鍵の娘と、兄の名
聖務庁の白い塔を出た瞬間、肺がようやく思い出したみたいに空気を吸い込んだ。太陽の光すら、庁の外では少しだけ優しく見える。
胸元の包帯――もうほとんど跡になった傷をそっと押さえながら、私は石畳を急いだ。
アベルさんなら、何か知っているかもしれない。
カインのこと。私が呼ばれた理由。出禁の理由。
胸の奥がざわざわして、落ち着かなかった。
見慣れた教会が視界に入った途端、胸の奥がふっとほどける。
ステンドグラスの光。
古びた木の扉。
乳香と、干したハーブの匂い。
「ただいまっ!」
扉を押すと、礼拝堂の奥から返事が飛んできた。
「おかえりなさい、リコさん」
黒い法衣の袖をまくり、机いっぱいに羊皮紙を広げている。どう見ても“書類”と戦っている最中だ。
「報告書、書いてたんですか?」
「依頼は簡単だったんですが、報告書が強すぎてね。勝てる気がしません」
あ、弱音を吐いた。珍しい。
けれどアベルさんは私を一瞥すると、すぐに首を傾げた。
「……どうしました? 何かありましたか?」
「え?」
「リコさんのことなら分かりますよ。何があったか話してください」
さらっと言うのが、ずるい。そんな言葉を向けられると心が軽くなるのが悔しい。
私は椅子に座り、膝の上で指を絡めた。
「……実は今日、庁で……変なことがありました」
「変なこと?」
アベルさんの手が止まる。羽根ペンの先が空中で固まり、礼拝堂の静けさが少しだけ重くなった。
私は喉を鳴らし、言葉を選びながら続けた。
「今日、庁で……誰かに“異界の娘”って呼ばれた気がして。振り返ったら、誰もいなくて……」
「……」
返事はない。けれど視線は外さない。
私は息を吸い直して、続けた。
「それで、知らない部屋の扉が勝手に開いて……吸い寄せられるみたいに入っちゃって……」
そこまで言った瞬間、アベルさんの顔色が変わった。
さっきまで眠そうだった目が急に冴える。
笑みが消える。
空気が、ひやりと冷たくなる。
「……どんな部屋でした?」
声が低い。冗談の混ざらない、仕事の声。
私は背筋を伸ばす。
「部屋の中に、肖像画がたくさん……金色の髪の男の人の……同じ絵が、壁一面に」
言い終えた瞬間、アベルさんの指が僅かに震えた。
「……金髪……」
「それから……部屋の中からまた声がしました。“異界の娘”って。怖くなって逃げようとしたら……局長と、マタイさんがいて――」
「助けられたんですね?」
固い声。私は小さく頷く。
「……マタイさんは、その肖像画の人を“カイン”って呼んでました。神の代弁をしていた人だって……」
「そうですか……」
アベルさんはゆっくり息を吐き、胸元のロザリオを指で撫でた。――悩むときの癖だ。
「それと、しばらく庁へ来ないようにって言われました」
沈黙が落ちる。
やがてアベルさんは静かに言った。
「……庁がそう言うなら、従ったほうがいいでしょう。リコさんのためにも」
「カインって名前、孤児院の神父も呼んでいましたよね」
孤児院の地下。燃えながら笑っていた痩せた神父が、最後に呼んだ名。
――カイン様。
私は唇を噛み、お願いするように言った。
「アベルさん。知っていることがあるなら教えてくれませんか? これからの行動のためにも、知っておきたいんです」
アベルさんは目を閉じ、短く頷いた。
そして――ようやく私の目をまっすぐ見た。
「リコさん。今から話すことは、庁の機密です。
けれど、確かにあなたには知る権利があります」
私は膝の上で拳を握り、深く頷く。
「はい。教えてください」
アベルさんは椅子の背にもたれた。
ぽつり、と。古い祈りを語るみたいに、静かに話し始めた。
◆ アベルとカイン
「まず。カインは……私の兄です」
言葉が落ちた瞬間、世界が一度止まった気がした。
「……え?」
「双子の……血の繋がった兄です。
ただし、普通の兄弟の関係ではありませんでした」
アベルさんは笑わない。
笑えない話だ、と目が言っている。
「兄は“神の声の代弁者”でした」
「……神の声……」
「この国がまだ、“神の沈黙”に沈む前。
祈りに返事があった時代があったんです」
息を飲む。
アベルさんが前に話してくれた、奇跡の時代。
「兄は、その中心にいました。
神の声を聞き、神託を言葉にして、人に渡す――
国を動かすほどの“声”を持っていた」
「……すごいですね……」
素直に漏れた言葉に、アベルさんは苦く微笑んだ。
「ええ。すごい力です。そして……すごく危険な力でもある」
「危険……」
「兄は気づいてしまったんですよ」
声がほんの少し掠れる。
「自分の言葉ひとつで、この国がどうにでもなると」
背中に冷たいものが落ちた。
(言葉ひとつで……国が……)
神の声として語られた言葉なら、誰も逆らえない。
それは救いにも、支配にもなる。
「最初は……兄は善でした」
言い直すように、アベルさんは続ける。
「救っていました。病を癒し、争いを止め、泣く子を抱きしめて。
皆に慕われ、神聖と呼ばれた」
「……でも……」
「ある出来事があって、兄は変わってしまった」
そこで一度、言葉が途切れた。
ロザリオを握る指が、きゅっと強くなる。
「庁は、兄を“神の代弁者”として扱いながら――
兄を、兄の意思ごと政治の“道具”にしようとしたんです」
「……政治利用……」
「兄が救うたびに、庁はそれを“庁の奇跡”として発表し、
兄の声を国の秩序に縫い付けた」
「……ひどい……」
「兄は、最初は耐えた。
でも――」
アベルさんが目を伏せる。
「ある出来事で、決定的になった」
「出来事って……」
少しだけ唇を噛んで、アベルさんは言った。
「……救えなかった人がいたんです」
たったそれだけ。なのに、重い。
救えなかった。
たった一人かもしれない。たった一件かもしれない。
でも、“神の代弁者”にとってそれは――罪の形をしてしまう。
「兄は壊れた。
“神が救わないなら、俺が神になる”と……」
教会の空気が、じわじわ冷えていく。
私は指輪のある左手を抱えるように押さえた。マタイさんにもらった指輪。
青い石が――ドクン、と脈打った気がした。
(この話……怖い)
アベルさんは続ける。
「兄は庁に謀反を起こしました。
神の声で国を塗り替えようとしたんです」
「……それで……幽閉……?」
「殺せないんです。兄は――普通の人間ではなくなってしまったから」
「……隔離されて、まだ生きているんですね……?」
アベルさんは黙って私を見た。
――その沈黙が答えだった。
「兄は“不老不死の空間”に幽閉されています」
「空間……?」
「外界から切り離された場所です。時間が薄い。
死も眠りも訪れない。……ただの闇で、思考だけが続く」
想像しただけで、肩が震えた。
「そんな……地獄みたい……」
「地獄です」
言い切った声が、僅かに揺れる。
「――自分の個性を出すと異端として扱われる。
たとえ神の存在であったとしても」
胸が痛くなる。
(アベルさん……お兄さんのこと……)
庁を憎んでいる。
身内を“道具”にされ、押し潰されて……。
だから彼は、ここにいるのかもしれない。
アベルさんは、まるで私の思考を読んだみたいに笑った。
でも、その笑みは薄い。
「……私は兄を助けたいと思っています。
一個人の命を無視して成り立つ国など滅べばいいと何度も思いました。
神父としては失格ですね……」
私は首を振る。うまく言葉にできないけれど、これだけは言える。
「家族って……簡単に割り切れないです」
思ったより真っ直ぐな声が出た。
アベルさんが少し目を見開き、ふっと息を吐く。
「……そうですね」
その一言が、すごく優しかった。
私は今いちばん怖いことを聞く。
「じゃあ……私が聞いた声は……カインさん、だったんですか?」
アベルさんの顔が、また硬くなる。
「可能性は高い」
「何故……私を?」
喉が詰まる。
アベルさんは静かに言った。
「リコさん。君が異界から来たことは、偶然ではなく――引き寄せられたのかもしれませんね。
そして兄を解放するための鍵……」
「鍵?」
言った瞬間、自分の声が震えた。
アベルさんは否定しない。否定できない、という顔をした。
「リコさんがつけている指輪――兄と同じ系統のものです」
彼はゆっくり私の左手を見る。指輪の青い魔石。
「……共鳴しているのかもしれない」
「共鳴……」
「君はこの世界の理屈の外から来た。
だからこの世界の結界の“鍵穴”に刺さる可能性がある」
鍵穴。鍵。理屈。
私は急に、自分が“人”じゃなく“道具”になったみたいで息が苦しくなった。
思わず、指輪を握りしめる。
その瞬間。青い魔石が脈打った。
――とくん。
心臓と同じタイミングで。
「……っ」
息を詰めた時には、もう遅かった。
礼拝堂のステンドグラスが、わずかに青く濁る。
月光が、白ではなく冷たい青で差し込んだ。
そして――耳元で、囁く声がした。
『……異界の娘』
背筋が凍る。
振り返るより早く、アベルさんが立ち上がった。
黒衣が翻り、銃が抜かれる。
「リコさん、動かないで」
声は冷静。
けれど目が――怖い。怒りではなく、恐怖に近い。
「アベルさん……今、聞こえました……?」
「……ええ」
アベルさんは銃口を天井へ向け、十字を切った。
「主よ……」
そして、すぐに言い直す。
「……いや、主じゃないな」
その呟きが、嫌な確信を孕んでいた。
アベルさんは静かに言った。
「兄が――こちらを見ています」
教会の空気が、ゆっくり沈む。
青い光が揺れて、世界が水底みたいに歪んだ。
私は気づく。
私の世界はもう、
“のんびり異世界生活”じゃない。




