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暁鐘の舞姫  作者: 柏月櫂
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星は示し月は満ちる



 高窓から光が斜めに差し込んでいる。

 列柱が立ち並ぶ室内の最奥に置かれた椅子に、老いた占星術師が座っていた。傍らのテーブルの上には、年代物の渾天儀と共に、半分表紙が取れかけたような古い書物が頁を開いた状態で置かれている。


 穹窿の天井の下で、気慣れない洋装に身を包んだ二組の夫婦が落ち着かない様子で立っていた。


 数年前からここ雛菊乃郡では、子供が一歳の誕生日を迎える月に、占星術師のもとを訪れ個人鑑定してもらうことが大流行していた。作成してもらった天体配置図を額装して洋間に飾り、来客に「火星と木星のアスペクトが……」などと、聞きかじりの鑑定結果を自慢げに披露するのだ。


 ――ようやく訪れた太平の世には、空前の占いブームが巻き起こっていた。


「えぇ……この子は……えぇ……世界を正しく……えぇ……導くために……えぇ……天より遣わされた……特別な…………存在で、ある……」


 か細い声で告げた占星術師の声は震えていた。歴史的瞬間に立ち会えた感動に打ち震えていた訳ではなく、老齢のせいで。

 告げられた預言のあまりの突拍子のなさに、二組の夫婦は戸惑いを隠せない様子だった。


 老占星術師は、両手に持った二枚の天体配置図に鼻がくっつきそうなほど顔を近付けて瞬きをくり返した後、今度は体がのけぞるくらいまで遠ざけて目を眇める。すると、傍らに控えていた十歳くらいの少年が、拡大鏡を半ズボンのポケットから取り出し、老人の鼻先スレスレの位置に突き出した。


 老占星術師は首を後ろに引くようにしてピントを合わせると、それぞれの天体配置図に順番に目を通した。軽く首を傾げてから視線を落とす。

 占星術師の足もとには、藤で編まれたちいさなゆりかごが二つ並べて置かれていた。その中ですやすやと眠っている赤ん坊を見て、両手に持った天体配置図に視線を戻す。もう一度赤ん坊を見て天体配置図を見比べてから、途方に暮れた顔をして、傍らに控えていた少年に尋ねた。


「はて……これは……どちらの子の未来に関わることだったか……」


「こ……の……耄碌ジジィ……」


 見習いだと名乗った少年が、わなわなと怒りで体を震わせながら、絞り出すような声でその場にいた全員の心の内を代弁した。


「大変申し訳ございません。今のなし。すべて忘れて下さい。この通りの老齢のため、正しく占えているか非常に怪しいです」


 少年は、呆然としている依頼者たちを振り返って、一切の迷いを見せることなく床に両手蝶膝をついて額を床に打ち付けた。ゴンという鈍い音がした。


「大変失礼いたしました。後日別の者がお屋敷の方に伺わせていただきます。勿論お代はいただきませんっ。本当に、本っ当に申し訳ございませんっ」


 十歳になるかならないかくらいの見習いの少年が、額を床にこすりつけて必死に謝罪している横で、その七倍は生きていそうな占星術師は、椅子の背にもたれかかり瞑想を始めた。


 二組の夫婦は、困惑と期待が混ざった表情で、眠る我が子をそれぞれ見下ろしていた。


 鷹嘴(たかはし)の本家の長女として生まれた水鳥(みどり)と、分家の長女として生まれた(すみれ)。二人は偶然にも、同年同日のほとんど同じ時刻に同じ屋敷で生まれていた。故に、二人の天体配置図は見分けがつかないくらいにそっくりだったのだ――








 最初に菫が『選定者』の声を聞いたのは、数えで十二の春のことだった。


 その頃はまだ、菫と水鳥は本当の姉妹のように仲が良く、菫は水鳥のことを尊敬する『主』として心から慕っていた――





    ― 星は示し月は満ちる ―






「これ、もしかしてすみちゃんのかしら? 」


 従姉妹の水鳥は感じよくにっこりと微笑んで、綺麗に折りたたまれた古布の風呂敷を机の上に置いた。


 鷹嘴家は、古くからこの雛菊乃郡を治めてきた一族だ。その一人娘である水鳥は、屋敷の中でも、二人が通う女学校においても、昔話に登場するお姫様のように周囲の人々から傅かれる存在だった。


 自室の机の上の籠の中に入れてあるはずのものが、何故昼休みの教室にあるのだろう。どうして今これを水鳥が持っているのだろう。

 のろのろと顔を上げた菫は、水鳥の背後に立っている三人の女生徒が、にやにやと意味ありげに笑い合っていることに気が付いた。


「昨日彼女たちがうちに勉強しに来た時に、廊下に落ちていたのを間違えて持って帰ってきてしまったのですって」


(そういうことか……)


 意地の悪い顔で笑っている三人組は、昨日水鳥と一緒に勉強をすると言って鷹嘴の屋敷を訪れていた。三人の内の誰かが菫の部屋に忍び込んで、風呂敷を盗み出したのだろう。こうやって皆の前で笑いものにするために。


「何かしらあれ、あのきったない布」


「本当。あんなボロ布、恥ずかしくて女中にも持たせられないわよねぇ」


「わたしにはとても無理……いやだわぁ」


 ひそひそと囁く声が耳に届いた途端、怒りと恥ずかしさで菫の顔は真っ赤になった。

 菫を見下し嘲笑している三人は、大戦後に一代で財を築いた所謂『株成金』の娘たちだ。家柄を重んじる風潮が未だ残る女学校の中では浮いた存在であり、「品がない」「言葉が汚い」などと一部の同級生から冷ややかな目を向けられていた。


 三人が水鳥に取り入って常に行動を共にしているのは、自分たちには決して手に入れられないものを、水鳥の存在で補うためだ。そして、菫を執拗に貶めるのは、自分より『下』の者がいるのだと安心したいから。


 分家の娘である菫は、鷹嘴の苗字を持ち同じ屋敷で暮らしていても、家での立場は奉公人とほとんど変わらない。女学校でも水鳥の『お付きの女中』だと認識されていた。

 先程までは明るい笑い声があちこちから上がっていたのに、気付けば教室内はしんっと静まり返っている。紺色のセーラー服を着た少女たちの視線が、机の上に置かれた風呂敷に集まってきているような気がして、あまりの居心地の悪さに、菫は思わず右手の肘の上あたりを強く握りしめた。そうしないと体が震え出してしまいそうだったのだ。


「物を大切に大切に使うということは、そんなにおかしなことなのかしら?」


 憂いを帯びた表情で背後を振り返り、水鳥がやんわりと彼女たちを窘める。蔑みの言葉を口にしていた少女たちは恥じ入るように頬を染めて俯き、「水鳥さまの言う通りです」「わたし感動しました!」「わたしも!」と今度は口々に称賛し始める。


 鷹嘴水鳥は、この女学校に通う全生徒が憧れ、理想とする存在だ。

 彼女は自らの品位を損なうような行動を絶対に取らない。他人の悪口を決して口にしない。慕い頼ってくる者たちには必ず手を差し伸べる。

 全生徒の模範となるよう、水鳥は常に厳しく己を律していた。


 ――それは祖母の教育の賜物だった。


 祖母の綾乃はまさに鷹のような目をした、大変厳しい人だった。ジロリと睨まれると、奉公人たちだけでなく、息子である水鳥と菫の父親たちでさえ顔色を失い震え上がった。

 綾乃は数年前まで鷹嘴の家の絶対的な支配者だった。本家と分家の線引きがしっかりなされているのも祖母の意向だ。彼女は『家』の秩序を何よりも重んじていた。

 いずれ優秀な婿を取り、鷹嘴の『正統なる血筋』を守り継ぐ。そのために水鳥は特に厳しく綾乃に躾けられてきたのだ。


「ねぇすみちゃん、この風呂敷、来月に郷を出る方への贈り物よね? わたくしもお世話になった方なので、この角の辺りに名前を刺繍してみたいと思うのだけど、どうかしら」


 菫に向き直った水鳥は、糸を引きすぎてつれたようになっている部分を指先で軽くしごきながらそう言った。こうして水鳥の手にある風呂敷を改めて見てみると、針目は揃っておらず線はガタガタ、麻の葉の模様は何だかよくわからないものになり果てている。


 この風呂敷は幼馴染の将人への贈り物だった。麻の葉模様は、幼い頃に彼が着ていた着物の柄だから、水鳥も直感的に気付いたのだろう。

 庭師の父の荷物持ちとして鷹嘴の屋敷に出入りしていた将人は、来月、遠方で林業を営んでいる親戚の所に働きに出ることが決まっている。


(贈り物を渡せるのはこれが最初で最後)


 そう思ったから、母に頼み込んで藍染めの古着を一着分けてもらい、ほどいて風呂敷に仕立て、一目一目心を込めて中心部分に白糸で刺し子をほどこした。

 瞬間的に自分だけの力で完成させたいと菫は強く思ったのだ。

 しかし――


「大変……喜ばれると思います。よろしく……お願い……いたします。水鳥お嬢さま」


 椅子から立ち上がり、口の中でもごもごとそう言ってから、菫は深く深く頭を下げた。

 気付けば口が勝手に動いていた。そんな感じだった。


 将人が水鳥に対してほのかな恋心を抱いていることに、菫は気付いていた。時折熱の籠った眼差しを母屋の方に向けていることがあったから。

 水鳥が絹糸で名前を刺繍した風呂敷は、きっと将人の一緒の宝物になる。だから……これでいい。

 心の中で、そう自らに何度も言い聞かせる。


『あなたは器量が悪く愛想もないのだから目立たないよう大人しくしていなさい。水鳥の厚意を素直に受け入れ、感謝の気持ちを伝え続けなさい』


 幼い頃から菫は周囲の大人たちにそう言い聞かされてきた。


 水鳥はいつも出来の悪い菫をいつも手助けしてくれる。上手くできなければ「貸してごらんなさい」と微笑んで、代わりにやってくれる。何をやらせても水鳥は完璧だ。一際光り輝く存在であり続けることを強要されている……ともいえる。


 菫はすべてにおいて水鳥より劣っていた。本当に従妹同士なのかと訝しがられるほど、容姿もぱっとせず、陰気な顔で常に俯きがちに歩いている。

 着飾ることには昔から興味がなかった。人見知りで社交性はなく、物覚えが悪くて勉強は苦手。運動はもっと苦手。絵心はないし歌も下手。手先は不器用。異国語どころか自国語でさえ、自分の気持ちを相手に正しく伝えられない。


 ――あってもなくても誰にも気づかれない、足もとに落ちる影のようなもの。


 菫はそういう存在であり続けなければならない。この先もずっと……  


『いや、それじゃ、困るんだけどねぇ』

 

 不意に背後からそんな声が聞こえた気がした。若い男性の声だった。驚いて後ろを振り返るが、じっと息を潜めてことの成り行きを見守っている同級生の姿があるだけだ。

 そもそも、女学校の教室に、教師でもない男性がいたら、それこそ大騒ぎになっていることだろう。


「どうかして?」


「あ……いえ、すみません。遠くから呼ばれた気がして。気のせいだったみたいです。……こちら、屋敷に戻ったらお嬢さまのお部屋までお持ちいたします」


 取り繕うように笑顔を浮かべてそう言った後、菫は再び深く一礼した。


「お願いするわね。そろそろ次の授業が始まりますわね。皆さま席に戻りましょう」


「はい、水鳥さま」


 水鳥が踵を返して歩き出す。低頭し続ける菫の姿に、自尊心をくすぐられた取り巻きの三人は、取り澄ました貴婦人のような表情で満足そうに微笑み合った。

 水鳥と共に行動し、傅く者たちの前に立っていれば、『生まれながらにして高貴な存在』であるのだと錯覚することができる。彼女たちは一度覚えたその快感からもう抜け出せなくなっているのだ。


 水鳥たちが遠ざかってゆく気配を感じながら、菫は先程の男性の声を思い出していた。


(あれはいったい何? 誰の声?)


 呆れながらも、しょうがないなぁと甘やかしているような……そんな、耳に心地よい、印象的な声だった。






 落ちた枝葉の掃き掃除が終わった頃を見計らって、菫は生垣の近くで道具を片付けている将人の元へ向かった。切り口から発せられる匂いが周囲に漂っている。


 父親は作業が完了の報告に行っているようで姿がない。渡すのなら今がチャンスだ。


「……これ、お餞別」


 努めて明るい声でそう言って、金の糸で名前を刺繍された部分が上にくるように折り畳んであった風呂敷を差し出す。刺繍に気付いた将人は頬を赤らめ、照れ笑いを浮かべた。


「そっか……ありがとうな、菫」


 彼は勢いよく立ち上がって風呂敷を空に向かって両手で広げた。


「丈夫で使い勝手がよさそうだ」


 中心部分の麻の葉の刺し子を見つめて嬉しそうに笑っている。光に透けた模様は不思議ときれいに整って見えた。

 風が吹いて風呂敷がはためく。将人は風を孕ませるように、バッサバッサと風呂敷を大きく空向かって振りはじめる。しばらくそうやって遊んでから風呂敷を地面に広げて、足元に置いてあった道具類の入った木箱を包むと肩に背負った。

 父親が、首からかけた手拭いで汗を拭きながら勝手口から出てくる。菫に気付くと手を止めて軽く会釈した。


「じゃあ、元気で!」


 青空に負けないようなカラッとした笑顔だ。菫に向かって手を大きく振ってから将人は歩き出す。

 父親の元に走ってゆく背中を少しの間見送ってから、菫は踵を返して歩き出した。


 それぞれの立場というものがある。間違っても『変な噂』が立つようなことがあってはならない。何も気付かないふりをした将人の気持ちが、菫には痛いほどよくわかっていた。

 でも……そんなことは、ふと青空を見上げた途端にどうでもよくなってしまったのだ。風を受けて風呂敷が大きくはためいていた。まるで空の青に溶け込もうとするかのように。


(喜んでもらえてよかった)


 水鳥に刺繍をお願いしてよかった……と、素直にそう思えたのだ。



『ふぅん、よかったね』



 風に乗って背後からそんな声が聞こえてきた。この間と同じ声だ。

 勢いよく背後を振り返ると、半分透き通った青年が、菫に微笑みかけていた。

 淡い茶色の着物の上に黒いトンビコートを羽織り、黒い帽子を斜めに被っている。

 声や服装からして男性なのだろうが、女性のように線が細くとても綺麗な顔立ちをしていた。長い髪を肩の位置でゆるく結んでいる。


 不思議と恐怖はなかった。これが夜だったらまた違ったかもしれないが。


「私は(のぞむ)。『選定者』と呼ばれるもの。以後お見知りおきを」


 青年は、茫然と立ち尽くしている菫に歩み寄ると、帽子を取って胸に押しあて、舞台役者がするような気取った仕草でお辞儀をしたのだった。





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