指輪の重みと、呼ばれる名前
病室のカーテン越しに、柔らかな光が揺れていた。
薬草と消毒の匂いが混じった空気にも、もう慣れてしまった。
そこへ――マタイさんが現れた。
白い法衣。きちんと整えられた襟元。
そして、琥珀の瞳がいつも通り穏やかに光っている。
忙しい人のはずなのに、彼は何度も様子を見に来てくれた。
ありがたい。なのに落ち着かない。
それはきっと、私がまだ“庁の空気”に馴染めていないからだ。
「明日で退院ですね。もう痛みはありませんか?」
「はい。いろいろとありがとうございました。皆さんに親切にしていただいて……感謝しきれないくらいです」
私はベッドから立ち上がり、深々と頭を下げた。
するとマタイさんは、少しだけ間を置いてから――
手のひらに小さな黒い箱を乗せて差し出した。
「――これを。君に贈ります」
「……何ですか?」
恐る恐る箱を開ける。
中には銀の指輪が一つ。
中央の青い魔石が、光を受けて静かにきらめいていた。
「えっ……指輪……?」
自分の声が裏返る。
マタイさんは楽しそうに目を細めた。
「防御魔法を付与した指輪です。君の癒しの力は素晴らしい。
けれど、守れなければ再び命を落とすかもしれない。――それは、私にとっても困ることですからね」
「ぼ、防御魔法の……! なるほど……びっくりしました……」
指輪を手に取ると、青い魔石が一瞬だけ脈打った。
まるで、私の鼓動に呼応するみたいに。
(……なにこれ。生きてるみたい)
その小さな反応が胸の奥をくすぐる。
でも同時に、指輪という言葉が、私の世界の常識を引っ張り出してしまう。
「びっくりした、とは?」
「……あ……えっと……」
「言いにくいこと、ですか?」
責めるでもなく、淡々と待たれる。
その“待ち方”が、逃げ道だけを静かに塞いでいく。
私は観念して、正直に言った。
「……私の世界では、指輪って、恋人とか結婚のときに贈る特別なものなんです」
空気がふわりと止まった。
マタイさんの目が、一瞬だけ見開かれる。
次の瞬間、口元に手を添えて小さく笑った。
「……特別、ですか」
私は慌てて両手を振る。
「わ、わかってます! そういう意味じゃないってことはちゃんと!
あくまで文化の違いというか! マタイさんにそんな気がないのも分かってますから!」
「なるほど。あなたの世界では、そういう文化があるんですね」
穏やかな声。
なのに、どこか楽しんでいる気配がある。
「ネックレスやブローチも考えましたが、邪魔にならない実用品がいいと思いましてね。――お嫌でしたか?」
「め、滅相もないです! お偉いマタイさんからこんな素敵な魔法具を頂けるなんて……! 家宝にします! 家はないですけど!」
マタイさんが、くすりと笑う。
「あなたは別の意味で興味深いですね」
「……それ、面白いって言いたいんですよね?」
「ふふ。ご明察です」
私は頬をかき、苦笑した。
マタイさんは少しだけ表情を引き締める。
「何度も言いますが、決して無理はしないように。君の“癒し”はまだ未完成です。
だからこそ――守られることも、覚えてください」
視線が、私の掌の指輪へ落ちる。
「先日お渡しした銃も、身を守ることを優先して使うように。
指輪と銃で、あなたの身の安全を一番に」
「はい」
胸がじんわり温かくなった。
けれど同時に――指輪の重みが妙に現実味を帯びて、静かな不安も残した。
守るため。
そう言い切られると、守らなければならない危険が“当然”のようにそこにある気がしてしまう。
(この世界、やっぱり平和じゃないんだよね……)
指輪の青い魔石は、何も言わず淡く光っていた。
◆ 日常のはじまり
退院してからの生活は、驚くほど普通に戻った。
教会の掃除。庭の手入れ。
時々、町へ出て依頼を片付ける。
――庁からの仕事にも、少しずつ慣れてきた。
けれど、闇市の一件以来。
アベルさんは危険を伴いそうな現場には、私を連れていかなくなった。
(私以上に、アベルさんの方がトラウマになってるのかも……)
そう思っても、口には出さない。
言ったら彼は笑ってごまかして、余計に眠れなくなる気がしたから。
そういえば、指輪の件で。
アベルさんは最初、わかりやすく眉をひそめた。
「……それ、誰にもらったんです?」
「マタイさんです。防御魔法がついてるそうで」
途端にアベルさんの目が光る。
「家が一軒建つ値がつきますね! 売りましょう!」
「は? なに言ってるんですか! ダメです!」
私は容赦なくチョップを入れた。
「痛っ……! 冗談ですよ冗談!」
「お金の話になると冗談に聞こえないんですよ!」
本当にこの神父は……と呆れる。
けれど、そんなやり取りができる日常が戻ったことに、私は少し安心していた。
捕縛銃と防御魔法の指輪。
そして隣には、心強いアベルさんがいる。
あの時より確実に、防御力は上がった。
(大丈夫。私は、もう足手まといにならない)
そう思えることが、少し誇らしかった。
◆ 白い塔の“呼び声”
久しぶりに庁へ書類を提出に来た私は、顔見知りの神父と軽い会話を交わし、軽やかな足取りで入口の門へ向かった。
――その時だった。
『……異界の娘……』
呼ばれた気がして、思わず振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
白い回廊が静かに続くだけだ。
「……気のせい?」
胸の奥が、妙にざわつく。
次の瞬間。
“誰も触れていないはずの扉”が、ひとりでに開いた。
ぎい……と、吸い込むような音。
(え……なに……?)
私の足が勝手にその方向へ向かう。
吸い寄せられるみたいに、身体が抗えない。
扉の向こうは、ひどく静かだった。
空気が冷たい。乳香の匂いが濃い。
そして――
「……なに、これ……」
部屋の中には、金色の髪をした男性の肖像画が無数に飾られていた。
壁一面。天井近くまで。まるで崇拝の祭壇。
どれも同じ顔。
柔らかな微笑み。優しい目。
――けれど。
視線が合った気がした瞬間、背筋が凍った。
「……だれ……?」
空気が、耳に触れるほど重い。
『――異界の娘』
今度は確かに聞こえた。
どこから? 天井? 壁? それとも――自分の内側?
怖くなって踵を返す。
逃げようとした、その瞬間。
ぐい、と腕を強く引かれた。
「うぬは此処で何をしている」
低く硬い声。
振り向いた先にいたのは――白銀の鎧の巨躯。
異端審問局長、グラディウス・ヴァン・アーデン。
そして、その背後に。
「局長」
控えめな声で、マタイさんが立っていた。
私は反射で局長の腕に縋りついた。
足が震える。息がうまく吸えない。
「訳ありか?」
局長は顔をしかめ、私の手を掴んで引き寄せる。
「ひとまず此処を離れよう」
そう言って私の腕を引き、部屋を出た。
背後で扉が、まるで“惜しむように”閉じる。
――外に出た瞬間、空気が軽くなった。
(今の、何……?)
心臓が痛いほど鳴っていた。
◆ 異端審問局長室
通された先は、異端審問局長室だった。
広い。無骨。整然としていて、余計な飾りがない。
空気そのものが“裁き”の温度をしている。
局長は私を椅子に座らせ、低い声で問うた。
「で? なぜ、あの部屋にいた」
「あの場所は異端審問の奥にある“封印区画”だ」
「え……封印区画? 私、そんな場所知りません。出口へ向かって歩いていただけです」
震える指で胸元を押さえながら答える。
「名前を呼ばれた気がして振り返ったら、あの部屋が開いて……」
「移動魔法か。……召喚の類か」
局長の声が硬くなる。眉間に深い皺が刻まれた。
「私、別の部屋に“移された”ってことですか?」
「あの部屋、何なんですか? それに……あの肖像画の男性は?」
局長の答えは短かった。
「……カインだ」
「カイン……?」
その名を口にした瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
孤児院で、痩せた神父が燃えながら呼んだ名前。
――カイン様。
その背後から、もう一つ声が落ちた。
「そう。あの肖像画の男性はカインです」
振り返ると、ドアに背を預けたマタイさんが、静かに私を見下ろしていた。
いつもの柔らかな笑み。けれど瞳の奥は、よく分からない。
マタイさんは淡々と続ける。
「神の声を代弁していた存在――“神の代弁者”。
かつてこの国に、奇跡と啓示が確かにあった頃の象徴です」
局長が苛立たしげに鼻を鳴らした。
「余計な説明はいい。……問題は、なぜ“あの部屋”が開いたかだ」
マタイさんが、私の左手へちらりと視線を落とす。
その一瞬が、なぜか怖かった。
「リコさん。あなたはあの部屋に呼ばれ、“声”を聞いたんですね?」
「……はい。……“異界の娘”って呼ばれました」
「そうですか」
マタイさんは微笑む。
でもその微笑みは安心ではなく、“確信”に近かった。
「……なら、やはり始まっていますね」
「始まってる……?」
局長が低く言い放つ。
「カインは幽閉された。終わった話だ」
「だが――封印されたはずのものが、こちらへ手を伸ばすなら話は別だ」
私の喉が鳴る。
「……幽閉? 封印?」
マタイさんは一歩だけ近づき、声を落とした。
「まずは教会へ戻ってください。庁へも、しばらくは来ないように」
「追って指示は出します」
それは優しさの形をしていた。
けれど同時に、“指示”だった。
局長が頷く。
「アベルにも伝えよう。お前は当面、庁への出入りを禁ずる」
私は握りしめた拳の中で、指輪の魔石が――
ほんの微かに脈打った気がした。
まるで、遠くから誰かが呼吸を合わせてくるみたいに。
(……カイン……どうして私を呼ぶの?)
答えのない沈黙が落ちる。
その中で、マタイさんが最後にぽつりと呟いた。
「……神の沈黙は、終わるのかもしれませんね」
その声が、甘くて冷たかった。
私は背筋に走った寒気を、どうしても拭えなかった。




