闇の中の声
◆ 翌朝――アベルの不在
朝靄の残る教会は、いつもより静かだった。
鐘の音も、鳩の羽音も、どこか遠い。
昨夜――ステンドグラスが青く濁り、耳元で囁かれた声。
あれが幻じゃないと分かっているから、余計に現実の輪郭が薄い。
礼拝堂の長椅子に座ったまま、私は左手の指輪を見つめていた。
青い魔石。
いまは何事もなかったみたいに沈黙している。
それが逆に怖い。黙っているだけで、いつでも喋れる――そう言われている気がする。
「……アベルさん、起きてるかな」
そっと扉を開けると、居間の机に一枚のメモが残っていた。
癖のある字。短いのに命令形で、妙に丁寧な言い回し。――いかにも、あの人だ。
『庁へ行ってきます。
指輪は触らない。勝手に外へ出ない。
昼までに戻れなければ、町のパン屋に避難して待機。
――アベル』
「……子ども扱いだなぁ」
口にしてみたけれど、笑えなかった。
庁に「行ってきます」って、軽く書ける場所じゃない。
(異端審問に、行くんだよね……)
嫌な予感が胃の奥を締め付ける。
それでも私は、メモの指示に従って教会に残った。
外へ出る気にはなれなかった。
出たらまた――“呼ばれる”気がする。
私は、どう動くのが正解なんだろう。正解なんて、あるのだろうか。
火を起こして湯を沸かし、アベルさんのために茶葉を用意する。
戻ってきたら、せめて温かいものを飲ませたい。
それくらいしか、今の私にできることはなかった。
◆ 白い塔――異端審問局
一方その頃。
聖務庁の白い回廊を、アベル・クレインは無言で歩いていた。
白、白、白。どこまで行っても白。視界いっぱいに“清廉”を押しつけられる色。
(――まやかしの白。やはり、ここは嫌いだ)
足音は吸われ、呼吸の音さえ誰かに数えられている気がする。
異端審問局の扉の前で、警護の神父がアベルを見るなり視線を逸らした。歓迎されていないのは昔からだ。
「アベル・クレイン神父。面会希望の件は――」
「分かっています。通してください」
短く告げると、扉が開く。
冷たい空気に混じって、香の匂いが甘く滲んだ。
案内されたのは局の応接室――ではない。
さらに奥。“封印区画”に近い廊下だった。
壁には聖句と結界の刻印。
ここから先は神の領域だ、と告げるような圧がある。
アベルは胸元のロザリオを指でなぞった。
(……兄さん)
呼ぶな、と自分に言い聞かせる。
呼べば返事が返るかもしれない。
それは救いにも、破滅にもなる。
そこへ前方から白衣の一団が現れた。
先頭は白銀の鎧を纏う巨躯。
異端審問局長――グラディウス・ヴァン・アーデン。
鋭い金の瞳が、アベルを射抜く。
「アベル。よく来たな」
「呼び出しが来たので。断れば減給でしょう?」
「減給で済めばいいがな。……昨日の一件の話だ」
胸の奥が冷える。
(来たか)
「聖域内で結界が揺れた。昨日二回。
“封印鍵”に共鳴反応。異界の娘が関与している可能性が高い」
アベルは表情を変えずに言った。
「彼女は私の監督下です。接触はさせません」
「“させません”で済むなら、異端審問はいらん。
事実、昨日あの娘は封印区画に立ち入っていた」
圧が増す。護衛の神父たちが息を潜めた。
アベルは、いつもの飄々とした笑みを貼り付ける。
「局長。彼女も幽閉するおつもりですか?
彼女は普通の娘ですよ。確実に壊れます」
「娘一人が壊れる程度で事が済めばいい」
その言い方が、殺すより静かで、殺すより確実だった。
――その瞬間。
グラディウスの背後の影から、柔らかな声が落ちた。
「局長、苛めるのはその辺に。
アベル神父が萎縮すると、仕事が増えるのは我々ですからね」
異端審問局副局長――マタイ・クロイス。
琥珀の瞳が穏やかに笑っている。なのに、その目の奥は氷みたいに冷たい。
「昨夜の共鳴は予想より早かった。封印が“彼女”を呼んでいるのでしょう」
グラディウスが眉をひそめる。
「だからこそ、娘は幽閉したほうがいい。今すぐ殺さないだけありがたいと思え」
マタイは肩をすくめ、無邪気に微笑んだ。
「彼女を殺して封印の楔が暴走したらどうするのです?
もう“幽閉の鎖”は止められませんよ。――ねぇ、アベル」
その言い回しが気に入らない。
アベルは低く返した。
「……ええ。マタイの言う通りですね」
グラディウスが短く命じる。
「ならば監督を強化しろ。異界の娘の行動範囲を制限する。
封印区画への接近は即拘束。場合によっては即粛清――分かったな、アベル」
「……承知しました」
答えながら、アベルの胸の奥で、何かが軋んだ。
(縛るために守る。守るために縛る。――どちらも、同じだ)
それでも、今は口にしない。
口にした瞬間、白は“正義”の仮面で牙を剥く。
◆ 教会――リコの眠り
その頃、教会。
昼前。
湯気の立つカップを並べたまま、私は長椅子に座っていた。
待っても待っても、アベルさんは戻らない。
(……遅い)
心臓が落ち着かない。呼吸が浅い。
視界の端で指輪が青く光った気がして、私は慌てて手を握り込んだ。
怖い。
でも――眠い。
昨夜から、ほとんど寝ていない。
目を閉じたら最後、あの声がまた来る気がして――。
「ちょっとだけ……」
そう言い訳して、私は椅子の背に頭を預けた。
瞼が落ちる。意識が沈む。
まるで水の底へ沈むみたいに、音が遠くなっていく。
そして――
闇の中で、誰かが笑った。
◆ 夢の中――カイン
私は、何もない空間に立っていた。
床も、壁も、天井もない。
ただ黒い闇だけが広がっている。
足元はあるはずなのに感覚が曖昧で、怖い。
「……ここ、どこ……?」
声が返る前に、背後から囁きが落ちた。
「ここは“止まった場所”だよ」
振り返る。
そこにいたのは――肖像画の男だった。
金色の髪。穏やかな笑み。
けれど瞳は奇妙に深い。深淵みたいに。
そしてその存在が“人間じゃない”と、肌が先に理解してしまった。
「……あなた……カイン……?」
名前を口にした瞬間、指輪の魔石が熱を帯びた。
鼓動のリズムが乱れ、息が震える。
男は、楽しそうに目を細めた。
「正解。君は賢いね、異界の娘――リコ」
「……どうして私を……」
「君の魂が、叫んでいたから」
カインはひどく優しい声で言った。
「闇の中で、死にたくないと願う君の声が聞こえたんだ。
だからこちらの世界へ君を呼んだ」
「……私を……呼んだ……?」
背筋が冷える。
「……私、事故で――」
「死ぬはずだった」
さらりと言う。
その断言が、残酷だった。
「君の世界は、そういう風に出来ている。
運命が勝つ。理不尽が勝つ。
呼ばなければ君は、あのまま消えていた」
「呼んで……どうするつもりなんですか」
声が掠れる。怒りも恐怖も混ざって、うまく形にならない。
カインは少し首を傾げ、私を覗き込んだ。
「ねえ、リコ。君は知ってる?」
優しい問いかけ。
だけど、それは刃だった。
「この世の無常さを」
「無常……」
「そう。祈っても救われない。救っても感謝されない。
愛しても、奪われる」
カインの瞳が、僅かに曇る。
「――一番大事な、愛した人を殺されてまで、神の声は聞けない」
その言葉が、胸の奥を殴った。
「……愛した人……?」
誰。
誰が、殺されたの。
それが“ある出来事”の正体――?
聞きたいのに喉が詰まる。
怖いのに、目は逸らせない。
カインは闇の中で笑った。
「君は優しいね。だからこそ、君は鍵になれる」
「……鍵……」
「扉を開ける鍵。世界を変える鍵。
そして――すべてを終わらせる鍵」
終わらせる。
その響きに、背中が寒くなる。
「……私はこの世界でも、ただの普通の女の子です。
そんな大役、負わせないでください」
震える声で言い切った。
強がりでもいい。今は折れたくなかった。
「私は……アベルさんのところに帰ります」
カインは笑みを消さなかった。
むしろ、嬉しそうに目を細める。
「アベル。……弟だね」
その名を口にした瞬間、闇が僅かに揺れた気がした。
「彼もまた、この世界の犠牲者だよ」
「犠牲者……?」
「アベルの時間も止まっている。この世界の罰として」
「……え?」
言葉の意味が理解できず、私は息を止めた。
「時間が……止まっている……? 罰……?」
カインは当然のことを教えるみたいに言う。
「僕と同じ。不老不死。
僕が幽閉されたのは百年も前だ。
僕の試練は、アベルの試練でもある」
「……百年……?」
ぞくり、と背筋が震えた。
「双子だからね」
最後の一言が、重く落ちる。
双子。
アベルさんも。
百年前から時間が止まっている?
――死なない?
(アベルさんが背負う罰……?)
視界が揺れる。闇が濃くなる。
足元が抜けるような感覚。身体の輪郭が溶けていく。
カインの声だけが、優しく追いかけてくる。
「君ならアベルを救えるよ」
「……っ」
カインがもう一度、穏やかに微笑んだ。
「また会おうね。異界の娘」
闇が、私を飲み込んだ。
◆ 目覚め
「――っ!」
私は跳ね起きた。
胸が痛いほど鼓動している。息が上がって、喉が乾く。
周囲は教会。
長椅子。机の上の冷めた紅茶。
外は夕暮れの色に染まりかけていた。
(夢……?)
夢にしては、生々しすぎる。
耳の奥に、あの声がまだ残っている。
その時、扉が開く音がした。
「……リコさん」
アベルさんが立っていた。
いつもの穏やかな顔――でも、目が笑っていない。
私は喉を鳴らして言った。
「……アベルさん。私、夢で……カインさんに会いました」
アベルさんの顔から、色がすっと抜けた。




