼は答えない。
否定もしない。
つまり――そうだ。
「……知りすぎない方がいいですよ」
搾り出すような声だった。
優しさに見せかけて、痛みが混ざっている声。
でも私は、もう引き返せなかった。
「でも私は、知ってしまいましたから」
自分でも驚くくらい、声がまっすぐ出た。
「アベルさんは、この世界に来た私にすごく親切にしてくれました。
もし私がここに来たことに意味があるなら……今度は、私がアベルさんのためにできることをしたいです」
私の嘆きが、カインに届いたのだとしても。
引き寄せられた縁だとしても。
あの夜、爪で裂かれた背中。
孤児院で、私の光を止めた声。
三日間、病室の外で眠っていた背中。
アベルさんは、痛みが分かる人だ。
だからこそ守ってくれていた。
口が勝手に言葉を落とす。
「……あなたが、大切だから」
言った瞬間、礼拝堂の空気がほんの少し変わった。
アベルさんの瞳が揺れる。ほんの一瞬だけ、“神父”じゃない顔になる。
「リコさん……」
彼は視線を落とした。
その沈黙が、答えよりずっと痛かった。
「……君への親切は、ただの自己満足です。
守ることで、救われた気になっている」
「それでもいいです」
私は首を振った。
「救われたのは私です。
だから今度は――私が、あなたの側に立ちたい」
言い切った瞬間、自分の中で何かが固まった。
怖いのに、震えているのに。
もう、逃げられない。
アベルさんは、薄く笑った。
「……強いですね、リコさん」
「強くなんてないです。
ただ、私の正義は……アベルさんにあります」
その言葉に、アベルさんの笑みが消えた。
そして――ゆっくり、私を見る。
「危険な考えですね。偏り過ぎると、選択を間違えますよ」
「それでも私は、アベルさんを悪だとは思わない」
アベルさんは、ほんのわずかに眉を寄せた。
次の言葉は、優しさよりも、覚悟の硬さを帯びていた。
「……ならば、まず話をしましょう。
そこからは君が、自分の判断で決めてください。
君が僕を見限ったとしても――責めません。そこは安心して」
逃げ道を残す声音が、胸に刺さる。
それでも私の選択を奪わないこの人は、やっぱり優しい。
アベルさんは淡々と言った。
「私も兄も――死にません」
「……」
「正確に言えば、“死ねない”。
年を取らない。病で倒れない。
致命傷を負っても、完全に終わらない」
それは祝福じゃない。
声の温度が、そう告げていた。
「これは罰です」
あまりにも自然に言う。
まるで昔から、そういう天気があったみたいに。
「兄は庁に反旗を翻しました。
神の声を捨て、神の座を奪おうとした。
その罰として――不老不死の空間に幽閉された」
私は息を飲む。
「……アベルさんは?」
「双子だからです」
淡々とした言い方が、いちばん残酷だった。
「同じ血。似た魂。
庁にとっては、同罪の可能性がある“危険物”」
アベルさんは肩をすくめる。
「だから私は、生かされました。
兄を封じる鎖として。――“黒の執行人”として」
その言葉が刃になって、胸に刺さった。
「……アベルさんは、何も悪いことをしてないのに……」
呟いた瞬間、声が震えた。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。
アベルさんは静かに笑う。
「庁が黒だと言えば、白でも黒なんですよ」
「そんな……!」
「でも、庁は“正しい”。この国にとって、庁が秩序だからです」
その言い方が怖かった。
正しさが、ここでは人を殺す。
私は指輪をぎゅっと握った。
「……カインさんも、裏切りたくて裏切ったわけじゃないんですよね?
大切な人を失ったって……そう言っていました」
アベルさんが、少しだけ黙る。
答えが単純じゃないときの沈黙。
「……兄は、そんなことまで話したんですね」
低い声が落ちる。
「最初は、救っていました。
奇跡の時代の中心にいて――誰より優しく、親身になって」
ロザリオに触れたまま、アベルさんは目を伏せた。
「ですが、カインが愛した人。
セレスティアが殺されたんです」
「……セレスティア?」
「庁の“聖女”でした。孤児院出身で、奇跡に最も近い器とされた。
兄は、彼女の前でだけは“人間”でいられたんです」
言葉の隙間に、失われた温度が落ちていく。
「二人は惹かれ合い、愛し合い……やがて子どもが授かりました。
ですが子が生まれれば、庁とカインの力の均衡が崩れる。
それを恐れた庁は――彼女を殺した」
呼吸が止まった。
「……お腹の子どもも、一緒に」
礼拝堂の空気が、重く沈む。
白が、清い色じゃなくなる。
私は吐き気がするほど、その白が嫌になった。
「庁のために尽くしていたのに……?」
震えながら問う。答えなど分かっているのに。
アベルさんは否定しない。
「尽くしていたからこそ、その力が脅威になったのでしょう。
カインと聖女の間に生まれる子どもは、この世界で最も崇高な存在になり得た。
――事故に偽装され、暗殺された」
淡々とした声が、いちばん残酷だった。
「記録上は“殉教”。美しい死として飾られた」
吐き気がする。
白は、真実を覆い隠す色だ。
「その事実を知り、兄は神の声を捨てた。
神の声を聞くことが――耐えられなくなった」
静かな声。
けれどその静けさが、燃え残りみたいに怖い。
「……こんな世界、どうでもいい。むしろ支配すればいい」
アベルさんは兄の言葉を、そのまま繰り返した。
まるで今も耳にこびりついているみたいに。
「……兄は反旗を翻しました。
そして異端審問により……幽閉された。殺されるより残酷な刑です」
「……私が呼ばれた部屋の、あの奥の空間に幽閉?」
「ええ」
目を伏せたまま言う。
「永遠の時間。暗闇の中に、たった一人で。
幽閉されたまま、今も生きている」
私は自分の指輪を見つめた。
青い魔石が、無言で冷たく光っている。
「……私の悲しみが、共鳴したんですね。偶然にも。
そして……カインさんを解放できる鍵になりうる」
言葉が口から落ちた瞬間、胸の奥で何かが繋がった。
自分がこの世界へ呼ばれた“意味”を、理解してしまった気がした。
カインの孤独を終わらせるための鍵。
きっと、そういうことなんだ。
けれど――アベルさんは首を振った。
「カインが君を呼んだとしても、君にそんな重荷は背負わせません。
君はこの世界で、自由に生きていいんです」
「アベルさんは……そうやっていつも誰かを守り続けますが」
私は息を吸い、言った。
「……誰が、アベルさんを守るんですか?」
アベルさんの目が、一瞬だけ揺れる。
「……リコさん。その気持ちだけで十分です」
優しい声。
でも、逃げ道を作る声だった。
「君は――巻き込まれただけですから」
「兄の孤独に。庁の恐怖に。そして、私の罪に」
罪。
その言葉で、胸が痛くなる。
「アベルさんは何も悪くない」
「悪いんです」
アベルさんは笑った。いつもの軽口みたいに。
でも、その笑いは空っぽだった。
「私は兄を止められなかった。
助けるふりをして、庁の鎖として生きてきた」
「……」
「君を守ると言いながら、君を“安全な檻”に入れて安心したかった」
私は首を振る。
違う。そんなの、違う。守ってくれたのは、本当だ。
だから――
「良いんです」
私は、息を詰めるように言った。
「庁が白でも黒と言い張るなら……私は、黒を白だと信じます。
あなたの味方です」
アベルさんが目を見開く。
「……リコさん」
「庁と戦うなら、私も戦います。
この世界の秩序なんて、私にとっては最初から“借り物”ですから」
アベルさんの表情が揺れた。
嬉しいのか、苦しいのか分からない顔。
私は衝動のまま一歩近づき、抱きつきそうになるのを堪えながら言った。
「この世界で、あなたが私の正義なんです」
一拍遅れて、アベルさんの手が私の背に回る。
拒まない。逃がさない。けれど、壊さない。
その抱擁に、胸が熱くなる。
「カインさんを解放したら、戦いが始まるんですよね。
異端審問が敵になる。庁の神父も敵になる」
口にしただけで喉が乾く。
それでも私は言葉を止めなかった。
「それでも、私は逃げません。
生きるはずじゃなかった私が、今ここにいるなら――
ここで生きる意味を、あなたを守る役目を、私が決めたい」
言い切った瞬間。
アベルさんが、私の頬に触れた。
次の瞬間、唇が塞がれる。
重なる熱の中で、それが言葉より確かな答えだと理解した。
指輪の青い魔石が、ふっと脈打つ。
とくん。
心臓の音に合わせて。
――そして、耳元で囁きが落ちた。
『……いい子だ』
甘い声。
優しい声。
だからこそ、背筋が凍る声。
『扉は、開く。鍵は、こちらへ――さあ、一緒に終わらせよう』
視界の端で、ステンドグラスの青が濃くなる。
まるで夜の海の底みたいに、光が沈んでいく。
私は震える息で言った。
「……アベルさん。覚悟を決めて」
アベルさんは、ほんの一瞬だけ笑った。
いつもの穏やかな笑みじゃない。
覚悟を決めた人の、静かな笑み。
「……分かりました」
その声は祈りみたいだった。
「では、行きましょう。僕たちの時間を取り戻すために。
君がこの世界で生きる意味を知るために」
青い光が揺れる。
白い世界の遠くで、鐘が鳴った気がした。
それは祝福じゃない。
嘆きの鐘だ。
均衡が崩れる前の、予告の音だった。




