君が望む悪役
ショートショートのお手軽なお話
広間は怒号に満ちていた。
壇上に立つ第二王子を、貴族たちの視線が刺す。その誰もが、正義を盾に彼を断罪していた。
──罪のない令嬢を追放した、冷酷非道な王子。
集まった者たちは、その物語を信じて疑わない。なにしろ疑う理由など、どこにもないのだから。
「婚約者を、何の証拠もなく追放するとは!」
「令嬢は何も悪いことなどしていなかったというのに!」
「殿下の横暴は許されるものではありません!」
声という声が王子へと向けられる。
それは糾弾だった。断罪だった。
正義の名のもとに行われる容赦のない裁きだった。
壇上の王子は、その全てを黙して受け止めている。反論も、弁明もしない。ただ静かに、群衆を見下ろしていた。その瞳に何が映っているのか、誰も知らない。知ろうともしない。
「お待ちください。殿下には、殿下なりの──」
側近が声を上げる。主君を庇おうとする必死の声だった。けれどその声は波に飲まれる小石のように、あっけなく群衆の怒りにかき消された。
壇上の脇に、悪役令嬢と罪を着せられ、国を追われた元婚約者が立っている。
彼女は何も語らない。ただ静かに、この場を見守っている。被害者として。糾弾を見届ける権利を持つ者として──己を救った隣国の王子に寄り添われて。
その姿が群衆の正義感を煽り立てる。
見よ、と誰かが言う。令嬢は救われたのだ、と。
悪い王子から解放されたのだ、と。
それはきっと美しい物語だったのだろう。追い出された美しき才女が、その才を認める相手に愛され生きていく。最高のハッピーエンドだ。
王子は黙したまま、群衆を見下ろしていた。
その表情には、諦めのようなものが浮かんでいる。
あるいは──何か別の、名前のつけられない感情が。
疲労か。無力感か。それとも、もっと深い何かか。
怒号が続く。
非難が続く。
糾弾が続く。
広間を満たす延々と続く断罪と糾弾の声が一度、途切れた瞬間──まるで嵐の目に入ったかのような、束の間の静寂。
「……誰も彼もが」
その中で、王子の唇が小さく動いた。
それは独白だった。
誰かに向けられたものではない、ただの呟き。
けれど静寂に沈んだ広間では、その小さな声も届いてしまう。
「誰も彼もが、僕の破滅を望むんだ」
近くにいた者たちが顔を見合わせる。
何を言っているのか、という困惑が広間に広がる。眉をひそめる者、首を傾げる者。
「僕の意思なんて関係なしだ。話だって聞いてくれやしない」
だが王子は構わず呟き続けた。まるで、自分以外の誰にも聞こえていないかのように。
──その声には、静かな絶望が滲んでいた。抗うことを、とうに諦めた者の声だった。
主君の様子がおかしい。それは明らかだった。けれど、従者はどう声をかければいいのかわからない。
「殿下……誰も彼もが、とは、一体、誰のことを仰っているのですか」
元婚約者の令嬢が、首を傾げながら尋ねる。彼女の声は、純粋な疑問に満ちていた。
──本当に、わからないのだ。王子が何を言っているのか。
王子はゆっくりと顔を上げた。
その動きは、まるで重い荷物を持ち上げるかのように、緩慢だった。
「君だよ──今、これを読んでいる君達だ」
王子の視線は、もはや広間の誰も捉えていない。いや、もっと遠く。
もっと別の場所を見ていた。そうだ、彼は見ている。
この物語を、今まさに読んでいる者たちを、悪役の断罪を、娯楽として消費している者たちを、ページをめくる指。スクロールする画面。期待に満ちた視線。
──それら全てを、王子は見ている。
「君達は僕の事情なんて聞いてくれない、見てくれやしない」
王子の声は静かだった。
怒りも、悲しみも、そこにはない。
ただ淡々と、事実を述べるように。それがかえって言葉の重さを際立たせていた。
「いや、聞く気もないんだろう。ただ僕が悪者であることを望んでいる。誰も彼もが、僕が破滅することを期待している」
言葉が空間に染み込んでいく。
「それが物語だから──君達が求める展開だから」
王子は、見えない誰かに語りかけ続ける。
広間の者たちは、ただ困惑して王子を見つめていた。何が起きているのか、理解できないまま。
「僕という人間がどう思っていようと、何を望んでいようと、関係ない。君達の目には、僕は『悪役』としか映らないんだ」
その声には諦めが滲んでいた。
抗うことのできない運命を受け入れた者の、静かな諦念が。
「君達は誰かが壊れる様を見たいだけなんだ。それが娯楽だから。それが物語だから」
言葉が重なる。
「僕にも事情があった。理由があった。でも君達はそれを聞く前に、もう僕を断罪していた」
王子は小さく首を振った。
自嘲するように。あるいは何かを振り払うように。
「いや、違うな。事情なんて、最初から関係なかったんだ。君達が求めているのは『悪役の破滅』という結末だけだから」
──そこにあるのはただ、悪を断罪したいという欲望だけだ。正義を行使したいという渇望だけだ。それが満たされる瞬間を、誰もが待ち望んでいた。
正しさは、時に人を酔わせる。
自分が正義の側にいると信じる時、人は容赦が無くなるのだ。
「教えてほしい。君達は…他人の人生を壊してまで、それを見たいのか?」
王子は、見えない誰かに問いかける。
最後の問いを。
その声には、怒りはなかった。
責める調子も、非難する色もなかった。
ただ静かに、淡々と。純粋な疑問として、それは問われていた。
それがかえって、その言葉の重さを際立たせていた。
「それとも──僕が『物語の登場人物』だから、壊しても構わないと思っているのか?」
問いかけは、宙に消える。
答えは返ってこない。
返ってくるはずもない。
物語の登場人物の問いかけに答えることなど、できはしないのだから。
王子が語り終えた後、広間は静まり返っていた。
しかしそれは、告発を受け止めた静寂ではない。
困惑故の沈黙だった。
誰もが、何が起きたのかわからないまま、ただ立ち尽くしている。
「殿下……何を、仰っているのですか」
側近の声には、戸惑いが滲んでいた。
王子の言葉が、彼には届いていない。理解されていない。
ただ、主君が何か奇妙なことを口走っている、という困惑だけがそこにあった。心配そうに、側近は王子を見つめている。けれど、どうすることもできない。
「一体、誰に話しかけて……」
令嬢もまた、首を傾げている。
そこにあるのは困惑だけで、理解の色はない。彼女にとって、王子の言葉はただの妄言にしか聞こえなかったのだろう。
貴族たちがざわめき始める。
『殿下は錯乱しておられるのか』
『追い詰められて、おかしくなったのでは』
『やはり、悪事を働いた者の末路か』
そんな囁きが広間に満ち、物語は元の軌道に戻ろうとしている。
「ともかく、殿下の罪は明白です」
「これ以上、時間を無駄にする必要はない」
糾弾の流れは止まらない。
王子の訴えは誰にも届いていなかった。
誰一人として、理解しなかった。理解できなかった。
──王子は小さく笑った。
それは自嘲とも、諦めとも取れる笑みだった──ああ、やはりそうか、という納得が、そこにはあった。
それを理解できるのは──この物語を読んでいる、君達だけなのだ。君だけが、王子の言葉の意味を知っているのだ、と。
「僕にできることは…何もないんだ」
呟きは誰にも届かない。
広間の者たちは、王子の言葉など聞いていない。
ただ、正義が成されることだけを待ち望んでいる──それが物語の、正しい形なのだから。
「君達が望む結末を…演じるしかない」
王子は静かに、糾弾を受け入れる態度を見せた。
抵抗することも、弁明することもなく──物語が求める『悪役』を演じることを選んだ。
それ以外に、できることなど何もないのだから。
決定は速やかに下された。
王子は広間から連れ出され、その背中を、誰もが『正義が成された』という満足げな表情で見送った。
めでたしめでたし。
悪は断罪され、正義は勝利した。
物語は、あるべき形で幕を閉じる。
誰もが望んだ通りに。
道すがら。
長い廊下を歩きながら、王子が、誰にも聞こえない声で呟いた。
「次の物語でも…また、誰かがこうなるんだろうね」
その言葉は誰にも聞かれることなく風に消えた。
ただ、どこかで新しい物語を開く。
そして、また誰かが『悪役』として断罪される。
少なくともここでの物語は終わったのだ──読者が望んだ通りに。
星新一みたいな話をいつか書きたいな




