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ある夏の宗教的考察

作者: 三雲零霞
掲載日:2026/02/12

この作品は、2025年7月に発表された筑波大学文芸部誌『樹林』155号(七夕号)に寄稿した作品を加筆修正したものです。




「若人よ、人間はみな敵である。味方はいない」


ある日、先生は言った。


「人間は利己的な生き物だ。だから、例え肉親であろうとも、例え打ち解けた友人であろうとも、心から信じてはいけない。若人よ、お前の味方はお前だけだ」

「はい、先生」


別の日、先生は言った。


「若人よ、老人は死ぬべきである」


先生は舗道の縁石の上を歩きながら言った。


「老人は古い考えをいつまでも若人たちに押し付けてくるからである。そういう害悪に惑わされずに生きるのだ、若人よ」

「はい、先生」


また別の日、先生は言った。

「若人よ、隣人に我が身を捧げなさい」


営業しているのかわからない謎の個人商店や看板の禿げた飲み屋の前を通り過ぎながら、先生は言った。


「愚かな人間は、他人の役に立たなければ存在する意味がないからである。意味のない人間は即座に消えるべきである」

「はい、先生」


さらに別の日、先生は言った。


「若人よ、人は人を愛するべきだ」


公園のベンチに腰掛けてスカートのひだの数を数えながら、先生は言った。


「人を愛することで、自分自身のことも愛せるようになるのだ。人を信じ、人を愛しなさい」

「はい、先生」


僕が先生と話すのは決まって放課後、下校する途上だった。


先生はいつも、僕にいろいろなことを教えてくれた。

例えば、大人を信じてはいけないとか、人間は一人で生きていくべきとか、常に自分が悪かったのではないかという自省をし続けろといった話。

先生の話を聞いていると、こんな僕でもなんとか生きていけるのではないかと思えた。

ずっと僕が内面に抱えていた、けれど絶対に誰にも理解されないだろうと諦めていた価値観が、先生の言葉に共鳴した。

こんなにも共感できる方がいるのだと、嬉しかった。


閑静な住宅街の舗道、県道沿いの寂れたラーメン屋の前、橋の上、アンダーパスの下、どんな所でも、先生は僕に教えを説き続けた。

しばらく黙って僕の前を進んだり、かと思えば芝居がかった所作でくるりと振り返ってまた話し出したり。

先生は決まって僕の前を歩いた。

僕の隣に並んだり、僕の後ろについて来たりすることはなかった。

そして先生にはもう一つ、絶対にしないことがあった。


「あ、すみません」


僕の斜め前を歩いていた先生が急に立ち止まったので、先生と僕の半袖の腕どうしがぶつかった。

先生は「いいや」と柔和に微笑しながら、しかし僕からはっきりと一歩身を引いた。


先生はいつも手首にリストバンドをつけていた。特に飾り気のない黒いもの。

それから、先生の爪、特に右手の親指の爪はボロボロだった。

シャツにはいつも皺がついていたし、スニーカーの靴底は擦り切れていた。


先生はそんな靴でも軽やかにターンしたし、縁石の上を綱渡りのように歩いたし、ブランコの立ち漕ぎにも挑戦していた。


先生には他にも不思議なことがあった。

先生とはいつも僕の家の前で別れる。

僕の家は住宅街の中の十字路に面した土地に位置しているのだが、先生は僕と別れた後、毎回違った方角に帰って行くのだ。

ある日は北へ、ある日は東へといったふうで、たった今通ってきた方向に逆戻りすることもある。

僕は先生の家を知らない。先生が住んでいる地区の名前も知らないし、もしかしたら実は先生は学校の向こう側に住んでいるという可能性だってある。


「ではな、若人」

「はい、先生。また明日」


今日の先生は西の方角へ消えていった。


そして次の日、先生は僕の帰り道に現れなかった。


たまたま今日は委員会の集まりがあり、学校を出るのがいつもより三十分ほど遅れてしまったからかもしれない。

僕が委員会に所属していることは先生には言ってあり、定例委員会の日は先生は大抵僕を待ってくれていた。

しかし今回は臨時だったため、先生は先に帰ってしまったのだろう。

そう考えて、僕は久しぶりに一人で帰宅した。


次の日も、先生は来なかった。

今日はいつもどおりの時間、つまりショートホームルームが終わって大半のクラスメイトが教室を出ていくのを待ってから校門に行ったにもかかわらず。


僕は先生を待った。

十分経ち、どこかの運動部の部員が外周を走りに校門から出て行った。

二十分経ち、軽音楽部がセッションをしている音が教室棟から聞こえてきた。

三十分経ち、英語科の初老の教師が白い自家用車に乗って出て行った。


僕は職員玄関に向かった。

事務室から事務員がこちらを不審そうに見ていたが、僕は靴を脱いで玄関の隅に揃え、靴下のまま玄関横の階段を二階へ上った。


保健室は階段のちょうど目の前にある。

ドアに貼ってある養護教諭の居場所を知らせる張り紙が〈在室〉を示しているのを確認し、扉を叩いた。


「失礼します」


引き戸を少し開けて中を確認すると、養護教諭が机で書類を書いていた。

それ以外に人の気配はない。


「どうしたの」

「今ここに誰か来てますか」

「来てないけど……」

「じゃあ大丈夫です。お忙しいところ失礼しました」


会釈をして扉を閉める。


悪い予感がしていた。

僕は学校を足早に出ると、先生を探した。

閑静な住宅街の舗道、県道沿いの寂れたラーメン屋の前、橋の上、アンダーパスの下、どこを探しても先生はいなかった。

いつもは通らない歩道橋の上や河川敷、普段通る橋より下流にある別の小さな橋にも行ってみた。

先生の家も連絡先も知らないことが悔やまれた。


いつの間にか僕は来たことのない住宅街の中にいた。

一度学校に戻ろうと考え、スマホを取り出す。

ごく近くに電車の音がした。

地図アプリを見るに、ここから二本向こうの通り沿いに線路が通っていて、そこの踏切を渡ると学校への近道になるようだ。


曲がり角に出ると、遠くに確かに踏切があった。

そこには小柄な人影。


「……先生?」


いつもと違って私服だったが、頭の低い位置で不器用に結ばれた髪は先生のそれだった。


視認した刹那、僕は駆けだしていた。

部活にも入っておらず、体育の授業も適当にこなしている僕の全速力なんてたかが知れていたが、転びそうになりながら走った。


「先生っ、ここにいたんですね」


先生は微動だにしなかった。

肩で息をしながら僕が先生の顔を覗き込もうとした時、先生は初めて動いた。

先生は踏切の中に歩き出した。


「どうしてここがわかったのかな」

「先生のことを探して、あちこち歩き回ったんですよ……」


僕が踏切の手前でまだ息を切らしているのを尻目に、先生は踏切の中まで進んで立ち止まった。


「若人よ。先生は、学校を辞めることにしたよ」

「えっ」


先生はいつものようにくるりとターンして僕の方を見た。


「だから、もう一緒には帰れないんだ」


先生は僕を見てはいなかった。

虚ろなその双眸は何も映していなかった。

これまでもそうだった。

先生は、いつも僕を見ているようで、何も見ていなかったのだった。


「先生はもういなくなるよ。先生の教えたことを守ってこれからも生きるんだよ、若人」


「若人」は、「僕」の代名詞ではなかった。


踏切の警報機が耳障りな音を立てる。

僕と先生の間を黄色と黒が遮る。

先生は動かない。

僕は動けない。

金縛りに遭ったかのように。

息ができない。

夏なのに脳天から氷水を浴びせられたように全身が冷えていく。

灰色をした雲の切れ間から夕日が僕の目を突き刺す。

その時初めて、西を向いていたことに気づいた。

鉄の塊の規則的な機械音が段々と大きくなってくる。

くらくらするような光に飲み込まれて、先生の姿が逆光に塗りつぶされる。


その瞬間、不意に金縛りが解けた。

僕はもう一度走り出して、遮断機を押し上げた。

目を見開く小柄な少女に真っ直ぐ駆け寄り、その腰に腕を回して抱え上げ、その勢いのまま踏切の反対側まで走った。

ほんの僅かな時間だったが、僕には一時間もかかったようにさえ思えた。

遮断機を越えた所で力尽きた僕は、そのまま先生を押し倒すような形で道に倒れ込んだ。

その背後を、轟音を立てて列車が通過していった。


「何、してるの」


先に口を開いたのは先生だった。

もうちょっとで死ねたのに。

発されなかった言葉を脳が自動で補う。

詰るような響きを含んだその言葉たちに、しかし構っている暇はなかった。


「……ねえ、先生。いや、『佐藤夏菜さん』」


隣にいる少女がひゅっと息を呑むのがわかった。


「なんで」

「なんでって。クラスメイトだからだよ」

「は」

「二年D組、佐藤夏菜さん。去年から保健室登校でも、一応クラス分けはされるんだよ」


僕は昼間の熱を溜め込んだままのアスファルトから体を起こす。


「っていうか、去年も同じクラスだったんだけど。だから最初に声かけられた時、佐藤さんだってわかった」

「なんで、言わなかったの」

「君が楽しそうだったから。自分の正体を知らない相手と話すのが」


そこにいたのは、もはや先生ではなく、ただの少女だった。


「……じゃあ、私のこと、本当は馬鹿にしてたんだ。わけわかんないことを喋りまくって、教祖みたいな顔をして、自分のこと『先生』とか呼ばせて偉そうにしてるの見て、痛いなーって思ってたんだ。本当は心の中で笑ってたんだ。そうでしょ」

「それは違う」

「そうなんでしょ! 嘘吐かないでよっ!」


少女は起き上がり、僕の肩を突き飛ばす。

だが、力が足りないのか力のかけ方が下手なのか、僕は一歩よろめいただけだった。


「違うよ。本当に。君の言ってたこと、ちゃんと共感してた。正直、支離滅裂なことを言ってた部分もあったけど、でも、わかるなって思う部分もたくさんあった。嬉しかったんだ、僕と同じ人がいて」


物心ついた頃から人と会話するのが下手で、どんなコミュニティにいても周りから浮いていた。

そのせいで人格にどこか歪みが生じていって、ますます他の人から浮いてしまった。

もう誰にも理解されないと、それでいいと諦めていた僕にとって、『先生』と話す時間は大切なものになっていた。


「知らない……っ知らない知らない! もうやめて、私に話しかけないで、あんたなんかどうだっていいの、だから」

「それこそ嘘だ。それは君がそう思いたくて思い込んでるだけ。僕のことがどうだっていいなら、どうして僕が来るまで死ななかったの? どうして僕が来た途端に死のうとしたの?」

「……」

「本当は死にたくなんかなかったんだ。僕に助けてほしかった、違う?」

「ちが、そんなの、」

「本当に?」


一歩後ろに身を引いた少女の手を取る。

絶対に逃がしてはいけないと思った。

例えこれまでの関係が壊れて、少女が二度と僕と話してくれなくなっても。

少女はぴくりと肩を震わせたが、それだけだった。


「君が少しでも望むなら、僕は君を救いたい。だって僕は君に救われたから」


再び、僕たちの後ろで踏切がカンカンと鳴る。

少女はしばらくどこでもない虚空を見つめていたが、やがて僕の目をもう一度見た。

その瞳には、もう『若人』は映っていない。


少女が落とした呟きは、けたたましい警報音の中で、それでも確かに僕の耳に届いた。




少女は結局いなくなった。


佐藤さんが正式に退学したことが、翌朝のショートホームルームでクラス全体に通知された。


退学に伴って引っ越しをするのだと、佐藤さんは言っていた。

どのくらい遠くへ行くのかはまだ聞いていないけれど、そのうち、先日交換したLINEで教えてくれると言っていた。


どれだけ遠くに行っても、僕はまた会いに行くだろう。

僕はまだ、佐藤さんに恩返しができていないのだから。


もうすぐ夏休みが来る。




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